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| グレツキ作曲 《交響曲》第3番 <悲歌のシンフォニー> op.36(1976年) |
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| ●グレツキ作曲 悲歌のシンフォニー(《交響曲》第3番 作品36) ドーン・アップショウ Sp デイヴィッド・ジンマン指揮 ロンドン・シンフォニエッタ ELEKTRA NONESUCH WPCC−5340 |
ヘンリク・ミコワイ・グレツキ(1933〜)は、ポーランドの作曲家。同国の作曲家で、《広島の犠牲者に捧げる哀歌》のペンデレツキとは奇しくも同じ歳である。
初めは小学校の教員であったが、作曲を志したのが22歳の時であり、カトヴィツェ音楽院でシャベルスキに作曲を学ぶ。
在学中に1958年の「ワルシャワの秋」音楽祭に《墓碑銘》が委嘱作品として演奏され、注目を集めた。
卒業後パリへ行くもののすぐに帰国。以後、地道な作曲活動を続けた。1968年以降、母校・カトヴィツェ音楽院で教鞭をとり、校長まで務めるが、1979年には健康上の理由からこの職を辞め、創作活動を続ける。
グレツキの音楽は、最初の頃はウェーベルン風のセリー音楽を追究していたが、やがて独自の語法を開拓する。そして源には典礼音楽やパレストリーナのポリフォニーの影響などがあるという。そして純化された構成、語法も単純になり、「闇夜からの解放」という主題を貫くようになる。
というのも、グレツキはポーランドでもカトヴィツェ州・オシュウェンツィムという町の生まれである。ここはいうまでもなく、ナチの強制収容所のあったアウシュヴィッツである。戦後のポーランド人やユダヤ人の大虐殺の記憶の生々しいころ、そして独裁政権の時代を通じて、ポーランドの苦難の時代を、グレツキは生きてきたのである。
そして音楽にもその影が落とされたといい、「闇夜からの解放」…そして重々しく緩やかなテンポの曲へと純化されていく。
同い年のペンデレツキが世界的に活躍する一方で、グレツキは派手な活動をしてこなかった。しかし近年、この<悲歌のシンフォニー>で一躍知られるところとなった。
この交響曲は、1976年に作られた。ソプラノ独唱とオーケストラのための作品である。3楽章からなるが、すべてLento(レント)で重々しく演奏される。
《第1楽章》
レント〜ソステヌート・トランクィロ・マ・カンタービレ
「私の愛しい、選ばれた息子よ、自分の傷を母と分かち合い給え…」
中心のテクストは「聖十字架修道院の哀歌」という、15世紀のポーランドの祈りの言葉であるという。
導入部分は弦楽合奏で、コントラバスの24小節の定旋律を繰り返し、1小節遅れの5度カノンを10声部が受け持ち、やがてユニゾンになって中間部になる。
中間部はソプラノ独唱となり、エオリア旋法の音階で歌われる。
最後は、導入部とはシンメトリカルに、10声部のカノンが減っていき、コントラバス独奏で終わる。
《第2楽章》
レント・エ・ラルゴ〜トランキリッシモ
「お母さま、どうか泣かないでください…」
第二次世界大戦末期に、囚人の身となった18歳の女性が独房の壁に書いた祈りの言葉であるという。投獄された自分の身を助けて欲しいと祈る言葉が続く。
2回繰り返されるが、暗く苦悩に満ちた雰囲気の楽章である。メロディは2つの和音を揺れ動くオーケストラにのせて歌われる。
《第3楽章》
レント・カンタービレ・センプリーチェ
「わたしの愛しい息子はどこへ行ってしまったの?…」
ここではオポーレ地方の方言を使った民謡である。
蜂起のときに敵に殺されてしまった息子…どこで「眠っている」かも分からない、悲しみを訴える年老いた母の嘆き。
やはり2つの和音を揺れ動くオーケストラにのせて歌われる。
やはり平和を祈る曲である。
<悲歌のシンフォニー>…なんと悲しい曲だろう…と思わせるタイトルです。ただ聴いていると、重々しくて切なくて…。
最近もっぱら<癒し系>ブームですが、その頃広く知られるようになったようです。
ただ、テクストを眺めたり、グレツキ自身の人生や世界大戦前後のポーランドの歴史に触れると、ただの<癒し系>の音楽だ!とは言い切れない、メッセージがある曲です。
わたくし自身、この曲を聴いた頃、《広島の犠牲者に捧げる哀歌》のペンデレツキ、《タブラ・ラサ》《フラトレス》のアルヴォ・ペルトなんかを買ってきては聴いていました。十二音技法などの前衛時代がふと立ち止まった頃の作曲家達が作った、内に秘めた雰囲気の音楽がよくて…。
第1楽章は確かに重苦しい雰囲気でスタートしますが、第3楽章は清らかな気分の長調のコードが続くあたり、「永遠の平和への祈り」を感じさせます。<癒し系>のブームにのりましたが、決して<癒し系>などといった軽々しい雰囲気の曲ではないです。平和への祈りの言葉が込められたシンフォニーなのですから。
<2003.3.14>