ラムソンスクエア   混沌の街サイゴン 2003.03.14up
    ラムソンスクエア

文・写真/山下晃


雑貨、オーダーメード、ベトナム料理...今のホーチミン市は男性の僕から見ても、綺麗な物、おいしい物が日本では考えられない値段で手に入る魅力的な街です。
その一方で、この街はベトナムの中でも歴史的にとても変わった変遷を経てきた特異な場所でもあります。ここでは、あまり詳しくないながらも、ホーチミン市とベトナムがたどってきた歴史と現在を、本当に簡単に、でもわかりやすくご紹介したいと思います。

「東洋の真珠」と呼ばれた現在のホーチミン市は、1861年にフランスによって制圧されています。それ以前は、北部のハノイ近郊から広がったと言われるキン族(現在のベトナム人)が南下してきてこの地を開拓していました。
もともとヤーディン (Gia Dinh) と呼ばれていた地域だったのですが、この南部ベトナム一帯に広がっていたゴンの木(カポック)に由来して、1867年にフランス政府が正式にサイゴン (Sai Gon) の名称を制定しています。当時ベトナムを治めていたグエン王朝は、フランスに領土を割譲することに同意し、サイゴンもCoffin という建築家によってコロニアル様式の建築物が次々に建てられていきました。
これが現在の、市民劇場であり、人民委員会であり、サイゴン大教会なのです。

統一教会
市民劇場

統一教会

市民劇場
サイゴン掌握をもってフランスのコーチシナ (Cochinchina) 支配が完了し、カンボディアやラオスへ向けたメコン川探検隊のベース都市としても重要な役割を果たしました。
そして1880年、ベトナムで最も古い歴史を持つコンチネンタル・ホテルが、現在のラムスン・スクエアー(市民劇場前の広場)に面して建てられています。このホテルは、現在に至るまで歴史上の人物や作家など、多くの富裕層やVIPによって利用され、まさにサイゴンの歴史と共に歩んできました。
そして、この10年後、後にホー・チ・ミンを名乗るグエン・シン・クンが、中部貧困地域でもあるゲ・アン省で産声を上げています。

植民地支配という不利益を被りながらも、こうしてサイゴンの基礎が築かれて港を含む貿易の拠点としても発展を始めたのです。
その一方で、列強支配から逃れたいという自然な愛国運動も高まり、1911年には、現在のホーチミン市ニャロン桟橋(ホーおじさん記念館)から、グエン・アイ・クオック(阮愛国)という名で、若きホー・チ・ミンがマルセイユへ向け厨房要員としてフランス船に乗り込んでいます。
そして第2次世界大戦と同時にインドシナは日本軍による進駐を受け、フランスと同時支配のつらい時代を迎えます。世界中を周りながら、祖国を救う道をマルキシズムに求めたホー・チ・ミンが中国から祖国へ30年ぶりに戻ってきたのが1941年。そして、その4年後に日本の敗戦。
これと同時にホー主席が先導した8月革命が成功し、翌9月2日にハノイで読み上げられたのが独立宣言です。この出来事は、ホーチミン市を初め多くの都市に名づけられた「8月革命通り」と、現在でも数少ないベトナムの休日になっている独立記念日として今日にまで伝えられています。

第2次世界大戦後もフランスはベトナムへの干渉を続け、第1次インドシナ戦争がベトナムとの間で発生します。
これは、ディエンビエンフーの戦いでベトナム側の勝利となり、南北統一選挙がジュネーブで約束されました。
しかし、インドシナ地域での共産圏拡大を阻止したいアメリカは、1955年、サイゴンにベトナム共和国を樹立させました。これが第2次インドシナ戦争とも呼ばれるベトナム戦争の発端です。
いつしか殖民支配から冷戦構造の犠牲という形に変化する中で、東西ドイツや朝鮮半島と同じような1国の分断が決定的になっていきました。
北ベトナム政府のホー主席は戦争中に亡くなっていますが、最後はベトコンと呼ばれる南ベトナム解放民族戦線、そして北ベトナム政府が、この戦争を勝ち取り1975年4月30日に、現在の統一会堂の屋上に統一国旗がたなびく事になりました。
当時ここはアメリカ進駐時代を象徴する南ベトナム政府官邸でした。
そして忘れてはいけないのが、この戦争末期に行われたアメリカ軍による除草剤の空中散布で、これによってホーチミン市の海側、山側、そしてメコンデルタは取り返しの付かない悲劇に見舞われました。

そしてベトナムは南北統一の社会主義共和国となり、長い間使われてきた名称サイゴンから、ホーチミン市へと名前が変えられたのです。
これは、北ベトナム政府が、サイゴンに対して釘を刺す意味も大きく、当時西側資本で潤っていた多くの財産は国有化という形になっていきました。
この前後に、海外へ流出した富裕者層が、越橋と呼ばれる人たちの大部分です。
しかし、サイゴンは今でもサイゴンであって、ホーチミン市ではありません。
ベトナム人が日常会話でホーチミン市を使うケースは稀で、公文書の中で目にする程度です。
もちろん、外国人向けにホーチミン・シティという言葉を使う人も居ますが。
ホーおじさん記念館
ビンタイ市場
ホーおじさん記念館
ビンタイ市場
共産党一党支配の国でありながら、立ち遅れた経済の建て直しには市場開放(経済ドイモイ)が避けられず、その資質を歴史的に備えていたサイゴンは、ともするとベトナム政府の手綱が利かないところで化け物のように発展してきました。
でも、これはベトナム人の力ではなくて、過去がそうであったように、日本を初めとする経済先進国の植民地的な意味で表面が膨張しているだけです。
そこへ観光のブームが訪れて、多くの日本人旅行者を含む外国人が、きらびやかでいながら、東南アジアの未発達な部分も残るサイゴンで、夢のような(時に悪夢に会うこともありますが)数日間を過ごしているのです。
「ベトナム雑貨」に相当するベトナム語は、地方へ行ったら誰も知らないでしょうし、サイゴンで食べるベトナム料理だって、普通のベトナム人が食べる料理とはかなり違います。
だから、僕は、ベトナム旅行ではなくてサイゴン旅行だと思うのです。まるで、香港と中国の関係みたいな。

ちょっと難しい話もありましたが、きっと、これを読まれたらホーチミン市の見方が少し変わるのではないかと思います。
そして一つだけ、はっきりさせておきたい事があるのです。
ホーチミン市は、英語で書くと Ho Chi Minh Cityなのですが、日本語ではホーチミンと呼ばれます。フライトアテンダントですらそうです。
でも、これは近代ベトナムの成立に向けて祖国を思い続けた一人のおじいさんの名前であって、街の名前ではありません。
本当はサイゴンで呼ぶべきなのですが、せめて、ホーチミン市の「市」は必要だと思うのです。
どうだっていいじゃん!そう思うかもしれませんが、サイゴンが買い物だけの街になりつつある現状を思うと、これは大切な事ではないかと感じています。
「胡志明」中国語で書くとこうなるホーチミンという名前には、志を明らかにするという大きな意味が込められています。
きっと街中のベトナム人からは見えてこないでしょうが、この国は日本と違って、長い長い植民地支配と複雑な人間関係の歴史を背負ってきているのです。
環境問題、犯罪、交通事故など、差し迫った大きな問題を抱える混沌の街サイゴン。
一人のファンとして、この街がいつまでも魅力的で活気のある場所であって欲しいと願っています。


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山下晃さんのホームページ Mecon Delta in Viet Nam