インド バグスー:淋しさの共有

2001年の夏、約1ヶ月半の間、私はインドのバグスーという村で暮らしていた。生活拠点となっていた宿屋「ウエルカム・ゲストハウス」に一緒に住んでいたのは、スワン(男 フランス籍)、マイケル(男 スウェーデン)、シンバ(男 オーストリア籍)の3人、それに加えて、宿泊者ではないが、イーカー(女 元イスラエル籍 現インド籍)、アーリー(男 イスラエル籍)の2人が、私たちの宿に頻繁に出入りしていた。彼らの年齢は、皆20代後半ぐらいで、私は当時21だった。

 私たちはそれぞれ、1人で旅をしていて、バグスーに来た時期もバラバラだった。しかし、いつの間にか共に食事をし、共に眠りに就く生活が始まっていた。朝、起きた者からジョイント(大麻タバコ)を巻き始め、チャイを沸かし簡単な朝食を用意する。とりとめもない話をしながら、ゆっくりと朝食を堪能する――音響設備を持っていたシンバが大抵、何らかのBGMを流していた――そして昼下がりには、アーリーやイーカーが――イーカーはタブラ奏者で、しばしば彼女のタブラがBGMになった――訪ねてきた。ジョイントを片手に、語らったり、チェスをしたり、本を回し読みしたり――イスラエルで医者をしていたアーリーが1番の活字中毒者で、ジャンルに関わらずたくさんの本を持ってきていた。彼はそれらの本を、いつも持って来てくれた――そんな時間を過ごし、日が落ちれば夕食を取りにジャーマンベーカリーという路上カフェ――ここでは、バグスー中の旅人が集まっていた――に向かう。私たちは1つのテーブルに座り、誰からともなくジョイントを巻き始める。ライター等の貸し借り、あるいはただ隣のテーブルに座っているということ――どんな些細なことでも、知り合うきっかけとなり、私たちはテーブルをくっつけ、イスを移動し、右隣から受け取ったジョイントを左隣に回す。夜が更ける頃には20〜30人の輪ができあがっている。そして大体23時か24時頃――いつも時計をつけていたわけではないので定かではないが――になると、同じ宿の4人で、帰途に就く。時にはアーリーやイーカー、そして他の友人たちも寄り道がてら、一緒に来る。宿に帰るとシンバがBGMを選び、マイケル――彼は1番のヘヴィスモーカーだった――がジョイントを巻く。月を見ながら就寝前の一服、そしてお休みを言って眠りに就く。

 日によって、誰かが1人で外出したり、あるいは何人かでちょっとした遠出をしたり、たくさんの人を呼んで宿でパーティを開いたり、ということはあったが、上に書いたような生活スタイルが大きく変わることはなかった。

 私たちは、物事を共有することを好んだ。例えばそれは、買ってきた食材やジョイントを、必ずその場に居る全員に提供することであったり、部屋にカギをかけず、誰もが随時どの部屋にでも入れるようにしておくことであったり――それらは誰が決めたことでもなかったが、私たちはいつからかそういう習慣を持つようになっていた。

 共有という習慣の中で、私にとってとりわけ新鮮だったもの――それは淋しさの共有だった。(ここで言う淋しさとは、前章に書いた「独立した淋しさ」のことである)私たち6人は、物理的には、ほとんどの時間を共にしていたが、観念的なところでは、しばしば1人の時間を過ごしていた。例えば、日中私たちは、前に書いたように、いつも陽だまりの中で集まり、同じジョイントを吸っていたのだが、それぞれが違うことをしている、ということはよくあった。勿論、誰一人としてロクに言葉を発しない、といったことも日常的だった。一緒に居るのだから一緒に何かをすればいい、あるいは皆で語らえばいい、そんな考えは私たちの中にはなかった。かといって、1人で部屋にこもることも、滅多になかった。更に私たちは、そのままそこで一緒に暮らし続けることも、一緒に旅を続けることもなかった。ほぼ同じ時期に私たちは、「それじゃ」とだけ言って、それぞれ、ウエルカム・ゲストハウスを、そしてバグスーを出て行った。メールアドレスの交換こそしたものの、行き先を告げることもなかった。

 私たちの中にあった淋しさは確かに、他者と居ることで消えることはなかった。だけど、それに対する共感はあった。――皆でその「独立した淋しさ」について語らったことがあった――だから私たちは、物理的に一緒に居ることで、そしてコミューンに同一の帰属意識を持つことで――私たちは、自分たちの宿のことを「家」と呼んでいた――その淋しさを共有していたのだ。私たちは誰一人として、人とのコミュニケーションが苦手だったわけではなかった。嫌いだったわけでもなかった。誰かから声を掛けられれば応えたし、日々友人の輪は広がる一方だった。だけど、上に書いたような1人の時間は変わらずそこにあった。

 なぜ私たちは、1人で部屋にこもることはせず、常に同じ空間に身を置き、それでいて意識は自我の中に置く、ということをしていたのか、なぜ私たちはそのまま一緒に暮らし続ける、一緒に旅を続ける、ということをしなかったのか――それらに対する答えは、以下のように集約できると私は考えている。

 私たちは、同じ種類の淋しさ=縛りを心の中に持っていた。私たちは、その淋しさから自由になる手段を探すべく――勿論、旅の目的は1つではないだろうから、目的の1つという意味で――旅という場を利用していたのだ。更にその際、1人で旅をするということは、例えばその目的の為に、随時必要な空間に身を移し、随時必要な相手と共に過ごす上で、非常に合理的だったのだ。そして私たちは、その淋しさを共有するということ――それはかつて知らなかった安堵だった――を知り、その共有を更に多くの人と持つべく、再びバラバラに旅立ったのだ。

 私たちはその時以来、たまのメールのやり取りこそあるにせよ、全く別の場所で、全く別の人たちと共に、全く別の生活をしている。しかしそのことによって、私たちがかつて共有し始めた淋しさは、日々共有の域を広め、多くの人に安堵をもたらしているのではないかと私は考えている。

 

     尚このコミューンにおける生活の細部に至るまでと、ここにあったディオニュソスとについては、2001年に、小説「煙」として残している。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1549/kemuriindex.htm

 

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