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民話の里 遠野
                          
カッパ・座敷わらし・姥捨て山・・・・昔話の世界がここにはあった。
 
ガォ

デンデラ野
 いわゆる姥捨て山。遠野の里の北東はずれの小高い岡にある。現在は、雑草だけの原っぱで、真中に案内板と腰掛石があるのみ。その昔、60歳以上になった老人を捨てにきた場所である。死を強制的に迎えるよりも、むしろ老人達がここに集まって静かに余生を送った場所であり、老人達も、日中は里に下りて野良仕事を手伝い、わずかな食料を得てまたここに戻るといった生活をしていたようだ。
 今でいう老人ホームであり、年老いて家族の者からけむたがられるよりかは、同じ境遇の者が相互扶助で生きて行くのが案外住みやすかったのかもしれないと勝手に想像してしまう。

常堅寺


 康平元年(一〇五八)に北浦六郎家任が天台宗「鉄桐山常賢寺」として開創、延徳二年(一四九〇)県南の大原長泉寺機外慶俊禅師が入山、曹洞宗となる。中興の祖、大原勝行の法号蓮峰清公に因んで「蓮峰山常堅寺」と改称される。第六世の時、南部家の守護仏「勢至観音」を祀るようになる。山門の仁王像は慈覚大師作と伝えられ、早池峰山妙泉寺より移した。


<オビンズルサマ>
本堂には、人々に撫でられて黒光りしたオビンズルサマが鎮座されている。軽重自在、万病平癒にご利益があると言われる。附馬牛町小出、向山家より寄進された、円空作と伝わる。


<カッパ狛犬>
境内十王堂の前にある一対の狛犬が、「カッパ狛犬」といわれており、頭上に皿が有り、水が溜まるようになっている。当寺の火災の折り、カッパが出現し、消火に協力したことから、当時の住職天石禅師がこれを作り、当時の鎮守としたものである。


<カッパ淵>
本堂裏に流れる川がカッパ淵と呼ばれている。その昔、カッパが住んでたと言われている。カッパの潜めるような場所も見当たらないほどの浅い小川であり、そばに小さな祠とカッパの置物がある。
オビンズルサマ
カッパ狛犬
カッパ淵

伝承園
遠野地方の昔の農家の生活形態を再現させた集合施設である。国需要文化財の「菊地家住宅−曲がり家」の他、つるべ井戸、水車小屋、御蚕神堂などが立ち並ぶ。

<曲がり家>
 小友町、菊池家の曲がり家を移築したものである。人馬が同居した形態の家屋である。直家に、馬の住む曲がり部を増築した結果、この形となっている。

<オシラサマ>
 御蚕神堂の壁一面に掛けられているのが、オシラサマである。一見すると、指人形のような形をしている。烏帽子と姫頭、馬頭と姫頭など2体1組の桑の木でできたご神体である。養蚕の神、眼の神、女性の病の神、子供の神である。昔は、たいていの民家には祀られていたという。

<オシラサマの由来>
 馬と一人の女性の関係から始まる。とある貧しい百姓の娘が、馬に恋をした。娘が毎夜厩に通って馬と一緒に寝ているうちに、夫婦と成ってしまった。これを知った父親は、娘の知らぬ間にこの馬を連れだし、桑の木に吊り下げて殺してしまった。このことを知った娘は、桑の木に行き馬の首にすがって嘆き悲しんでいたが、これを見ていた父親は、あろうことか、斧で馬の首を切り落としてしまった。すると、娘は首に乗って昇天してしまったという。この出来事よりオシラサマが誕生した。オシラサマのご神体が桑の木で作られるのもここからくる。

曲がり家
オシラサマ
卯子酉様(うねどりさま)
 港家平兵衛が、譜代村鳥居の卯子酉明神の分霊を勧請したと伝えられる、縁結びの神様である。祠の前には、縁結びを願うための赤い布が結び付けられているが、この赤い布、左手で結ぶことができたら縁が結ばれるといわれている。この他に、裏側の小川に生える片葉の葦恋の願いを書いた紙を結び付けておいても願いがかなともいう。

山崎のコンセイサマ
 ここ、山崎のコンセイサマは高さ1m25cm、周囲は大きいところで1m90cmある特殊な形状をした自然石である。昔からコンセイサマが祀られているとの言い伝えはあったようだが、久しく御神体は行方不明であったらしい。その御神体が昭和47年の地元の工事の際に掘り起こされ、以降村人により祠が建てられ祀られるようになった。
 男性器のことを金精様(こんせいさま)と呼ぶ。金は金色のように輝く立派なものという意味であり、精は精力絶倫を表す。男女の縁結び、出産、性病に御利益があるといわれており、全国各地に分布しているものである。

遠野郷八幡宮
 由緒は定かではない。文治五年(一一八九)平泉の藤原氏を討伐した源頼朝から阿曽沼広綱宇が遠野郷を賜った。この時、広綱の代官として送られた夫方広房が松崎村駒木に館を築き氏神である八幡神を祀り、遠野郷を統治した。その後、阿曽沼親綱が横田城を築き、城の鬼門である宮代に八幡宮を勧請して崇敬した。その後にこの地を南部家が支配するようになり、直栄の時に現在の地に遷宮した。祭神には、譽田別尊(ほむたわけのみこと)、大国主神、事代主神、少彦名神、御年神を祀る。
十王堂
 由緒は定かではない。文治五年(一一八九)平泉の藤原氏を討伐した源頼朝から阿曽沼広綱宇が遠野郷を賜った。この時、広綱の代官として送られた夫方広房が松崎村駒木に館を築き氏神である八幡神を祀り、遠野郷を統治した。その後、阿曽沼親綱が横田城を築き、城の鬼門である宮代に八幡宮を勧請して崇敬した。その後にこの地を南部家が支配するようになり、直栄の時に現在の地に遷宮した。祭神には、譽田別尊(ほむたわけのみこと)、大国主神、事代主神、少彦名神、御年神を祀る。