序章:タイトル解説 ディオニュソスとは?

 

「――ビートヒッピーはどの程度関係があると思いますか?ヒッピーはビートの進化形ですか?」

「変わらないよ。18歳と48歳の違いだ。俺たちは年くってるだけだよ。どちらも同じディオニュソス的運動にすぎない。」

 

これは映画ドキュメンタリー映画「ビートニク(『ビート族』の意)」の中でのジャック・ケルアック(以下ケルアック)のインタビューである。卒業論文のタイトルはここから採らせて頂いた。

 

ビートとは?

ビートとは、1950年代のアメリカのカウンターカルチャー――ある社会の支配的文化に対し、敵対し反逆する下位文化を一般的に対抗文化(カウンターカルチャー)と呼ぶ。だが現代におけるカウンターカルチャーは、先進産業社会とくにアメリカにおいて、1950年代から1970年代初め、すなわち人種問題の激化、ベトナム戦争の拡大、公害問題の深刻化などを背景とする時代に盛り上がりを見せた、青年の反逆現象ないし<異議申し立て>のなかで生み出された思想、価値体系、およびライフスタイルを指す。――の1つであり、彼らによる運動(=ビート運動)は抑圧的で非人間的な機能を持つ社会体制と、そこに安住しようとする保守的で中産階級的な価値観とに反逆し、人間性の無条件な解放(=ディオニュソス的運動――ディオニュソスとは、古代ギリシャにおける、葡萄酒と豊穣の神であり、その崇拝は集団的興奮のうちに恍惚の境地に入る祭儀を伴った。彼にはまた小アジアのリュディア語に由来するバッコスBakchosの別名があり、ローマ神話ではこちらを採ってバックスBacchusと呼ぶ。バッカスはその英語読みである。ニーチェは処女作「悲劇の誕生(1872年)」の中で、この神にちなんで、夢幻と陶酔の世界に属し、激情と歓喜に満ちた芸術衝動の類型を、調和的統一や端正な秩序に基づくアポロ的芸術衝動に対する、ディオニュソス的芸術衝動と呼んだ――)の為に貧困に甘んじる、一種の生活運動である。この運動は第2次大戦中の原子爆弾の製造と爆発、ナチスによるユダヤ人大量虐殺などによって予感され始め、戦後、東西両陣営の冷戦と呼ばれる緊迫した対立や、それに便乗して極右的な権力操作をもくろんだマッカーシイズムなどによっていっそう顕在化した。

この運動において、解放された個人の自然発生的な発動(=ディオニュソス的衝動)に力点を置こうとする文学・芸術上の新運動があったが、アレン・ギンズバーグ(以下ギンズバーグ)の詩「吠える(1956年)」、ケルアックの小説「路上(1957年)」(後に紹介)、などはビート運動の高らかな宣言であったと言えるし、ノーマン・メーラー(以下メーラー)の評論「白い黒人(1957年)」などはその強力な擁護論であった。更にこの運動の1つの特色として、西欧的な合理主義に背を向けて東洋的なもの、ことに禅Zenへの著しい傾斜がある。現象としてのこの運動は、ヨーロッパ各国や日本にも受けいれられて、今日の様々な体制批判的な思考や行動、あるいは一般的な習俗の変容、などにまで尾を引いている。

ちなみに、ビートという語の意味は、打ちのめされた結果としての消耗と枯渇、ジャズ音楽のビート、至福beatitudeなどといった意味の複合であるといわれ、そのような意味でこの語を最初に用いたのはケルアックであった。

 

ヒッピーとは?

ヒッピーとは、1960年代アメリカで、既存の道徳観や生活様式に反抗し、髭や長髪をたくわえ、ジーンズや風変わりな衣装を身につけ、ドラッグやサイケデリック(幻覚的)なロック音楽、東洋的な瞑想を好み、定職に就くことを拒否して放浪した人びとを指す。このヒッピー風俗は、カウンターカルチャーとともに、大なり小なり世界中に広まった。日本でも60年代の「みゆき族」「フーテン」以来、その影響を見出すことができる。

語源的には、1950年代に流行した「ヒップスターhipsterに由来し、当初は「現代感覚に敏感な者」「本当のフィーリングを持った者」といった意味であった。

 

ビートとヒッピー、そしてその周辺文化の関連性

 ギンズバーグが「吠える」の冒頭で「天使の顔をしたヒップスターたち」とうたい、またメーラーが「ぼく自身のための広告(1959年)」の中でヒップスターについて詳しく論じた時には、ヒップスターは既にヒッピーに近い意味を持ち始めていた。メーラーによると、ヒップスターはビートニクと不可分の関係にあり、前者は下層階級からの、後者は中産階級からの「はみ出し者」を意味する。どちらも働くことを嫌い、ジャズやマリファナを好むが、前者が反逆的な行動や奔放なセックスへ向かうのに対して、後者は東洋的な悟りを好む傾向があるという。しかし、ヒップスターがボヘミアン――元来はボヘミア人またはボヘミア出身と考えられていたジプシーを指すが、1830年七月王政期のパリ以来転じて、貧しいながらも自由なその日暮らしを送る文学青年や若き芸術家の呼称となった――に通じ、ビートニクがそのビート、つまり都市の黒人ゲットーの音楽としてのジャズと関係があり、実際に彼らがニューヨークのグリニチ・ヴィレッジやサンフランシスコのハッシュベリー――1960年代以降にビートたちが住み着き始めた。ここは間も無くヒッピーのメッカ「サイケデリック都市国家」となる――のような都市にたむろしたことを考える時、ヒップスターやビートは極めて都市的な現象であったことがわかる。それに対してヒッピーはコミューンの形式や、前近代的な共同体を残す国々への世界放浪を通じて、非都市的なものを目指したと言ってよい。また、ヒップスターやビートは貧しく、そして真剣に文学・芸術活動を実践していたのに対して、ヒッピーはその多くが白人中産階級の出で、文学という言語媒体よりもドラッグとロック(音楽)からなる非言語媒体を志向する傾向が高かった。

 1950年代にヒップスターを自任したギンズバーグは、58―62年にヨーロッパ、南アメリカ、アジアを放浪し、インドではヒンドゥー教の修行を受け、帰国後にはヒッピーの聖者として若者たちに崇拝されたが、彼はまさに、ヒップスター→ビート→ヒッピーという1つの流れを、自ら体現したわけである。また、ちょうどその頃、アメリカでは、黒人の人種差別反対運動が高まり、各地でデモ隊と警察官との衝突、暴動、軍隊の出動といった事態が繰り返され、国際的にもアメリカは南ベトナムへの政治的介入キューバの海上封鎖など、危機と混迷のまっただなかにあり、この危機と混迷はベトナム戦争の開始とともにいっそう深まっていった。

 その為、ヒッピーは次第に「反戦と非暴力と愛」――ヒッピーは別名ラヴ・ジェネレーションフラワー・チルドレンと呼ばれる。これは彼らを弾圧に来た州警察の銃口に花を挿したという伝説に由来する――を求める反体制の象徴となり、63年ごろからヒッピーの活動は運動の様相を変化させていった。文化的にはジェファーソン・エアプレーンのようなロック・バンドやロック・ミュージカル「ヘア(1967年初演)」などを代表とするヒッピーカルチャーを生み、政治的にもニューレフト――新左翼。マルクス主義の新解釈やトロツキー主義などの傾向を含む――運動と結びついて、ジェリー・ルービンアビー・ホフマンをスポークスマンとするイッピーyippieの社会変革的な運動へと発展した。

しかしそもそもは、ヒッピーは、思想的には主として非政治的なアナーキスト(無政府主義者)だった。当初この点がニューレフトとの決定的な違いであり、両者とも既存の権威に反抗する面では同じだが、ニューレフトが政治・体制を覆そうとしたのに対し、ヒッピーは自身とその仲間からなる小さな共同体の意識拡大と一体感を求めていた。ヒッピーとニューレフトが歩み寄るきっかけとなったのは、1967年にサンフランシスコで起きたHuman Be-Inというお祭り騒ぎである。これについては3章の中で詳しく触れるが、このHuman Be-Inを境に、ニューレフトはヒッピーの平和志向に訴えかける方針に転向し、その結果として両者の歩み寄りが進んだ。

 

タイトルの解説

 アメリカにおけるビートやヒッピー、そしてその周辺の文化による世界観、更にはそれらを基に世界中に広まって、後にカウンターカルチャーやアンダーグラウンドと呼ばれるようになり、現在も存在し続けている世界観――私は今までの23年間に、こういった世界観を通して多くのことを知り、身につけた。本文は、それに対する「ありがとう」の表明である。そのことを示すタイトルを考案している際に、ケルアックの言葉を思い出した。

 彼の言葉を借りて、上記した世界観の総称をディオニュソス的運動と呼び、そして更にその運動と運動主体のメタファー(暗喩)としてディオニュソスという言葉を使った。「友」としたのは、現在の私にとってこのディオニュソス的運動は、唯一絶対的にリスペクトを置く世界観ではなく、大きなリスペクトを置く幾つかの世界観のうちの1つである、という位置付けにあるからだ。そこから私は、生涯の伴侶ではなく、友人というメタファーを使った。そして「我が友ディオニュソスに捧ぐ」というタイトルができあがった。

 私は、本文においても、序章を除いては、「カウンターカルチャー」や「アンダーグラウンド」という言葉の使用を避け、代わりにディオニュソス(=ディオニュソス的運動)の方を使っている。これは1つには、カウンターカルチャーやアンダーグラウンドという言葉が、当初は既製の文化・社会に対するアンチ(反・否定)やカウンター(対抗・敵対・反抗)として生まれたが、現在はその言葉の中身が、必ずしもそれ(=アンチやカウンター)を意味しなくなっていて、むしろ独立した世界観として存在しているという学説への同意からだ。また、もう1つには、ヒッピーの先駆者であるケン・キージーが1995年の佐野元春によるインタビューの中で、60年代は終わったのではなく、続いているのだということを言っているように、実際に私自身も、現代においてこの世界観の恩恵を受けていて、尚且つこの世界観がこの先も存続してゆくことを確信している。この「続いている」という意志――先人たちの、そして私自身の――の表明としても、冒頭のケルアックの回答を受けて、ディオニュソスという言葉の方を使いたかった、という理由からだ。

 尚、本文では主に、1950年代から1960年代にかけてのアメリカ(特にビートやヒッピー)と、そして私自身が旅の中で訪れた現代の幾つかの場所とを基に考察を進めている。それは、自身にとって最も身近にあったディオニュソスだったからだ。しかし前述したように私は、このディオニュソスについて、時代や国境を超えて続いている・広がっているものだと考えている、ということを再度宣言しておきたい。

 

補足:大麻・麻薬に関する記述について

本文では随所で大麻や麻薬に関する記述をしている。大麻については私自身も旅の中で実際に吸引していた。しかし、勿論それらは違法である。現在の私は一切手を付けていないし、これからも手を付けることはない。また、これらについての記述が大麻や麻薬の摂取を推奨しているわけではないということを宣言しておきたい。

 

<参考資料>

文献

「世界大百科事典」平凡社

「社会科学大事典」鹿島研究所出版会

Webサイト

 http://www1.doshisha.ac.jp/~syamada/work/column/c6.htm 「コラム60年代」

http://www.moto.co.jp/cover/MWS/chronicle/THIS/Ken.html 

「1995年 キージーインタビュー」

映画

「ビートニク」1999年 アメリカ チャック・ワークマン監督

 

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