恋愛の定義「性的衝動に基づく男女間の愛情、すなわち愛する異性と一体になろうとする特殊な性的愛」(辞苑より)
「男女間の恋い慕う愛情」(三省堂国語辞典)
恋:好きで会いたい、一緒になりたいと思う強い気持ち。
愛:相手の幸せや発展の為に尽くす、混じりけのない、あたたかい気持ち。男女間の愛情。物事を大切に思う気持ち。
愛情:愛する心。伊性を恋い慕う感情
好き:心が引きつけられ、そうしたい、また、それと一つになりたいと思うこと。好きの程度のはなはだしいようす。気まま勝手。             (三省堂国語辞典)
 石川淳は恋愛は生活上実に馬鹿馬鹿しい現象、恋愛には理性という言葉は何の役にもたたないと言っています。冷めた見方をすれば、社会生活をする上で恋愛などはしなくても生きていけるのです。かえって恋愛が生活の支障をきたす場合いが多々あります。
 しかしまた一方恋愛は遊びではなく、人生そのものという見方もあります。人を愛する事が出来ない人ほど寂しい人はいません。恋愛はどれほど心に潤いを与えてくれるのでしょう。人間が生きている上で、愛するという事ほど素晴らしいものはないのです。
 情熱に浸る事は誰にも出来るが、愛するということはそう易しく出来るものではない。情熱とは現在の状態に陶酔する事だが、愛とは現在から未来に向かって忍耐と努力とで何かを作り上げていく事と遠藤周作氏が述べています。愛するという事は、本当はとても難しい事なのではないでしょうか。
 私の考えていた理想の恋愛は、好きな者同士がお互いに成長出来ることです。もしその人に会わなければ、自分なりには成長出来るが、その人に出会い共にいる事で、より多く成長が出来ることが理想です。どちらか片方だけでなくて二人がお互いに成長出来ることが大切だと思う。
 自分を見失いつい好きな人には尽くす行為は、好きな人だけにプラスになるだけで駄目。人間として生まれてきたのだから、この世に生きている限りは常に人間性の向上、人格形成が出来ないと社会的生活での前進は出来ないのだから無駄な一生になってしまう。だから尽くすだけで相手の為に自らが成長出来ないとか、自分を犠牲にして相手だけしか見えないのは、いい恋愛とは言えない。
 好きな人に尽くすことが自分にとってプラスになるのならいいが、常に犠牲だけを払って自らを見失うようでは意味がない。相手の為に自らを犠牲にしたり、尽くしたりすることはすばらしいと思う。でもお互いが成長出来ない恋愛はレベルの低い恋愛である。その時が楽しいだけでは、恋愛の境地には達する事は出来ない。もし、別れがきた時に、互いがこの人に会って良かったという気持ちが生まれなくては、恋愛していた時間は意味をなさない。無駄な時間である。
 泡鳴は、「男がこの人を好きだと決めた女に向かっていると、女らしさに惹きつけられちゃう。そうなると女を抱擁する。また結婚もする。だが結婚というのは自分以外の社会が決めたルールだからやむを得ず守るだけだ。恋愛したから結婚するという事もあるが、必ずそうと決まったものではない。結婚と恋愛とは別だ。恋愛の極度は抱擁にいたる。抱擁というのは蜻蛉の連結と同じではない。種族を滅ぼさないと言うのが目的ではない。"自分の生命の流れの中で突然自分以外の生命を感じるのが恋愛なんだ。"過去はもうない、未来はどうなるかわからないとすれば、残るのは今という瞬間しかない。人間はこの今の瞬間を楽しめば良い、そしてこの瞬間の楽しみの最高が恋愛だという。恋愛は精神だけのものではなく、肉体だけのものでもない、人間の全生命の営みだ。」と言っている。
 倉橋由美子は「男が結婚をしようとするのは、愛からでは無く、自分の生活の夢の設計図に女を組み入れたいからである。愛と結婚とは別問題である。」と言っています。確かに愛の完成は結婚ではなく、"愛の完成は愛という表現によってのみ完成されるもの"であろう。
 "彼氏の魅力は彼女によって、彼女の魅力は彼氏によって育てられる。"
互いに育てあう事が出来ないカップルはつまらない。パートナーが他の人に興味を持つ事は自然で、そうゆう事を隠し合わない方が良い。同情や取り繕いは縫目をぐさぐさにし、ひきつらせるだけ。パートナーに好きな人が出来た時は自由な選択の中で再び自分を選ばせるように仕向けるべきである。その努力が出来ないようなカップルは別れるべきである。競争者と全力をあげて戦うのが良い。そうする事により自分を磨く事が出来るのだから。感傷的な義理人情だけでは幸福にはなれない。より相応しい相手を見つける上で、お互いに愛する事が出来る人を見つける事が出来れば最高である。妥協の無い恋愛は永遠に続くのである。いずれにしろパートナーの人間的な魅力を創り出す仕事は、人生ではかなり大きな比重を占める。自分を本当の意味で磨いてくれる相手を見つけるべきである。値打ちの出る石を拾い上げ、磨きあげて美しい光りを放つようにパートナーがお互いに磨き合うのが良い恋愛である。結ばれたからと言って安心感を持つのではなく、常に壊れるかもしれないという危機感を持ち、自分を磨き続ける事が出来ない人は愚かな人である。と大庭みな子も言っている。
 少し話を進めて伊藤野枝は「自己を生かすことの幸福」で次のような事を言っている。家庭の幸福というものは実に逃げやすいもの。これを普通は、気が付かないもんだ。昔の人は仏教を信じていたから諸行無常というた。今が盛りで美しいと思っていた花も、一夜の風で散ってしまう。家庭の幸福なんて脆いものだ。交通事故でどっちかが死んだらお終い。怖いのは交通事故だけでなく、世間には、沢山溢れている。恋愛が永久に続くつもりで始めた家庭も脆いんだ。この人の顔さえ見ていれば、私は幸福だと思っていても一緒に居ると、いつか飽きる時がくるもんだ。性の欲求は食に対する欲求と同じに満たされてもすぐ新しくおこってくる。家庭の他では簡単に満たす事が出来ないから、性の欲求で二人がつながると言うのは事実だ。しかし恋愛の時と同じような新発見の喜びは続かない。恋愛が性の欲求によって支えられている事が多ければ多い程、恋愛の永久缶詰のつもりの結婚はその理想から外れる。そういう家庭は脆い。脆い家庭をどうすれば続ける事が出来るか。一体どうすればお互いの愛をいつまでも続ける事が出来るだろうか。普通の人間は恋愛から結婚生活に入ると、すっかり喜んでしまいそういう事は考えない。ただその時の幸せだけを噛み締める事で精一杯で大切な事を忘れてしまう。何が大切かというと、"めいめいが個性的な人間として活きる事だ。"個性的というのは、この人みたいな人は他には居ない。本当にいい人だと思わせる活き方をして初めて、この人と一緒で幸福だという気にさせる事が出来る。なんてありふれた人間だ、掃いて捨てるほどいるような人間じゃないかというような人間になっちゃ駄目だ。そんなの直に飽きられてしまう。あなたの言う事を何でも聞くわで、べったり寄り添っているだけでは、個性的な人間になれない。同じ屋根の下に寝起きしていても、お互いに別々の人間だという事を忘れては駄目だ。そして幸福というものは、この一人の自分を生かして自分を捕まえるしかない相手にすがりついていて、相手から与えられるものではない。相手の愛に甘えて自分をもっと伸ばす事をサボってはいけない。恋愛さえしていれば、後は何もしないでいいというのが家庭じゃない。そこで一緒に生活する事で自分の天分を生かすのだ。それで初めて愛が続く。めいめいが相手を束縛してはいけない。相手が持っている天分を自由に生かすように助けるんだ。この自由なもの同士の結びつきがより高い次元での恋愛である。と言っている。
 人を愛によって縛りつけるのではなく、愛によって解放するべきだ。愛とは相手に無条件に与えるもの、相手を無条件に許す事。愛のバランスが悪くなると鎖が必要になる。それが苦悩をつくる。相手に精神的、経済的、物質的に依存しているようでは駄目である。
 "男と女が互いに自分の考えを持っているのが理想。"片方に頼りきりで自分の考えを持たないのは駄目。自分のしたいことが明確に想像できて、それが実行できるような付き合い、お互いを拘束や邪魔にしないで、好きなことを出来ることが大切。またそれを認め合う事が出来て、力になれるようで無くては駄目である。
 価値観が同じということでは抽象的過ぎるので、二人の望んでいることが一致していて、相手に対する気持ちや思いやりの表現が同じだけ交わせる。そして物事を見るときに自分の気持ちからだけではなく、相手の気持ちになっても考えられる事が出来る人でなくては一緒にいる事は大変だと思う。一方だけが相手のことや自分の事を考え過ぎるのでなく、恋愛に関しては心のバランスがとても大切。
 自己のエゴを抑えて、相手の意志を尊重し続けられるパートナー、生涯変わらず愛し続けられる事はもちろんの事、何年経っても出会った当初のようにに相手に恋する事が出来るパートナーが理想。
 人間って欲望の動物だから、より良い物を求めてしまうよね。でもそれは物質社会の弊害であって、それを人間関係に当てはめてはいけないと思う。たとえば今付き合ってる人がいたとして、その人よりも素敵で自分の理想の人が現れるとする、以前の相手を捨てて乗り換えるのであれば、前の相手を本当に愛していた事にはならないと思う。楽させてもらえるからとか、お金を持っているとか、格好が良いからとか、自分のことをもっと理解してもらえるからとか、大切にしてもらえるからで、相手を変えていたら、ある一面を見て好きになっているわけで、その人自体を好きになっていることにはならない。より上を求めているなんて事をしていたら、きりが無い。自分の会った人を、とことん愛することが出来て、大切に出来ることが、恋愛にとって一番大切な事だと思う。それが運命なのだから。
 それだからと言ってその相手といる事が、苦痛で自分にとってマイナス面しかないのであればしょうがないと思うが、恋愛に関してはお互いの気持ちが一番大切だから、気持ちがすれ違うようであればやもえない事もある。でもそれはお互いに見る目がなかったということ。相手も悪いのだが自分も悪い。相手の気持ちを理解せずに、自分を押し付けたり、相手を甘やかしすぎたり、二人の心のバランスが悪いと恋愛は上手くいかない。好きなもの同士の問題のほかに、社会的要因もあると思うが、男も女も我を強くしすぎると上手く関係を続けていくことは難しい。お互いに素直になれて、相手の気持ちを分かれるような相手が見つける事が理想。
 松田道雄の本で、私があの人を好きだと思うと、もう魔力の虜になり、その人が世界で一番美しく、賢い人のようにみえる。その人のする事がみんな自分の理想のように思える。こんな人に出会えたのはなんて幸福だろう、人生ってすばらしいじゃないか、その人をを知らなかった以前の頃とその人を見つけた今では世界が違ってしまったように感じると書いてある。
 心理学者シュテーケルは特定の対象に欲望を定着させる顔の魅力だとか、肉体の美しさとか、声の質だとかは、それを含めた全体の印象だとかを「合いの自然的条件」と言っている。これはあくまでも本人にとってだけ価値のあるもので、他人から見たら、全く無価値なものである事もありえる。
 スタンダールは「恋愛論」で恋愛の時の夢造りは結晶作用と言っている。これはザルツブルグの塩山の廃抗の底に、冬の葉の無くなった小枝を投げ込んでおくと、数ヵ月後に小枝を引き出して見ると、輝く結晶で包まれている事から言われる。ヤマガラの脚ぐらいの小枝の先まで無数のダイヤモンドがかわるがわるまぶしく輝き、もう小枝だとは思えない。枯れた小枝というのが現実だけれども、恋愛と言う幻が現実をダイヤモンドで覆ってしまう。まちろん本人にとってはダイヤモンドは現実である。恋愛に熱中している人間は、自分は初めて、美しい、賢い、優しい、親切な人を見つけたと思っているけれど、本当は自分だけがそう思っているだけといっている。またギリシアの哲学者プルタルコスは恋愛とは一種の病気であると言っている。
 中村慎一郎は「恋愛と言うものは本来反社会的なもの、社会に対しては破壊的な要素を含むものである。そしてその破壊力というのは恋愛とその成就が利害に反することになる外部の力との衝突から生じるものであるが、現代社会においてはどのような恋愛も巨大な社会の構造にとって無害なものになりおえた。そして障害物を失った恋愛の方も生命力を失って現在の若い男女の間からは恋愛が失われたというわれる風潮が起こっている。現在は虚妄の繁栄に騙されて大部分の人達が人間の根本的存在に目を向ける事を忘れているので、もし運良く恋愛という、人力で支配できない悪魔に取り憑かれれば、若者はこうした問題に否応なく遭遇する事が出来て、人間性を回復する事になる。」と言っている。  
 本気の恋愛はいつだって出来る。難しいのは本気の恋愛と日常生活とを上手く組合わせる事。本気の恋愛と言うのは、創造的で日常生活から飛び出そうとするものだし、日常生活は落ち着いた繰り返しの多いものの方が楽。これを上手く組合わせる事は難しい。
 最後に瀬戸内寂聴は、「女は結婚前に情熱的な恋を何度もした方がいい、もちろんこれはSEXを伴った恋である。感覚的に好ましい男でも頼りにならない男も多いし、頼もしい男でも感覚的に全く肌の合わない男もいるものだ。人間は全治全能ではないのだから、思い違いや早とちりや、とんでもない誤解をしょっちゅうするし、もし二人の男女がお互い、そうゆう過ちを犯してしまって、一緒に暮らしたとき、予期しなかった不都合に逢えば、勇敢に何度もやり直しをすればいい。」と言っています。
 結婚してから過ちに気付いたのでは遅いのです。その前にこの人と決めた相手とは同棲してお互いを見せ合うべきである。あまりに自分に無理しているようではお先真っ暗になってしまう。
 だから、なんでも自分を見せられる相手、許しあえる相手を探さなくてはいけない。