グァテマラ サンペドロ・ラ・ラグーナ:血縁なき家族

 2002年の春、私はグァテマラのサンペドロ・ラ・ラグーナという村に居た。アティトラン湖岸にある先住民の村だ。私はここで約1ヶ月の間、暮らしていた。拠点にしていた宿「ISLAND」で一緒に暮らしていたのはジャスティス(男 US ウィスコンシン)、シド(男 US テキサス)、ステファニー(女 ドイツ)、エルサ(女 US カリフォルニア)の4人だった。年齢は、50前後のシドを除いては皆、25〜27くらいだったと記憶している。当時私は22だった。

 「アァビタァシオン?(アビタシオンとは西語で部屋の意)」――バックパックを担いで歩く私に、ジャスティスが、宿のテラスから叫んだことが、ここでの生活の始まりだった。私はすぐに引き入れられ、荷物を降ろし、コーヒーとジョイントの輪に招かれた。

 シドの存在は、この場において重要だった。彼は一年のうち、半分をアメリカで、半分をここサンペドロで過ごしていた。だから、この質素な宿の一室を長期契約し、最低限の生活用品――パソコン、携帯電話、衣類、コーヒーメーカー、ステレオ、CD・テープ各100枚程度――を持ち込んでいた。彼がアメリカでどんな仕事に従事していたのかは思い出せないが、経済力は相当のものだった。(毎晩のように通うバーでの支払いは、ほとんど彼によってなされていたのだ)シドは、実際には独身だったが、私たち3人を我が子のように見守り、あれこれと世話を焼いてくれていた。例えば、酔いつぶれたジャスティスを迎えに行く(大抵、バーテンが知らせに来てくれた)のも彼だったし、熱を出したエルサの看病をしていたのも彼だったし、捻挫をした私をかつぎ、マッサージ師の所に連れて行ってくれたのも彼だった。私たちは、そんなシドを中心に、家族のように暮らしていた。

 朝は大抵、シドが一番先に目覚め、自前のコーヒーメーカーでコーヒーを落とし、皆が起きてくるのを待つ。その次に起きるのが大抵エルサで、花壇――彼女は当時既に3ヶ月近くそこで暮らしていて、たくさんの花を育てていた――に水をやり、簡単な朝食を作る。ジャスティスが起き、ステファニーが起き、テラスに音楽が流れ始める。そしてその音楽で私が起きる。――「ブエノス・ディアス(おはよう)!セニョリータ!」「HeyDJ!」――私はまだ少し寝ぼけたまま、次のCDを選び、ステレオに入れる。ここでは誰もがDJなのだ。――「キエレ・カフェ?(コーヒー飲む?)」シドがコーヒーを勧めてくれる。薄くて甘ったるい中米特有の出がらしコーヒー(旅人たちは「豆汁」と呼んでいた)ではなく、香り高いドリップコーヒーに気持がキリリとする。私はタバコに火をつける。ふと全身に耐えがたい痒みが走る。ダニだ。思わず身体をくねらせて全身を引っ掻き始める。――「ユーコ、どうしたの?」寝ぼけ眼に奇妙な行動をとり始める私を、エルサが心配する。――「ベッドダニにやられた。いつもなのよ。」「薬持ってるから引っ掻くのはやめなさいって!ああ!流血してるじゃない!引っ掻きすぎだって!」――我慢できず子供のように引っ掻いて、カサブタまで剥がしてしまう私をエルサがたしなめる。――「ユーコ。これを塗りなさい。でもこれは毒だから取り扱いには気をつけてね。」エルサが塗り薬(毒)を貸してくれる。毒、という言葉にジャスティスとステファニーが笑う。――「いやいや、笑い事じゃないのだって。毒でも何でも助かるよ。何で誰もやられてないのさ?」「みんなやられてるわよ。でもユーコほど全身くまなくやられてないし、ユーコほど引っ掻かないのよ誰も。」ステファニーが腕に残るダニの跡を見せてくれる。そう言われて、なるほど、大人げないな、と一瞬は引っ掻くのをやめる。しかしまたしばらくすると引っ掻き始める。そして流血する。3分おきに誰かが「ユーコ!Don’t scratch!」と叫ぶ。シドは終始穏やかに見ている。私は「毒」を全身にすり込み、ジャスティスから受け取ったジョイントを深く吸い込む。そうこうしているうちに、徐々にダニのことから意識が離れ、ただ楽しい気持ちに引き込まれてゆく。そして音楽が止まり、また誰かが叫ぶ。「HeyWho’s DJ?」

 「後から行く」というシドを残して、4人でぷらぷらと外出する。湖のほとりまで行き、岩山にひたすら登る。ステファニーはタバコに火をつける。――「全く、世界中禁煙禁煙って嫌になる。ここ中米でもあまりいい顔はされないし。」ステファニーは、かなりのヘヴィ・スモーカーだ。――「うむ。確かに。中米では殊に、女の人が吸うってことに偏見がある気がする。ドイツはどうなのさ?やっぱり厳しいの?」「厳しくなりつつあるわよ。でも関係ないわ。あたしは、どこでも吸うのよ!」――「強い女だ。怖い怖い。」ジャスティスが笑う。――「ステファニー!」下から叫び声が聴こえる。ピアスだ。――ピアスはイングランド人の青年で、時々ステファニーの部屋で夜を明かしている。そのことを皆知ってるが、特にステファニーにその話を持ち出すことはしない。ステファニーも皆の前では毅然としているし、特に自分からその話をすることもない。ピアスもそうだ。持ち前の紳士的な身のこなしはステファニーだけに対してだけでなく、エルサや私に対しても同じように向けられていた。――ピアスが岩山を登ってくる。「オラ!ジャスティス!」なぜかジャスティスと熱く抱き合って挨拶する。エルサとステファニーが笑う。――「何か食べに行こうよ。」エルサの提案に皆が賛成する。ジャスティスがジョイントの吸殻を湖に投げる。――いつも行くレストランTikaaj(ティカー)では、もう既に友人達がくつろいでいる。シドもいる。――私たちはテーブルとイスを運び、彼らの輪に混ざる。――「ハァイ!皆々様方!ご機嫌よう。」ピーナ婦人だ。シドは立ち上がってイスを運び、彼女を座らせる。ピーナ婦人はシドに抱きつき、挨拶代わりに大げさなキスをする。――「ピーナはハッピーな女なんだよ。」シドが苦笑しながらそっと耳打ちする。ピーナはイタリアからの移民で、明るい未亡人だった。シドとの付き合いも長く、2人は仲が良かった。――「Hey、アジアのねーちゃん。どっから来たんだ?」酒でしわがれた声が飛ぶ。ジムだ。彼は私たちから少し離れて座り、酒に溺れている。歳はシドと同じくらいで、アメリカ西部出身だ。西部なまりが強く、聞き取るのに細心の注意が必要だ。「日本から来た。」じっと眼を見て話す。そうしなければうまく伝わらない気がする。――「おっと、このねぇちゃんやり手だよ。俺を落とそうとしてやがる!」焦点の定まらない眼でジムが叫ぶ。彼の目つきや発言に苛立つ。それでもシドの友人なので、再度向き合う。「ごめんなさい。貴方の言うことはよく理解できないのよ。」「いや、お前は解っているはずだ。ずるい女だ。お前は俺の考えていることなんて全部見透かして笑ってるんだろう?ほら、その眼だ。おれはその眼が怖い。お前のその眼を見るとイライラする。もう俺の前から消えてくれ。」――「ユーコ、気を悪くしないでくれ。この男は悪い奴じゃない。ただ、アル中で、酒を飲むと人が変わる。誰も手を付けられない。本人もそれが解っているのに、酒を絶つことができない。かわいそうな男だ。」シドが耳打ちする。ジャスティスも頷いている。「行こう」と言われ、シドに、シドの近くの席に連れて行かれる。――「果物はどう?パイナップルを買わない?」道売りの婦人だ。インディへナのその婦人は、頭の上にパイナップルのたくさん入ったカゴを載せ、ティカーに入ってくる。この村の道売りは、決して無理に売りつけたり、法外な値でさばいたりしない為、旅人たちとも仲がよく、こうやってしばしばレストランやバーにも売りに来る。店は大抵、移住した白人たちによって経営されているので、店側も特に彼女らを追い払うことはない。それどころか、彼女らから食材を仕入れることもしばしばなのだ。しかしその日は、誰も買い手がつかない。婦人は全てのテーブルを回るが、断られ続けている。――「おばちゃん、ちょっと座ったら?」エルサがイスを運んでくる。婦人がありがとう、と腰を掛ける。ステファニーはウェイトレスのアンナ(彼女は、スペインからの移民だった。ティカーは彼女と、インディへナの少女との2人によってきりもりされていた。)にグラスを1つもらい、婦人にビールを注ぐ。婦人は、遠慮がちに、それでもグラスを口に運ぶ。――ジャスティスが何かを思い立って席を立つ。各テーブルにまわって何やら話している。そして、たくさんの小銭を集めて私たちのテーブルに戻ってくる。「皆でこのご婦人からパイナップルを買うんだ。お前たちは幾ら出す?」――私たちは持っている小銭を渡す。シドはお札を一枚渡している。――「全部でこれだけある。おばさん、幾つ買える?」「ありがとう、ジャスティス!そうね、2つ・・いやこの小さいのと3つあげるわ。ありがとうね。」――「Hey!みんな。これだけ買えたぜ!みんなご協力ありがとう!」パイナップルを高く掲げ、ジャスティスが叫ぶ。店中から歓声が上がる。ピアスが席を回って皆のグラスにお酒をついで回る。「今日は最高の日だ!乾杯しようじゃないか!」シドが立ち上がる。そして店中に乾杯の音頭が響く。婦人は少し照れながら、ありがとう、と笑い、店を出る。――アンナはパイナップルをサラダにしてそれぞれのテーブルに持ってきてくれる。ほんの少しずつのパイナップルを分け合いながら、私たちは暖かい気持ちになる。

シドの部屋には、小さな箱が置かれていた。そして皆、小銭ができるとその箱の中に入れていた。私たちはしばしば、ISLANDの粗末な共同キッチン――その野外仮設キッチンは、大雨によって何度か屋根が落ちたりしていて、その度にシドが修繕していた――で自炊をしていた。その為の材料をその箱の中の小銭から買っていた。――「エルサ、ユーコ、サーモンは食えるか?」シドが聞く。――「魚は大丈夫。」私たち5人の中で、エルサと私がベジタリアンだった。――「良かった。今日はパナ(湖岸の最大の村、パナハッチェルのこと)に行ったから、向こうでサーモンを買って来たんだ。エルサ、料理できるか?」「やってみるわ。ジャスティス、ココナツはまだあった?」「昨日の残りがある。俺は水買いに行ってくるよ。」ジャスティスは大きなタンクを抱えて近所の水屋に向かう。――私は、空き缶で作ったおろし金でココナツをおろし、エルサはスイスアーミーの小さなナイフで野菜を刻む。シドは大きな鮭と格闘している。――「アビタシオン!」宿の前を通りすがる人たちにジャスティスとステファニーが叫ぶ。3人に1人はその叫び声に振り返り、テラスに人が増える。――ピアスとジムがワインを持って来る。「あたしはそんなの1人で飲み干せちゃうわよ。」既に1リットルの瓶ビールをラッパ飲みしているステファニーが言う。「ファック!」ジムが吐き捨てる。エルサが笑う。――シドの部屋に篭って何やらしていたジャスティスが出てくる。2本のジョイントを手にしている。1つをシドに、1つをピアスに渡す。煙が回り始める。――「ジャスティス!」大きすぎるフライパンと格闘するエルサが叫ぶ。ジャスティスと私はキッチンに足を踏み入れる。シドが買ってきた醤油で味付けの仕上げをして、大騒ぎしながらテラスに運ぶ。野菜を売りに来た兄弟をジャスティスが「来い来い。食ってけよ。」と招き入れる。その狭いテラスは人だらけになっている。――パンを買いに行っていたステファニーが戻る。ピアスは料理を皆に盛って配る。――そして、大きな夕食が始まる。――「アァビタァシオン!」更にまだまだ人は増えてゆく。

私たちは、毎晩のようにJorge(ジョージ。スペイン語読みではホルヘ)というバーに飲みに行っていた。エルサはバーテンのジョージと仲がよく、移住についていつも相談していた。ジョージはフランスからの移民で、ティカーのアンナと共にサンペドロに出てきた。申し分ない美男美女が経営するレストランとバーは、それぞれサンペドロでナンバーワンの店となっていた。――「この仕事はどう?儲かってる?」「たいした稼ぎにはならないよ、エルサ。だけど暮らしてゆくぶんには充分だよ。俺はただ、ここで暮らしたいってだけで、他に何も要らないし。サンペドロに住んでる奴らは皆そうだと思うよ。シドだってそうだろ?」「ああ、私は酒が飲めて、ジョイントが吸えて、仲間がたくさんいればそれでいいんだよ。淋しく暮らすのだけは嫌なんだ。」――シドはもう既に顔を赤くしている。上機嫌だ。――「ね、ユーコ。私たちあのショーケースに入ってるチョコレートケーキが食べたいの。ユーコからシドに言ってよ。」ステファニーとジャスティスが促す。「あたしが言うの?」「そうさ。シドはお前がかわいくて仕方がないんだ。お前が言ったら何でも買ってくれるよ。」――確かに、4人の中で私は一番子供じみていて、何かとシドは面倒を見てくれている気がする。――「ね、シド、あのチョコレートケーキが食べたい。」悪いな、と思いながら恐る恐るシドに告げる。「なに?ケーキか?よしよし。わかったわかった。Hey!ジョージ、あのケーキを持ってきてあげてくれ。私が払おう。」――ステファニーとジャスティスは小さくガッツポーズをしている。エルサは苦笑している。――「オラ!シド!俺の心の友よ!」――入ってくるなりシドに抱きつく。そしてシドの広い額に何度もキスしている。「よう、マリオ。元気か?」――シドも少し困惑している。マリオと呼ばれるその男(後に彼はエルサルバドルから出稼ぎに来ているバーテンダーだとわかる。通りすがった湖岸のバーで、クールにシェイカーを振る彼を見た時には、皆度肝を抜かれ、大爆笑した。)は既に泥酔していて、上機嫌だ。――「おい、みんな、知ってるか?この男は最高の男だ。おれはこの男が大好きなんだ。ああ、シド!あんたはなんていい奴なんだ。俺はお前が大好きだ!大好きなんだ!愛してるぜ!」そういって男はシドに抱きつき、何度もキスをする。シドは苦笑している。「解ったから、座れよマリオ。」――「おい、ホルヘ。このテーブルの払いは全部俺のところに付けておけよ。何故って?俺はこの男が大好きなんだ。俺は今最高の気分だ。だから俺が払いたい。ああ、俺は幸せだ。みんな、ささやかな御礼をさせてくれ。俺に払わせてくれるよな?」――ジャスティスとステファニーがまた小さくガッツポーズをしている。エルサは迅速にチョコレートケーキをもう1つとビールを3本注文している。ジョイントのせいか、私は3人の動きがとてつもなくおかしくて、くっくと笑いっぱなしで止まらなくなっている。「おいおい、お前大丈夫か?」「いやいやジョージ、あなたのその眼もおかしいよ。瞳孔開きすぎでしょ?」「お前もすごいことになってるぜ。鏡見るか?」――ジョージの表情にまたくすぐられ、笑いが止まらない。ふと見ると、ステファニーはそんな私を見ながら笑い続けている。――トイレに立ったシドが帰ってこない。心配しているとジョージが来る。「おい、見ろよ。お前らの親父、楽しそうだぜ。」――見るとシドは中庭にあるブランコに乗って揺れている。ジャスティスは後ろからそっと近づき、勢いをつけてシドののるブランコを押す。シドが驚いて飛び降りる。ジャスティスはそそくさと逃げる。「ジャスティス!」シドが叫ぶ。エルサと私は笑っている。――テーブルで何やら白い粉が見える。コカインだ。ステファニーは勢いよくそれを吸い込んでいる。シドはタバコの灰と粉を混ぜて燃やし、白い炎を上げて燃えるその煙を吸い込んでいる。そしてジムたちに回す。ジョージは注意深く外を見張っている。――「お前は、コークは好きか?アシッドは?ヘロインは?何が欲しい?」いつの間にか隣に座っていた、白目を剥いたジャンキーが私に擦り寄ってくる。「あたしは、ジョイントしか吸わないよ。」「いや、嘘だ。お前は好きな筈だ。言ってみろ。何が欲しい?何だって手に入れてやるぜ。幾らで買う?」ジャンキーは更に擦り寄ってきて、私の肩をつかむ。――「やめて!触らないで!」危険だ。私は瞬時に警戒する。隣にいたはずのエルサがトイレに立っている。ステファニーは目つきが明らかに変わった顔で、ピアスと笑い転げている。ジャスティスはジムとケンカ腰で議論している。――「ユーコ、大丈夫か?」シドだ。流れ者のジャンキーをシドとジョージが店から追い払ってくれる。「ユーコ、すまない。たまにああいう奴らが紛れ込んで来る。私の注意が足りなかった。」「大丈夫。気にしないでよ。シドのせいじゃないんだし。私、先に帰るよ。もう遅いしね。」「ユーコも帰る?あたしも帰ろうかなって。一緒に帰りましょうよ。」エルサだ。「俺が送っていくよ」ジョージが言う。私はシドにお休みと告げ、2人とバーを後にする。――「何でみんな、薬に手をだすのだろうね?あたしはマリファナだけで充分だと思うけど。」エルサが歩きながらやれやれ、とタバコに火をつける。「手を出すのは自由だけど、ああやってクレイジーになっていくのが困る。楽しむことが目的でやっていたのが、いつの間にか、薬そのものが目的になっちまう。その頃にはもう手遅れさ。俺もマリファナは吸うが、他のものには手を出さない。」――「ステファニーの目つきが変わってて、あたしはびっくりしたよ。あんな眼で笑うの見たことないや。何ていうか、少し、怖かったよ。」私がつぶやく。――「ステファニーは、ジャンキーの一歩手前ね。こないだ今までに体験したドラッグの話を聞いていてあたしも驚いたわ。彼女は半端じゃない。」「俺、あいつは悲しい女だと思うよ。直感だけど。」「彼女は、プライベートなことはあまり話さないのよね。だから私たちにも、本当のところ、どんな人なの解らないのよ。一緒に住んでるのにね。」エルサがつぶやく。――宿に帰り、私たちは誰もいないテラスで少しだけ話をして、それから眠りに就く。うとうとし始めた頃に、3人が上機嫌で戻り、テラスに騒ぎ声がしばらく響き、やがてまた静寂が訪れる。

少し疲れて寝過ごし、昼前に起きると、皆出掛けてしまっている。シドが1人でテラスに座っている。――「おはよう、ユーコ。キエレ・カッフェ?」「グラシアス、シド。」――私は読書をするシドの隣に静かに腰を下ろす。――「みんなは?どこ行ったの?」「エルサは園芸の先生のとこだ。ジャスティスは湖で泳いでるよ。ステファニーは・・・私もわからない。まぁどこか近所だろう。」――珍しく、音楽もなく、静かな朝だ。私はシドに語りかける。「ね、シド。あたしの言葉はいつもうまく通じてる?」「ああ、通じてるよ、ユーコ。ここに来たばかりの頃から比べたら、スペイン語も英語も随分上達したんじゃないか?たいしたもんだよ。」――そう言いながらもシドは、ゆっくりとしたスペイン語で語りかけてくれている。私がネイティブの英語をあまり聞き取れない、と知っているからだ。実際、彼が独学で身に付けた、どこかたどたどしいスペイン語の方が、西部なまりのきつい英語よりもはるかに私には聞き取り易かった。しかし困ったことに私は、自分が話すとなれば、この時はまだまだ英語の方が得意だった。だからシドとの会話はシドがスペイン語で喋り、私が英語で喋る、といった滑稽なものだった。それでもシドはいつもそんな滑稽な会話に付き合ってくれていた。――「シド、あたしさ、みんなで話してるとあんまり喋らないじゃない?みんなそれをどう思ってるんだろ?おとなしい、って思われているのかな?それとも冷めた奴に見えるのかな?――あたしは、ただ、ほら言葉がこんなだからうまく喋れなくて、いつもタイミング逃すのよ。」「何が問題だ?ユーコ、ちゃんと喋れてるじゃないか。」「今はシドと2人で、ゆっくり喋っているからよ。みんながいて、次々に話が飛び交うと、聞き取って理解するので精一杯になってしまう。みんなが何を話しているのかは解るけど、それにリアクションできないのよ。時々、ありがとう、とすら言いそびれて悲しくなるよ。――いや、思えば、言いそびれた『ありがとう』だらけだ。何か、すごく悔しいよ。もっともっと『ありがとう』って言いたいのにさ。――ねぇ、シド。あたしはうまく話せてる?ちゃんと伝えられてる?」「ユーコ。ちゃんと伝わってるとも。大丈夫だ。私は感動したよ。――何、ユーコのそういう思いは、ちゃんとあの子たちにも伝わっているよ。何も心配することはないんだよ。」――「オラ!ユーコ」ステファニーとピアスだ。「よく眠ったわね。」ステファニーが笑って隣に座る。――「ユーコ、私ね、明日ここを発つことにしたのよ。」「ええっ?どうしてさ?」「私はもうあんまり時間がないのよ。他にも行くところがあるしね。」――ステファニーはここに来る前既に、メキシコで半年暮らしていた。――「それにしても・・・淋しくなるじゃない。」「ユーコ、また会えるわよ。私は南に向かうから、ユーコも後から追いかけて来なさいよ。」「――ピアスも行くの?」「いや、僕はまだここでやることがあるからね。明日パナまで送って行くけどね。」――その夜、落ち込んで泣き出した私をジャスティスが連れ出してくれた。――「ね、みんないつかはここを出て行ってしまうのかな?当たり前だけど淋しいよ。耐えられないや。」「そりゃあ、誰だって淋しいさ。だけど、ステファニーにしたって、止めるわけにはいかないよ。」「うん、それは解ってるよ。解ってるから何か、淋しいよ。――ねぇ、ジャスティスもいつかここを出るの?」「俺も近いうちに出るよ。俺はシドやエルサとは違う。ずっとここにいるわけにはいかない。お前だってそうだろう?」「そうだね・・・ね、ジャスティスは、何で旅をしてるの?」「話したことなかったか?革命だよ。俺は、革命を起こしたいんだ。」「革命?」「そう、革命だ。俺は実はパスポートを持ってない。ここまでずっと、イリーガルに国境を越えて来てるんだ。」「全部?そりゃあすごいや。これからも、そうやって旅を続けるの?」「勿論だ。そうやって南米の端まで行くつもりだ。――なあ、ユーコ。お前も一緒に来ないか?一緒に革命を起こすんだ。つまり、俺と一緒にこれから旅をしないか?」――突然の申し出に困惑する。「あたしと?何故に?」「お前とだったらいいパートナーになれそうな気がするんだよ。」「ありがとう。でも、あたしはそうは思えないや。少なくとも今のあたしでは、足を引っ張るだけだと思う。だって言葉だってロクに話せないのよ。――思うに、あたしもジャスティスも、結局は1人で旅をするのじゃないかな。ステファニーのようにね。前にインドにいた時に、1人で旅をするってどういうことかって、すごく考えたのよ。あたしたちはみんな、孤独に縛られてるのじゃないかって思う。」「――そうだな。それには俺も同意するよ。よし、解った。この話はやめよう。俺も納得したよ。もう何も言えない。少し歩こうか。」私たちは湖の傍をあてもなく歩いて、それから宿に戻った。いつここを発つのか、ということにはお互い触れることはなかった。

私は結局のところ、ステファニーの次にサンペドロを発った。もうこれ以上誰かを見送るのは耐えられない、ならば先に発ってやろう、という狡さからだった。ステファニーと別れた時同様にジャスティスには「またどっかでね。」と告げ――実際に、後にステファニーとはグァテマラのモンテリコで、ジャスティスとはエルサルバドルのサンタ・アナで、言葉どおり再会した――エルサとシドには「また戻ってくるから、お願いだから、ここにいてよ!」と子供じみたことを言って別れた。ISLANDの住所と、シドの携帯電話の番号は、今もまだ私の手元にある。

 私は前章で書いたように、血縁的な絆による関係を、ないがしろにしてきた。そしてそうしながら、勝手な劣等感を抱いてもいた。しかし、ここでの生活の中で私は、非血縁的な家族を持った。私は4人を家族として愛し、リスペクトした。血のつながりの無さは問題にはならなかった。勿論、既に血縁的な絆によって結ばれた家族を、あるいは親類を、愛し、リスペクトできればそれは幸運なことかもしれない。だけど、血縁的な絆によらない相手であれ、親として、兄弟として、親戚として、愛し、リスペクトすることができるのであれば、それは自身にとって紛れもない家族・親類なのだということ――私は、ここでの生活によって、そういう感覚を知った。そしてこの時、私の長年の劣等感は姿を消した。現在、私には、たくさんの家族と親類が居る。そして私は彼らを、ただ、変わらず、愛している。

 


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