『フランス10日間徒然日記』 2000年5月24日(水)記

  
第30号
 
5日目の3――これがお城だっ! アンボワーズ城 の巻
  
2000.12.25 発行
  
 アンボワーズ城[Cha^teau D'Amboise]

 バスを降りた時に、ちらっとお城が見えた方向へ歩いて行く。
 さて、けっこう大きそうなお城だけど。入り口はどこだろう?
 通りに出ている方向案内に注意しながらえんえん歩いて行くと、くずれかけたとんがり屋根のある建物が目についた。どうもこれはかなり古い教会らしい。地図にはサン・フロランタン教会と載っている。
 そしてこの付近に「お城の駐車場はこちら→」というような看板があった。

 ふつう、駐車場と施設の入り口は近いでしょう、という推測どおり、その看板のあるところで道を右に曲がり、可愛らしい店構えのチョコレート屋やパン屋、土産屋が並ぶ細くゆるやかな坂道をのぼっていくと、お城の入り口らしい、馬や馬車でのぼっていけそうな横幅のあるスロープがあった。
 試しにそのスロープを行ってみたらやっぱりビンゴ。お城の入り口だった。

 時間的に、まだお城の開城時刻9時(※季節によって違いますが、5月は9時)ちょっと前ではないか、と思ったが、チケット売り場の窓口を見たら、もうチケットを売り始めていた。お一人様40F(約628円)を払う。ここのチケットはお城の写真が印刷されていた。ちょっとうれしい。

 チケット売り場の近くに、各国語版のお城の解説書が置いてある。日本語版をもらってすぐ後ろの入り口通路へ。
 

アンボワーズ城ガイド
アンボワーズ城でもらったガイド。
表紙の日本語はロワールの川面に
映ったかのように逆さま。
中はふつう(笑)。
  アンボワーズ城入場券
こちらは入場券(入城券?)。
めずらしく写真入り。
値段とかは裏に印刷されていた。

 ここも昔は馬で通ったんだろうなー、と思わせるようなスロープのトンネルをくぐって抜けると、正面にトイレとまだ開いていないお土産屋さんがあった。
 そういやトイレ行きたいんだよな、と思い近付いて行ってみると、中からこのお城の職員らしき女性が出てきた。
 まだここも準備中か? と思って、女性にトイレを指差しながら「OK?」と訊いたら「どうぞ」というような言葉をにっこり笑顔で言われた。よってさっそくトイレへ。
 ちなみにここのトイレはチップ制。相場として2F(約31円)置いてくる。

 トイレを出てつづら折りになったスロープをさらにのぼると、右手の広い緑の芝生がきれいな庭の向こうに城館と塔が見えた。
 おおー、これがフランスのお城というものか。

 白い石造りの壁に、青灰色の三角屋根。建物の角にはいくつかの円い塔がたてられ、そのうえにはやはり青灰色のとんがり屋根がのっている。
 うーん、お城だ。まさにお城だ。

 アンボワーズ城の歴史は、ガリア・ローマ時代に始まったという――ってガイドに書いてあるけれど、そもそもガリア・ローマ時代っていつだ?
 で、調べたのだけど、ガリア・ローマ時代は○○年〜××年です、という風に載っている本がなかったのでひとつよくわからなかった。

 ただ、ガリアというのは古代フランスのことなので、このガリアをローマが支配していた時代をガリア・ローマ時代というらしい。

 そう考えると、カエサル(ジュリアス・シーザー)がガリアをローマの属領としたのは紀元前52年(50年という話も)、フランス王国の基礎を築いたフランク族がローマ軍を破ったのが486年というから、紀元前50年前後〜5世紀末くらいまでのことをガリア・ローマ時代というんだろうなあ。
※Attention! 正確ではないので、知りたい人は調べてわたしにも教えてね 笑)

 ま、とにかくそれくらい昔からこのあたりには人が住んでいて、お城も造られてきた、ということである。
 アンボワーズ城は15世紀のルイ11世とその子どもであるシャルル8世の時に最盛期を迎えたとのこと。その当時はもっとアンボワーズ城は広くて、現存するのはその一部だそうだ。でも、わたしたちが見たアンボワーズ城も十分広かったなあ。

 アンボワーズ城にも、もちろんいろいろな話が伝わっている。一番おぼえやすいのは(和風に言うと)「シャルル8世が鴨居に頭をぶつけて死んじゃったお城」という話だろうか?

 もうすこしガイドに沿って詳しく話すと、シャルル8世(在位1483〜98年)がアンボワーズ城の回廊を通るために、高さの低い回廊の入り口をくぐろうとしたら額をぶつけてしまったのだそうである。でもその時は何ともなかったので放っておいたらしばらくして倒れ、そのまま死んでしまったという内容である。

 頭を強く打ち付けたら、油断せずに気をつけましょう、という教訓話になるのだろうか、これって。
 しかし、歴史に名を残すにしても、こういう残り方はちょっといやだな。

 さてお城。いつだったか、銀がパリにはツバメがいない、と言っていたような気がするが、このお城の屋根付近にはびゅんびゅんツバメが飛びかっていた。

 お城に入る前に、城館前の庭を歩いて城壁の端っこまで行き、アンボワーズの街を眺めてみる。
 すると、さすがお城、見晴らしがいい。ロワール川からお城がある側の陸地はゆるやかな丘陵になっているので、煙突のある屋根が右から左へと斜面を描いている。
 家並みの向こうは一面の森。でも高い山はない。だから空がすごく広く見える。

 別角度からロワール川を見てみる。すると、お城のすぐ近くに橋があり、その向こうの陸地(後で確認したら川の中州にできた街だった)にかかっていた。
 よし、あの橋の上からお城の全体写真が撮れるよう、時間を調整していこう。

 城館前庭には小さな教会がある、と思ったら、これは礼拝堂だった。サン・テューベル礼拝堂[Chapelle Saint Hubert]というそうな。あまりしげしげと見た記憶がないんだけど、ここもサン・ガシヤン聖堂と同じフランボワイヤン様式の装飾がほどこされていたな、ということはおぼえている。
※発音確認 「Saint」の「t」と、「Hubert」の「h」が落ちて「u」がリエゾンし、「テュ」になるらしい。「u」=「ユ」)

 いざお城の中へ。
 お城内部はだいたい12部屋ほど見学できるようになっていて、それぞれの部屋の詳しい解説が、チケット売り場でもらってきたガイドに書いてある。

 しかし最初は「おお、これがお城というものか」と、ただひたすら初めて見るお城の内部に感心しまくっていたので、何があったのかあまりよく憶えていない(笑)。

 何しろ、お城は木でできている国から来た人間だから、床も壁も天井も、部屋のすべてが石でできているお城、というだけで、もうすっかりめずらしくてメモをとることも忘れていたようだ。

 おまけに部屋の中には、鈍い銀色の光をはなつ甲冑やら古くてどっしりした家具やら、色がすっかり褪せているけど当時の風俗をしのばせるような絵が織り込まれたタペストリやらが飾られていて、もうすっかり中世ワールドである。
 ちはる、めずらしく食品売り場以外でウハウハである。
 でも、これだけ石ばかりだと冬はきっと寒かったろうな。

 第5室くらいになると、ようやくわたしも冷静になったようで、日記にメモが残っている。
 ガイドで確認すると、この部屋は「会議の間」。大きな暖炉があって、その暖炉にいろいろな動物の姿が刻まれていた。例えば、猿が桃か杏を食べてる様子とか、インドネシア・ガルーダ(これは会社の名前か?)みたいな鳥とか、リスが何かの実をかじっている姿とか。

 また、この部屋はフランス王家のユリの模様と、5本の葉がある松葉みたいな模様で、壁やら柱やらを飾られていた。ガイドによるとこの松葉模様は、ブルターニュ(公)のアーミン模様というそうな。

 第6室へ移動。この部屋には「酌をする召使いの間、あるいは士官の間」という名前がついている。長い。

 部屋の様子はあまりよくおぼえていないが、部屋の壁ぎわに置かれたパイプ椅子に座っている警備(監視員?)の女性が、クロスワードパズルを解いていたのを見た。のんびりとしたものである。

 この部屋は名前からすると召使いたちのための部屋みたいだが、実際には王様に飲み物を出すための部屋だったそうな。
 飲み物を飲むためだけの部屋か。うーん、ゴージャスというか、いちいち移動するのが面倒くさいというか。

 ガイドにはこの部屋の壁はタピストリーで飾られている、と書かれている。
絵のテーマは聖書などからとられていて、内容は下記の通り。

・ペルシャのダリウス3世がアレキサンダー大王に崇敬する場面
・エステル女王の晩餐会
・モルデカイの凱旋
・コンスタンチヌスの夢の後の勝利

 ちなみにわたしには全然わかりません。
※Attention! 「今回のフランスMEMO」を参照してください)

 第7室は「アンリ2世の寝室」。写真を見るとベッドがあるから、確かに寝室である。
 メモには天井から床まで届きそうな大きな窓の窓枠のデザインが「木」になっている、と書かれている。

 そうそう、確かこの部屋の窓枠は、木でできていたのではなく、石を「木」そっくりに彫刻してあったのだ。床近辺の窓枠は「根っ子」の形に刻まれていて、ひゃー、こってるなあと感心させられた。
 しかもこの石でできた「木」の枝には、「金貨の入った袋」の彫刻がぶらさがっていた。
 つまり、アンリ2世はこの寝室で、「金のなる木」を夢見ていたということか?
 うーん、すばらしいっ。

 さらにこの部屋には「だまし絵」が彫られた椅子があるという。
 だまし絵? どんなんだ? と思って探したら、背もたれに遠近法を使って奥行を表現した風景が彫刻された木製の椅子があった。どうもこれが「だまし絵」らしい。

 へえ、この椅子は16世紀にはあったというとこだから、その時代にはまだ遠近法ってだまし絵になっちゃうのかな? なるほどねえ。
※Attention! 西洋の遠近法は15世紀のルネサンス期に確立したそうです)

 第8室は小さな部屋だった。正確には部屋ではなく、ここは「綱製造の通路」だそうな。
 暖炉の上の茶色いレンガに、サラマンダー(火を吹くトカゲ)が彫られた木製のレリーフがはまっている。
 おおー、確かこのサラマンダー、アンボワーズ城の目玉のひとつなんだよな。
 このサラマンダーはフランス国王の印とのこと。なのでこの後、あちこちのお城でサラマンダーを見ることになった。
※Attention! サラマンダー=サラマンドラ(salamandra)とも)

 サラマンダーの下に、白い石だか石膏でつくられた紋章がある。楯のまわりを細い綱でつないだ帆立貝みたいな貝殻が囲んでいる、という意匠なのだが、その楯は真ん中から右と左で模様が違う。どっちがどっちだかはおぼえていないのだが、片側がフランス王家のユリの紋様、もう片方が5本松葉みたいなアーミン紋様になっているのだ。ふうん、ふたつの貴族が結びついた、みたいな意味なのか?

 その下の白い暖炉は前面に綱模様の彫刻がほどこされている。この綱模様がけっこうおもしろかった。

 メモにはさらに、誰かが殺されている場面のレリーフ(もしかしたらタペストリだったかも)があった、と書き残されている。誰だったんだろう?

 この後は3階へ見学の場所を移したのだが、ピアノがあったりなんだりと、急にすっかり今時の部屋になってしまった。
 あれれ? いままでは石の冷たさが魅力な中世のお城だったのに。

 なんか、平安時代の貴族の屋敷を楽しんでいたつもりが、いきなり明治の鹿鳴館に迷い込んでしまったような感じである。
 つまらん。というわけで、あまり見学に熱が入らなかった。

 この後の第11室は外。ミニームの塔[Tour des Minimes]とか騎兵塔[Tour des Cavaliers]と呼ばれている建物の屋上に出られる。
 直径12メートルという円塔の屋上は広々としていて、しかも眺めがいい。正面にはロワール川、足元には街並み、左側にはお城の城館が見える。

 よっしゃ、この眺めはぜひ写真に撮っておかなくては、と思って城館と街の眺めをおさめた写真などを撮ったのだが、どうもこの時見えていた城館には、「アンボワーズの陰謀」(※次号MEMOでやります)と呼ばれる事件の罪人を吊った「謀反人のバルコニー」というのがあったらしい。

 あうう、ここは首吊り処刑現場かい。
 えらいもんを撮ってきてしまった。

 まあ、その時は何も知らなかったので、のん気にばしばし記念撮影。

ミニームの塔
直径12メートルのミニームの塔。
ね、広いでしょ?
  謀反人のバルコニー
ミニームの塔からの眺め。
謀反人のバルコニーが左側にある。
見えるひとには何かが見える(ウソ)。

 最後の12室はこの塔の中。馬で塔の屋上までのぼれるように、白い石でできた塔の内部は階段ではなくスロープになっている。へー、おもしろい。
 万里の長城なんかも馬が4列横に並んで通れるようになってるっていうけど(とても通れないような急斜面もあるが)、やっぱり昔は馬による機動力や搬送能力が求められていたんだなあ、などとちょっと思う。

 塔の真中をつらぬく支柱のまわりをくるくるまわって斜面を降り、地上へ。
 塔の出口にある柱の上には、フランス王家のユリの紋章がついた盾を支えるふたりの人物の彫刻があった。

柱の飾り
ユリの紋章が刻まれた盾を
かかげる人物。
飾りといえど働いてます。
  ユリと貝殻のステンドグラス
お城から出たところにあった
ステンドグラス。
ユリの紋章がついた盾のまわりを
貝殻が囲んでいる。

 この後は広いお庭を散策。さすがに広いのでスプリンクラーで芝生に自動で水を撒いていた。
 庭の奥の方まで行くと、昔はここもお城の一部だったんだろうな、と思われる城門があった。
 だいぶ形が崩れているし、まわりに木々が生い茂ってしまっているせいか、すっかり「つわものどもが夢の後」みたいな雰囲気だ。

 門の奥まで行ってみたかったが、入っちゃだめそうだったのであきらめて引き返した。

 さて、お城は十分堪能した。次は全体像を写真に撮らなくちゃ。

つわものどもが夢の後
「つわものどもが夢の後」。
実際にはきっと奥に庭園の管理事務所があるのだろう。
なーんて書くと夢がない。

おわり

  
 ● 今回のフランスMEMO 
 
タペストリ(tapestry)の登場人物たち

 えー、タペストリ。日本じゃタピストリとかタピスリーとか言ったりもしますね。フランス語では「tappisserie」だそうです。

 フランスでは、あちこちでタペストリを見ました。まあ、古い時代に作られたものだから、当然織り込まれている絵のテーマも古くて、わたしにもわかるものがあれば、全然わからんものもある、といった次第でした。

 とりあえず今回出てきた分に関しては、調べるとどうにかわかりましたので、下記の内容を参考にしてください。

                              

ペルシャのダリウス3世がアレキサンダー大王に崇敬する場面

 ペルシャ(ペルシア)、ようするに現在のイランですね。ダリウス三世はアケメネス朝ペルシャ(紀元前559〜330年)最後の王(皇帝?)です。ダレイオス三世ともいいます。

 で、アレキサンダー大王(在位336〜323年)は、弱冠19歳で即位したギリシャのマケドニア王国の国王です。アレクサンドロス三世ともいいます。

・・・・・・・・・・・・・・

 アケメネス朝ペルシャは紀元前500年頃にオリエントを統一し、紀元前494年前後からは10年以上にわたってギリシャに遠征しました(ペルシャ戦争)。
 というわけで、この頃のペルシャとギリシャは仲、悪いです。

 その後の細かい話は省きますが、ペルシャ戦争の復讐のために、ギリシャはマケドニア軍を中心に連合軍を組織し、オリエントへと向かいます。これが有名なアレキサンダー大王の東方遠征です。

 そしてまず紀元前333年、アレキサンダー大王はイッソスの戦いでダリウス三世率いるペルシャ軍を破り、紀元前331年にはアルベラの戦い(ガウガメラの戦い)で、またしてもダリウス三世のペルシャ軍に圧勝します。

 この翌年にはアケメネス朝ペルシャは滅び、ダリウス三世も殺されてしまいますから、タペストリの「ペルシャのダリウス3世がアレキサンダー大王に崇敬する場面」というのは、紀元前333?330年の間に起こったできごとなのでしょうね。

 でも、イッソスの戦いでは、ダリウス三世は攻めてくるアレキサンダー大王の軍を見てビビって逃げてしまったといいます。「崇敬」なんかできないんじゃないの?? って感じですけど。

                              

エステル女王の晩餐会
モルデカイの凱旋

 エステルは旧約聖書の『エステル記』の主人公です。モルデカイはエステルの養父で、ふたりともユダヤ人です。時期的には紀元前480年前後のお話になります。

・・・・・・・・・・・・・・

 養父モルデカイのすすめによって、エステルは王妃ワシテに代わってペルシャ王アハシュエロスの王妃となりました。
 モルデカイは王の暗殺計画があることを知って、エステルを通じて王に警告を送ったりしたことがあります。

 そんなある日、モルデカイは大臣のハマンに敬礼をとることを求められましたが拒否しました。
 これに怒ったハマンは、国内の全ユダヤ人を虐殺する法令を王からだましとります。当時のペルシャには100万人以上のユダヤ人が住んでいましたから、これは大問題です。

 もちろんユダヤ人のエステルはこの法令を王に撤回してもらおうとして、いろいろ努力します。そしてそのための策のひとつとして、王を招いて宴会を開くのです。

 タペストリの「エステル女王の晩餐会」というテーマは、このエピソードに由来するのでしょう。

 この宴会の後すぐには法令を撤回してもらう機会を得られなかったエステルですが、二度目の宴会の後で、王にハマンが要求した法令が実はユダヤ人を滅ぼすためのものである、という陰謀を告げることができました。

 そしてハマンがどーなったかというと、

 その時、王の前にいた宦官のひとりハルボナが言った。「ちょうど、王によい知らせを告げたモルデカイのために、ハマンが用意した高さ五〇キュービットの柱がハマンの家に立っています」。すると王は命じた。
 「彼をそれにかけよ」。こうしてハマンは、モルデカイのために準備しておいた柱にかけられた。それで王の憤りはおさまった。(エステル記第7章9-10)

 んー、まさに墓穴を掘ったわけですね、この人は。

 その後、王は逆にユダヤ人を保護する法令を出し、モルデカイは高い位につき、めでたし、めでたしというわけです。
 「モルデカイの凱旋」というのは、戦いといっても剣の戦いではなく、このハマンに勝ったことを指すんでしょうかね?

                              

コンスタンチヌス(コンスタンティヌス)の夢の後の勝利

 たぶんこのコンスタンチヌスは、ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝ともよばれたコンスタンティヌス一世(在位306?337年)のことでしょう。

 当時のローマ帝国は4分割統治されていたのですが、そのローマ帝国を再統一し、キリスト教を公認した人として有名です。統一される以前のコンスタンチヌス一世は、父親のコンスタンティウス一世(ややこしい名だ・・・)の後を継いで西の副帝をつとめていました。

・・・・・・・・・・・・・・

 コンスタンティウス一世の死後、ローマ帝国の4分割統治に混乱が生じ、複数の皇帝たちによって主導権争いが起っています。

 そんな中、312年にコンスタンチヌス一世はマクセンティウス皇帝と戦うことになりました。

 その前夜、コンスタンチヌス一世は「汝、これにて勝て」という言葉が添えられた十字架の幻(夢?)を見たそうです。
 それでその言葉を添えた十字架を旗印にし、ティベル川のミルヴィウス橋でマクセンティウス皇帝との戦いに挑んだら、本当に勝っちゃったのです。

 というわけで、タペストリの「コンスタンチヌス夢の後の勝利」は、この戦いに勝った場面を描いていたのでしょう。

                              

 む〜、ヨーロッパの人々は、これらのタペストリを見てすぐに意味がわかるんでしょうかね。

 ヨーロッパの文化を理解するには、ギリシャ神話とアーサー王の物語とシャルルマーニュ物語の3つを押さえておかなければいけない、と聞きますけど。
大変ですな、ヨーロッパを研究している人は(←他人事)。

 では、今回はこれにて。

※このコーナーは不定期です。
 

 ● 今回のおこづかい帳 
 
アンボワーズ城:40F

小計:40F
合計:1,209.57F(約18,990円)+16,360円

(※レートは2000年5月当時、1F=15.7円で計算しています)

 

 ● 編集後記 
 
 アンボワーズ城リポートでした。

 最初のお城で結論を言うのも何なんですけど、今回ロワールで行った4つのお城の中で一番よかったのが、このアンボワーズ城でした。
 もちろん、どのお城もそれなりによかったのですけど、中世の雰囲気が一番よく残っていたのがアンボワーズ城だったと思うのですよ。お城?って感じがしてとってもよかったです。

 当初の予定ではアンボワーズ城には行くつもりがまったくなかったので、ちょっと得したような気分でした(^ ^)。

 それではまた次号でお会いしましょう。

 


5日目の1――バスに乗ってアンボワーズへGo! の巻
5日目の2――洞窟の家にびっくり/アンボワーズへの道 の巻
5日目の3――これがお城だっ! アンボワーズ城 の巻
5日目の4――あざみの花咲く山道を越えて/シュノンソーへ の巻
5日目の5――貴婦人たちの館、シュノンソー城(1) の巻
5日目の6――貴婦人たちの館、シュノンソー城(2) の巻
5日目の7――貴婦人たちの館、シュノンソー城(3) の巻
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