『フランス10日間徒然日記』 2000年5月20日(土)記

  
第3号
 
1日目の3―――パリ、ベンツの車窓から の巻
  
2000.7.31 発行
  
 違和感

 4日目以降のパリの宿がないっ! というショックで、わたしが落ち込んでいようがなんだろうがかまわず車(ベンツだった)は走り続け、わたしたちはようやくパリ市街に入った。左右に古い石造りの、屋根に煙突がある建物が連なり始める。

 わたしが最初に見たこのあたりのパリの街は、けっこうネオンサインがあったと思うけど、パリも中央部に行くと、景観保護のためにネオンや派手な看板は禁止されているそうだ。ふうん、徹底してるな。

 もちろん、新しく建物を建てる際にも規制があって、高さなどに制限があるとのこと。確かに、パリは全体的に街が低く、空が広かった。

 この街の美観を保つためには、信号さえも規制の対象になっているそうな。
 実際に街を歩くと、パリに限らずフランス国内では、信号は大きさ自体がそもそも小さく、なおかつ低い位置に目立たぬよう設置されていた。信号をとりつけている鉄柱も、樹木の幹を思わせる茶色に塗られていて、より目立たぬ工夫がされている。
 おかげでわたしと銀は最初、道を渡るたびに信号はどこだ? と探すはめになった。

 車がパリ市内のの中心部に近付くにつれ、街並がいっそうヨーロッパらしく(?)なってくる。
 が、何となく外の風景とわたしの意識に違和感、というか食違い、というか、なじみにくい感覚がある。

 この感じは、なんて言うのだろう?
 何だかわたし、パリに来たというよりも、パリを主題にしたテーマ・パークに来たみたいだ。
 車の外に立ち並ぶ古い石造りの建物は、当然ハリボテなどではなく、何百年という時を経て今もなお存在する本物のはずなのに。

 うーん、だめだ。パリに来たという実感がわかない。
 外の風景が本物であるということが、いまひとつ感じ取れない。
 ディズニー・ランドの本物くさい偽物の風景になれきっている世代の欠点だろうか? これって。
 ――などと自己分析してみる。
 

 車

 それでも、まあ、街並はきれいだった。
 しかし、そんな中でわたしをあきれたのが、路上駐車の多さ。道路の左右の路肩を、路駐の車がびーっしりと埋め尽くしているのだ。
 何じゃ、こりゃ? パリって路駐OKなのか?
※Attention! 実際にはいけないみたいです。違反切符を切られている人を見たし)

 この路駐は、パリ市内だけでなく、地方の街でも見られた。特に地方の駅では、駅前ロータリーが路駐の車で埋め尽くされていた。うーむ、この状態をどう判断すべきなのか。

 道を走っている車は、ルノー[Renaut:仏]にプジョー[Peugeot:仏]、シトロエン[Citroen:仏]、ベンツ(Mercedes Benz:独)、BMW(独)、ポルシェ(Porsche:独)、アルファロメオ(Alfa Romeo:伊)、フィアット(Fiat:伊)、ジャガー(Jaguar:英)など、ほとんどがヨーロッパ車。日本車は1日に1台見るかどうかだった。
 しかもその数少ない見た車というのが、なぜかスズキのワゴンR(笑→ちはるの以前の愛車)。

 フランス(だか欧州連合だか)では、日本車の輸入には数量制限があるそうなので、日本車メーカーでは利益率の高い高級車を売りたがるそうなんだけど、それでなぜワゴンRなんだ?(※わたしが買った新車のワゴンRで、値引きに値引かせて一切合切コミコミ120万円)

 その他に見た日本車というと、トヨタのトラックとランクル(Land Cruiser)のみ。そういや三菱のランサー(Lancer)、見なかったな。リュック・ベッソン[Luc Besson]の「タクシー2[Taxi2]」では走ってるはずなのに。
※Web版※Attention! 読者の方に訊いたら、日産のマーチががんがん走っているのを見たそうです。しかも、わたしも自分が撮ってきた写真をよく見たらマーチが写ってた 笑)

 日本ではけっこう見かけるシボレー(Chevrolet:米)やキャデラック(Cadillac:米)などのアメ車(アメリカ車)は、こちらではまったく見かけなかった(と思う)。
 フランスではユーロ・ディズニー(←ようするにアメリカ産)はまったく人気ないというし。国民性の違いか?

 ワゴンRなんて小さな車が走っているのに当初は驚いたけど、考えてみればヨーロッパ車にはけっこう小さな車があるのだった(2CVとかミニとかフィアット500とか)。

 そしてそんな小さな車の中で、フランス国内で見てよく覚えているのはスマート[SMART]。
 外観は、セロテープ・カッターが走っているというか、コクヨの修正テープ(わかる人だけわかってくれ)が走っているというか、なんとなく前につんのめったような形に見える、独特のデザインである。
 配色はだいたい2トーン(2色)。ただし色のバリエーションは豊富なので、何台かを交差点でまとめて見かけると、すっごくカラフルである。

 変わった形なのもカラフルなのも、それはそのはず。
 実はこのスマート、ボディ(車体)をデザインしたのが、あの有名な時計メーカーのスウォッチ[SWATCH]なのだ。そして載せてるエンジンはベンツ製。
※Attention! ただし、エンジンがベンツというだけなので、ベンツからは売ってないそうです。日本では「スマート・ジャパン」という会社から売られてます)

 排気量は日本の軽(=660cc)より大きい800cc。見たところ座席は2シート(seat)。車高はけっこう高いけど、全体的な大きさは日本の軽自動車よりも小さいか、どっこいどっこいだと思う。
 都内でもたまに走っているし、表参道の外車ディーラーのショウルームに展示されていたこともあるから、もちろん日本にも輸入されている。さすが、小さな車大好き日本人である。

 まあ、確かにパリ市内では、小さい車の方が便利であろう。路駐のせいで車道は幅がせまくなっているし、逆に路駐する時は、車が小さいほうが簡単だしね(笑)。 

 

 ホテル

 今日から3泊するホテルはバスティーユ[Bastille]にある。というわけで、車は通過点としてバスティーユ広場に到着。
 おおー、ここがフランス革命が始まった場所なんだ。

 バスティーユは、確かバスティーユ監獄というのがあったはずだが、フランス革命で真っ先に壊されたので、現在建物は残っていないそうな。
 いまは広場はロータリーになっていて、その中央にブロンズでできた塔のような記念碑がそびえ立っている。塔の先端には金色に塗られた彫刻が置かれていた。

 ロータリーのまわりにはテントの出店が連なっている。なんだろう、蚤の市のようなものだろうか?
 さらにロータリーの一角には、有名なバスティーユ・オペラ座が見えた。その他には、歩道にテラス席を出した、いかにもフランスなカフェなどが軒を連ねる。

 しかし、このバスティーユのロータリー、名前からすると歴史にゆかり深い落ち着いた場所かと思いきや、決してそんなことはない。ロータリーから各方向へ散らばろうとする車でめちゃめちゃ混雑している。その混み具合、まるでゆずりあいの精神がない中国の道路事情のようだ(経験的事実)。わずかなすき間に車の鼻先をつっこみあい、もはや身動きがとれないほどだ。
 ひー、どーすんだ、これ?

 しかし、一見では他国人にはわからないが、はやりその国独特の秩序はあるのであった。
 わたしたちが乗っている車も、じりじりとわずかずつ前進し、ようやく無事ロータリーを抜けた。そして道の左右に家具屋の多い、リュ・ド・フォーブール・サンタントワーヌ[Rue du Faubourg St-Antoine:フォーブール・サンタントワーヌ通り]へと入っていく。
*リュ[rue]=通り、フォーブール[faubourg]=郊外

 歩道には、手にフランスパンやパニーニ(※パンの一種)でできたサンドウィッチを持ち、食べながら歩く人の姿が多い。近くに店でもあるのかな?

 そのうちに、道の左側にモノプリ[MONOPRIX](パリで有名なチェーンのスーパーマーケット)発見。おお、ここにもあるんだ。
 自分たちの泊まるホテルから歩いてこれるかな? と思っていたら、しばらくして車は左に曲がった。この通り沿いに今夜の宿があるという。

 ホテルの名前はレジダンス・トゥルーソー[Ho^tel Et Re´sidence Trousseau]。
 最初、「トルソー」かと思ったので、彫刻でも飾ってあるのかと思ったのだが(※トルソー[Torso:イタリア語]=胴体だけの彫像のこと)、全然関係なかった。ちなみに、ホテル前の通りの名前もトゥルーソー[Rue Trousseau:トゥルーソー通り]だった。
* 「o^」とか「e´」はアクセント記号付きの文字という意味です)

 このリュ・トゥルーソーも左右の路肩をびっしり路駐の車が埋めている。それでもどうにか車を停めて歩道に降り立ち、ホテルを確認する。
 見上げたホテルは、左右をいかにもヨーロッパなベランダ付きの古い建物にぴったりと固められた(建物と建物の間にすき間がない!)、これまたどことなくヨーロッパな感じのする(笑。こればっか)建物だ。
 

hotel
ホテルのパンフレットに載ってる概観

 ふーん、と思いつつ何気なく視線を右に移動させると、何やら懐かしいモノが目に映った。
 何だっけ、あれ? ・・・あ、わかった、高千穂遙の「ダーティー・ペア」だっ!
※Attention! かなり古いアニメの名前です)

 げ、「エヴァンゲリオン」のポスターもあるぞ。
 何じゃ、こりゃ? と思ってよく見たら、そこは日本製アニメのポスターをショーウィンドウにべたべた貼りまくったアニメ・ショップらしかった。しかも、タイトルとかはカタカナなどの日本語のまま。
 えー、アメリカじゃよく聞くけど、フランスにもオタクっているのか? なんかショック。

 しかし、この後もパリ市内で、何度か日本製アニメのポスターを貼った店を見た。一番よく見たのはポケモンのポスターだった。
 聞いた話じゃ、日本製アニメの普及がきっかけで、日本語を勉強するフランス人が増えたとか。
 うーむ、素直に喜んでいいのだろうか?

 さて、ホテル。車からスーツケースをひきずりおろし、いざチェック・インのためにホテルの中へ。ホテルのフロントにいたのは、笑顔がすっごくチャーミングな黒人の女性だった。そしてここで初めて本場の「ボンジュール」というあいさつを聞く(笑)。

 ふーん、「Bonjour」の「ou」(ウ)の発音は、日本語の「ウ」よりも中国語の唇を突き出した「ウ」の発音に近いんだな、なんて思う。

 旅行会社の人にチェックインを任せていたら、「部屋で料理しますか?」と訊かれる。
 ここは、キッチン付きのアパート・ホテルなんだけど、食器類は貸し出し制なんだそうな。一揃い、何日借りても100F(約1,570円)。もちろん自炊するつもりで来たので借りる。

 手続きをすませていざ客室へ。部屋番号は510、ということなのでエレベーターに乗って5Fへ移動。着いたフロアは、まあごく普通のホテルの廊下や壁の雰囲気。ちょっと廊下が狭かったかな?
 部屋の各扉には、ワインのビンを詰める木箱のふたから作ったプレートが打ち付けられていた。部屋ごとにワインの種類が違うので、いろいろな絵柄がある。うーん、さりげなくこのホテルのオーナーの趣味と財力がかいま見えるぜ。

 わたしたちの部屋は廊下の突き当たりにあった。そしてドアを開けようとしたのだけれど、これがなかなか苦労する。
 なにしろ渡された鍵は、日本では一般的な合金製の薄っぺらくて小さく軽い鍵ではない。まるで中世の頃の牢屋の鍵みたいな形をした、厚みがあって大きくずっしりしたものだったのだ。普通の鍵で開けるように、すぐにガチャピンとはいかない。鍵を回し切った後に、もう一押しする感じでようやく開ける。
 ふう、これって開けるのにもコツがいるけど、合鍵つくるのも大変そうだな――って、合鍵つくれるのか、これ? なくしたらえらいことになりそうだ。

 わたしたちが泊まる部屋は、本来は3〜4人向けの部屋だった(2人向けの部屋が空いていなかったので)。
 室内は2部屋に分かれていて、1部屋は完全に寝室。2段ベッドと、むき出しのままの簡単な洗面台がある。壁にはまるでキャビン(船室)を思わせる丸い小さな窓がひとつ。変わった窓の形だな。
 窓からは、向かいの建物の白い壁と、草が生えた小さな中庭のような空き地しか見えなかった。

 もう1部屋は、ぴったりくっつけられたシングル・ベッドが2つと机が1つ、そしてキッチン。テレビはなぜか街頭テレビのように壁の上の方にアームに乗せて取り付けられている。

 4面あるうちの壁2面の上部には、ぐるりと棚がつけられていたり、もう一面の壁には30cmピッチくらいで簡単な棚が作り付けられていたり。
 ベッドや机など、物がぎっちり詰まっているので、さほど空間的には広くない部屋なのだが、どういうわけか収納力は抜群である。
 


パンフレットに載ってた室内の写真。
もっとせまかったけど、確かにこんな感じ。

 えらく変わった雰囲気の部屋だなー、と思っていたら、このホテルのオーナーというのが大のヨット好きとかで、船室をイメージした部屋の内装になっているのだそうな。ああ、どうりで。
 そういや、エレベーターの中にも、ヨットのロープ・ワークの見本のミニチュアが額に入れて飾ってあったっけ。
 後で気付いたが、フロントのある階のエレベーター・ホールには、ボトル・シップや大きな貝殻、ガラス製の浮きなど、各種海グッズが飾られていた。
 ふむふむ、フロントの女性といい、感じのよいホテルである。

 バスルームは、日本のユニット・バスよりは広いという程度。バスタオルや小さなタオルはあり、シャンプーと石鹸、使い捨てのコップもある。歯ブラシはない。でも、ハンド・シャワーだし、ドライヤーもあるので、わたし的にはOK。

 このホテルにずっといられればいいのだが、今のところその見通しはまったくたっていないのだった。

おわり

  
 ● 今回のフランスMEMO 
 
シャルル・ド・ゴール―2

 前回、ドゴールが2度フランスを救ったうちの「呼びかけ」の話をしましたので、今回のアルジェリア関連の話をしますが、このアルジェリアの事件に関しては、いくつかの本を読むと必ずしもドゴールを英雄として描いていません。

 なんでやねん? という感じですが、確かに事実をストレートに見ると、ドゴールは英雄にも悪役にもなれてしまうようです。

 それでは、ドゴールがいったん政権を退いた後の1946年から見ていきましょう。

                    

46年 1月、ドゴール、政党との対立により辞任
    10月、国民投票で、議会の強い権限を認めた第四共和制憲法が成立。
    11月、選挙で共産党が第1党のブルム内閣が成立。インドシナ戦争
    が始まる。

47年 共産党閣僚が政府から排除され、社会党、人民共和運動(MRP)、
    急進社会党が中心の中道(第三勢力)政治が始まる。
    世界ではアメリカとソ連の冷戦が始まる。

 国内では政権交替であれこれあったフランスですが、国外には植民地問題を抱えていました。

 今でもフランスってタヒチ(フランス領ポリネシア)やニューカレドニアなどの植民地(海外領土)を持っていますけど、この頃はインドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)やアルジェリア、チュニジア、モロッコなどもフランスの植民地でした。

 当時のフランス領インドシナでは、45年9月にベトナム民主共和国が樹立、ラオスとカンボジアもそれぞれ独立を宣言していたのですけど、フランスはこれを認めず、46年11月には全面戦争に突入します。これがいわゆるインドシナ戦争です。

 それにしても、自分たちがナチス・ドイツに国土を占領されて辛酸をなめたっていうのに、他国の独立を認めないっていうのは、どういう心理なんでしょうね。わたしのような人間には、いまひとつよくわからないですけど。それが国というものなんですかね。

 ま、それはともかく、このインドシナ戦争は7年半も続きましたが、54年5月、ベトナムのディエン・ビエン・フーでフランス軍が降伏します。
 そして7月のジュネーブ協定がフランス・ベトナム間で結ばれ、フランス軍の撤退が決まり、ようやく戦争は終結しました。

 話はそれますが、こうしてみるとベトナムって強いですね。アメリカにも勝っちゃうわけだし(こういう解釈でいいのだろうか?)。いろいろ大変だっただろうけど。

 インドシナ戦争が終わったのもつかの間、そのわずか4か月後の54年11月には、民族解放運動が高まっていたアルジェリアとの間で戦争が始まります。チュニジアやモロッコでも同様の運動が始まっていたようで、これを抑圧するために、フランスは軍を派遣しています。

 これだけいくつもの国に長期間軍を派遣していれば、当然お金がかかります。当時のフランスにおける軍事費は、相当な額だったようです。
 それでも、56年3月にはモロッコとチュニジアが独立を果たしました。

 しかし、アルジェリアとの戦争は長引き、泥沼化します。

 そんな中の58年5月13日、当時の第四共和制政府に不満を持っていたアルジェリア駐在軍とコロン(入植者)が、MRPのフリムラン政権の成立を拒否して反乱を起こし、「ドゴール将軍、万歳!」を叫んでフランス本土に進撃の構えをみせました。

 第四共和制政府は46年に成立していますから、ほぼその直後からインドシナ戦争が始まり、それが終わったらまたすぐにアルジェリア戦争が始まったので、この時代のフランスってほとんど戦争しっぱなしだったわけなんですけど、なんと58年のこの反乱が始まるまでに、政府では24回内閣が交代し、首相は17人も登場しているのです。これじゃあ、戦争に対する政策もまとまらなくて、長期化するわけですね。

 とまあそんなわけで、アルジェリア駐在軍とアルジェリアに入植していた人々の間では政府に対する不満と、強いドゴールの登場を望む声が高まっていったのです。
 ちなみにこの人たちは、アルジェリアの独立には反対の立場をとっている人です。
 この後の流れはちょっと年表にしてみます。

58年 5月13日、アルジェリア駐在軍とコロンによる反乱始まる。
    5月24日、反乱軍がコルシカ島を占領。
    5月28日、反乱軍が蜂起するきっかけとなったフリムラン内閣が辞職。
    5月29日、第四共和制最後の大統領ルネ・コティの要請を受諾して
    ドゴールが内閣首班となる。
    6月1日、国民議会の新任を得て、ドゴール政権が成立。
    6月4日、ドゴール、アルジェリア総督府のバルコニーで反乱軍を前に演説。
    9月28日、第五共和制憲法が国民投票で可決。
    12月21日、ドゴール、大統領に当選。その後、ドゴールはアル
    ジェリアの独立を容認。
62年 国民投票によりアルジェリア独立決定。
    3月。エビアン協定により、アルジェリア戦争が終わる。アルジェリ
    ア、独立達成。

 以上が、フランスを国内外にわたって危機におとしいれたアルジェリア戦争の結末でした。

                    

 こうやって書くと、ドゴールが政権の座につくことで反乱が終わり、アルジェリアとの戦争も終結をむかえたわけで、そうするとドゴールはフランスを救った英雄になるのですが、違う見方をすれば、ドゴールは反乱軍の力を背景に武力で、つまり事実上のクーデターで政権を取った独裁者になります(実際、どちらかというと日本の評価は後者。しかし、ドゴールは大統領就任後、すぐにアルジェリアの独立を容認する立場をとったので、アルジェリアの独立に反対していた反乱軍から命をねらわれることになります)。

 しかも、ドゴールは第五共和制憲法で、大統領の強い権限を認めさせました。また、62年には大統領を国民投票で選出する方式に改めています。これにより、大統領を拒否できるのは国民だけとなり、より大統領の権限が強化されました。このあたりもドゴールを独裁者とみなす理由のひとつのようです。

 そして62年の国民投票で、ドゴールはフランソワ・ミッテラン[Francois Mitterrand]を破って大統領に選ばれています。

 ところで、フランスの大統領の任期は7年ですが、これは世界的に見ても長いみたいなんですけど、これは第四共和制を踏襲してドゴールが決めたそうです。
 7年の任期は長すぎるだのなんだのフランス国内でも議論はあって、前大統領のミッテランさんも現大統領のシラク[Jacques Chirac]さんも、7年の任期は改めてもう少し短くする、なんて大統領就任直後には言ったらしいんですが(つまり、自分はドゴールのような独裁者ではないという意味らしい)、未だに実現してませんね、任期改定。
 ミッテランさんなんて、このドゴールによる大統領の権限強化を「永遠のクーデター」なんて言ったくせに、それで結局14年も大統領やってたわけだし。みんな都合がよいものです。

 その後、ドゴールは69年4月の上院改革などの国民投票に敗れて政界を引退。そしてその約1年半後の70年11月9日に亡くなりました。

                    

 ドゴールが、本当に英雄かどうかはわたしにはわかりません。フランスで初めて核実験をやったのもこの人だしね。

 でも、まあ、フランスでの第一歩をシャルル・ド・ゴール空港で踏む人も多いでしょう。
 せめて地名か人名かくらいは知っていたほうが(そんなの、わたしだけか? 笑)、第一歩を踏む瞬間の感慨もまた違うかと思いまして。

 でも地元ではロワッシー[Roissy]空港なんですよねー。こだわっているのは外国人だけかもしれません。

 それでは、この節はこれにて。

参考文献:
・産経新聞「20世紀特派員」−ドゴール主義

※このコーナーは不定期です。 

 

 ● 今回のおこづかい帳 
 
今回もなし

小計:0円
合計:16,360円

(※レートは2000年5月当時、1F=15.7円で計算しています)

 

 ● 編集後記 
 
  車&ホテルリポートでした。

 車は聞きかじりのところもあるので、間違いがあったら請御容赦です。
 ホテルは結局、このバスティーユで泊まったところが一番よかったかなあ。
 もーちょっと部屋の中が広ければ(というか物がなければ)文句なしだったんですけどね。立地はよかったので。

 一泊いくらかはわからないんですが、某『地球の歩き方』にも載っているホテルなので、興味のある方は調べてみて下さいませ。

 それではまた次号でお会いしましょう。

 


1日目の1――海を越えて山越えて、クレーターも越えてフランスへGo! の巻
1日目の2――ロワッシー → パリ、そは茨の道なり の巻
1日目の3――パリ、ベンツの車窓から の巻
1日目の4――カフェ、その心得(こころえ) の巻
1日目の5――オレンジ色の夜 の巻
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