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大 理 厳家の歴史
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喜洲の商人は1000年以上も前から中国東南部に足跡を残していると言われています。清の清緒年間(1875-1908)には「喜洲商ホウ(漢字=邦の下に巾」(喜洲の商業団?)として名を馳せるようになり、民国時代には四大家、八中家、十二小家と称される大商人たちを生み出しました。
それらの中でも、ひときわ大規模な商売を展開したのが厳家でした。厳家の子孫は今も茶・黄糸・棉布の輸出、金融業を営んでおり、従業員数3000人。国内に16、海外に7店の本支店を展開する(歌倫堡=カリフォルニア?など)、雲南屈指の大企業です。3人兄弟のうち兄が下関本店、弟が昆明本店の社長をしているとのこと。(趙勤 著『喜洲白族民居建築群』(雲南民族出版社、1999)による。以下の記事もね。)
保存民居に指定されている「厳子珍大院」(四方街富春里1号)は、1919年に建てられました。当主の厳子珍(1871-1941)は商売に「刻苦」する一方、その一生を地方公益事業に捧げました。10万元を投じて小学校・女子小学校を造ったほか、中学・図書館への寄付、奨学金の設置、『大理府志』の復刻、貧民工場・病院の操業、河川の改修などを行った、とあります。

厳家大院は2478u。建築面積3066u。「三坊一照壁」と「四合五天井」を組合わせ、「六合同春」と「走馬串角楼」を達成した建築・・・と本に書いてあるが、よく分からない。分かるところを拾い読みすると、豪華にして典雅、古朴な建築。総大門は長さ32m、広さ3mだそうです。すごい門構えです。いったい何人くらいの家族と使用人が住んでいたのでしょうね。
「一進両院」とあります。進は庭と庭の間の建物。棟の数詞。

←2階の主堂屋の上の部屋

1930年代、当主の息子がフランスに留学、フランス人女性と国際結婚をします。1938年、夫人のために敷地の東南角に西洋式の別館が建てられました。(夫人は外国人を見たことのない土地の人たちに恐れられ、いじめられた、とガイド氏の説明。)
この洋館は、地下室、バルコニー、ガラス窓、大理石彫刻の欄干などがある、完全に西洋式--てゆうか、ここの土地の人が感じる西洋式の建物でした。
厳家の富を象徴する建物は、その後1953年、土地改革で没収され、公有となり、白族の風俗を紹介する観光スポットとなりました。1987年、雲南省の文物保存単位に指定されています。