ショパン作曲  《ピアノ協奏曲》第1番 ホ短調 op.11( 1830年)

●ショパン
 ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 op.11
 
ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 op.21 

ホルヘ・ボレット  ピアノ
モントリオール交響楽団
シャルル・デュトワ指揮

ポリドール(LONDON)  POCL−5029
 
●ショパン
 ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 op.11

スタニスラフ・ブーニン  ピアノ
ワルシャワ国立フィルハーモニー交響楽団
タデュウシュ・ストゥルガーワ指揮

ビクター VDC-1099

フレデリク・フランチシェク(フレデリック・フランソア)・ショパン(1809?10?〜1849)は、ポーランド生まれのピアノ音楽の最高ともいえる作曲家。父はフランス人、母がポーランド人であった。

4歳の頃からピアノの手ほどきを受けたというが、習わなくても自然に優れた演奏ができ、また即興演奏も巧みであったという。ショパンを教えたジヴニーは、型にはめることなくショパン自身に任せたといい、演奏は自己流といえば自己流であったが、突出した才能の持ち主であったようだ。
また作曲も始めたが、やはり規則正しく学ぶことなく、独創性を発揮できる環境にあった。後も正式なレッスンを受けることはなかったが、才能を発揮し、優れた作品を残すようになる。

やがてヨーロッパへおもむいての演奏や出版活動、ワルシャワ音楽院の女生徒・コンスタンティア・グラドコフスカへの初恋など、その後の作品の影響を及ぼす経験を経て、再び故国を去る。
すると時代はポーランド、オーストリアの政治関係の悪化、そんな中でパリへ旅行するが、ワルシャワ陥落のニュースを知り、絶望に陥る(この時書かれた「革命」のエチュードは有名)。

そしてパリへ着き、その後ここに留まるのである。ここで様々な音楽家達との出会い、パリの貴族や富裕階級との接触があり、またマリア・ヴォジニスカとの恋、そして失恋…。そしてリストに紹介された女流小説家・ジョルジュ・サンドとの生活が始まるのであった。マジョルカ島への恋の逃避旅行、やがての共同生活、2人の子どもとの関係など、さまざまな経験の後、サンドの許を去っていく。

その後、イギリスへ渡ったものの健康面がすぐれず、パリへもどるものの、39歳の若さでこの世を去るのであった。葬儀はモーツァルトのレクイエムを用いた壮麗な音楽葬であったという。

ショパンはポーランドへの愛国心、パリでのサロン的な環境、そして実生活での体験などが音楽に投影している。しかし直接描き出しているというわけでもなく、天性のピアニスティックな感覚によって、時に高雅で、時に鮮麗で、またセンチメンタルに表現されている。

ピアノ協奏曲は2曲を残している。ショパン作品の大半はピアノ曲、それも独奏用の曲がほとんどであり、ピアノ協奏曲のオーケストレーションはさほどのレベルではないという。しかし甘美なメロディと切なく迫るような和声など、ファンの多いコンチェルトである。

この1番協奏曲は、1830年、パリ行き前に作られた。初演は同年10月11日、ショパンの告別演奏会で行われ、ショパン自身の独奏で演奏された。ちなみにこの演奏会では、初恋の人・ソプラノのコンスタンティア・グラドコフスカの賛助出演したという。



第1楽章
ホ短調。3/4拍子。オーケストラのみの長い提示部を持つ堂々とした第1主題、ショパンならではの甘いカンタービレの第2主題は大変メロディック。古典的な協奏風ソナタ形式である。


第2楽章
ホ長調。ノクターン風の楽章。自由な三部形式。中間部は嬰ハ短調で新しいメロディも顔を出す。


第3楽章
ホ長調のロンド。2/4拍子。スケルツォ風の第1主題、舞曲風の第2主題が繰り返される。華やかなフィナーレである。


かつてNHKで、4年に1回行われている「ショパンコンクール」の特集番組がありました。そこで優勝した、当時ソ連のブーニンについて大きく取り上げられていたのを思い出します。そしてその優勝した最終のピアノ協奏曲のライヴCDを買って聴いたのが、この曲の出会いです。

ショパンというと「子犬のワルツ」「別れの曲」「幻想即興曲」といったテレビなどのBGMでおなじみなものくらいしか知らないころで、このオーケストラとピアノの競演するコンチェルトを聴いたときは、感動でした。
第1楽章の力強い冒頭部に続いて、静かに歌われる甘美なメロディは、ショパンらしいもので、うっとりとさせられました。ショパンのコンチェルトは2曲でいずれも20歳ころの若い時期の作品です(ちなみに、1番と2番では作曲年代的には逆転している)
<2003.1.10>