ケン・キージー「カッコーの巣の上で」 冨山房 1996年

 

<解説>

第二次大戦後、アメリカ。復員軍事病院でLSDを試す機会を持ったキージー。それをきっかけに彼が書き始めたのがこの作品であり、頭のいかれたヒーローたちが、精神病院の管理に反逆してメリー・プランクスターズを結成する様を描いている。また、物語は全て、電子機械幻想――この世界が巨大な「コンバイン」という組織によって牛耳られており、それは人間の頭の中にさえ電子機械を埋め込み、それによって人間を組織の意のままに動かしているという幻想――にとりつかれた混血インディアン、ブロムデン酋長(以下ブロムデン)の語りによって進行してゆく。

この本の訳者である岩元巌氏の言葉を借りて言えば、物語の舞台である精神病院、そして婦長は、戦後のアメリカ社会という巨大な体制の、ブロムデンを中心とする精神病患者は、その体制からはじき出された人間の、そして悪漢ヒーローのマックマーフィは、体制に背を向けた社会のはぐれ者の、それぞれメタファーであるととらえることができる。

 

「わたしはこれまであまりにも長いあいだ沈黙を守りすぎた。だからこれからの話は洪水のようにとうとうと流れ出てくるだろう。そしてみなさんは、この話をしている男は大ぼら吹きだぜ、まったく、と考えるかもしれない。こんな恐ろしい話が本当に起こるわけがないさ、とても本当だとは信じられない、とお考えになるかもしれない。だが、どうか聞いてほしい。わたしはまだ、頭がぼんやりしていて、はっきりと考えることがむずかしいが、しかし、たとえ本当に起こったことでないとしても、この物語は真実なのだ。」(P14)

 

ブロムデンは、かつてコロンビア川流域に住んでいたコロンビア族の族長の息子であり、大学教育まで受け、第二次大戦に参加した経歴を持つが、戦後に白人の社会でいたぶられ、自尊心と勇気を失い、精神異常者として州の刑務所からこの精神病院に送られてきた、という設定である。彼は自己防衛の手段として、聾唖者として振舞うことを、この精神病院に入る前から身につけていた。その彼の語りによって物語が進行してゆくことでキージーは、この作品にリアリティを持たせることに成功しているのではないだろうか。        ブロムデンが言うように、この物語そのものが、たとえ本当に起こったことでないとしても、それが大掛かりなメタファーのみによって進行されてゆくことで、逆にその場にある痛みや苦悩が、そしてマックマーフィというはぐれ者が加わったことによって、その場に後に生まれる喜び、希望、そして勇気がはっきりと表明されているからだ。

勿論、当時のアメリカ社会の中にそれらが本当にあったのか、あるいはもっと普遍的に、社会というものの中にそれが本当にあるのか、ということは私には解らない。だけど唯一言えることは、この時代のアメリカ社会に生きていたわけではない私が、あるいは無数の読者が、現代のそれぞれの生きる社会の中で、この物語を読み、そして「場」に参加し、痛み、苦悩、喜び、希望、勇気、といったものを共有しているということだ。(尚、映画化されたこの作品は1975年にアカデミー賞を受賞している。)

 

「何の意図があって彼がこんなことをしてまわるのか、あるいはなぜこれほど大騒ぎをして、人びとと近づきになろうとするのか、誰にもわからない。だが、それはすくなくとも、ジグソーパズルをかきまぜているより面白い。――(中略)――とにかく彼は大いに楽しんでいるようだった。やることなすことが、人びとを笑わせる。彼はそういう男だった。」(P36)

 

「だが、その時わたしは気づいた。彼が笑っているのは、聾唖者というわたしの演技など一目で見破ったからだということに。もちろん、その演技がたとえどんなに用心深いものでも、そんなことは彼には問題じゃない。彼は私の正体を見破り、笑い、そしてそれを私に伝えようとしてウィンクをしていたのだ。」(P36)

 

マックマーフィの登場は、聾唖を装うことで、周りの全ての人間から距離を取り、無感情に、ただ静かに暮らしていたブロムデンに対し、明らかに興味を引きつけ、動揺さえさせてしまう。そして読者である私も、彼とともに興奮する。この時、何かが起こるのかもしれない、あるいは自分たちが何かを起こすのかもしれない、という感覚がこの場に流れる。だがまだそこに確信はなく、ブロムデンはただ用心深くその場を見つめる。

 

「少なくとも俺は試してみたぜ。この臆病野郎ども!」(P197のシーンより。訳は映画の字幕より抜粋)

 

 病院の管理に体制にうんざりしながらも、そこから逃げ出すことすらできない患者たちに苛立ち、窓を突き破ろうとするマックマーフィ。結局は失敗するものの、言葉どおり彼はそれを試しはしたのだ。少なくとも、自ら行動を起こさなければ、何も実現できはしないということ、何も変わりはしない変えられはしないということ――マックマーフィの吐き捨てた言葉は、その場にそういった意志を残してゆく。彼が去った後もその場には、その意志だけが残っている。そしてそのことには、その場にいる人間を変化させる。

 

「もし誰かが入ってきて、この光景――患者たちは何も映らぬテレビに見入り、その背後で50がらみの女性が患者の後ろ姿にむかって、規律とか秩序とか当局へ上申するとかがなりたてているこの光景――を見たならば、この人たちは全員とことん狂っていると考えてしまうことだろう。」(P226)

 

 日課を変えて、テレビの野球中継を見ることを申請するマックマーフィ。その努力も空しく、婦長にあっさりと取り下げられてしまう。しかしテレビが消えていることにも気づかぬ顔をして、見えない野球中継に熱狂するマックマーフィ。そしてついに周りの人びとが動いた。だけどそれはまだ虎の衣を借る狐に過ぎず、彼らはマックマーフィの後ろについてゆくことだけで精一杯だったのだ。そのことが後に、マックマーフィの首をしめることになる。

 ヒーローの後ろについて、あたかも自分自身もがヒーローになったかのように錯覚することはたやすい。しかしそれを続けている限り、自身は決してヒーローにはなれない。つまり、自身がその行動の先駆者となり、責任を負わない限りは――たとえそれが失敗を招いたとしても――「やれる」という自信を体感することはできないということだ。

 

「わたしはベッドカバーの上に置かれたガムを取り上げ、それを手にしっかりと持ち、ありがとう、と彼に言った。わたしの喉は錆びついていたし、舌はきしんでいたから、その言葉は音になりえないほどだった。少し練習不足のようだぜ、と彼はわたしに言い、笑った。わたしも一緒に笑おうとしたが、それはまるでメンドリが鳴こうとするように、ひしゃげた声になってしまった。笑い声というよりはむしろ、それは泣き声といったほうがよかった。」(P331)

 

 マックマーフィはブロムデンを特別視している。それは、この物語の随分初めのあたりかちらほらと伺える。そして、他の誰よりも、ブロムデンはマックマーフィの起こす行動やマックマーフィ自身に、過敏に心を揺らしている。キージーは、この手段によって、誰を差し置いてでも、行動を起こす意志のある全ての人間に対して強く語りかけている、あるいはそれができない人間に、行動を起こすことを促しているのではないだろうか。このことは、前に触れたインタビューの中での彼の「問題は物事の一部になりたいか、それとも受ける立場になりたいか、ということです」という発言からも感じ取れる。自身を縛るものから自由になりたければ、それを自ら振りほどく努力をしなければならない、誰かがほどいてくれるのを待っているだけでは何も変わらない、ということだ。

 

「大柄な黒人の方が患者たちを押し分けて入ってきて、背後からマックマーフィの両腕をつかまえる。マックマーフィは牡牛がサルを払いのけるように、それを振りほどくが、しかしすぐに黒人はまた彼を抑える。そこで、わたしはその黒人をつまみ上げ、シャワーの中にほうりこんでやった。そいつの中身は真空管ばかりなのだろう。せいぜい10ポンドか15ポンドぐらいの重さしかなかった。」(P421)

 

ついにブロムデンが動く。出来事の先駆者になる。そのことへのリスクを恐れることもなく。そしてこのことが、マックマーフィを、そしてキージーを彼ら自身の縛りから自由にする。その縛りとは他ならぬ、例の「淋しさ」ではないだろうか。だからキージーはこの作品によって、マックマーフィは自らの行動によって、共有・一体感の場を、周りの人々に提供している――私はそう考えている。ただしそれは、提供された場に飛び込むことよりもずっと責任やリスクをともなう――殊に、アンチとなる人びとと向き合わなければならないということ――ことでもある。マックマーフィは自分でも気づかぬうちに、あるいは気づきながらも大丈夫だ、という意志――そうすることが彼にとっての自由への行動でもあったからだ――のもとに自らを日々消耗させていってしまう。

 

「わたしたちはマックマーフィを止めることはできなかった。というのも、彼に行動させているのはわたしたち自身だったからだ。彼に行動を強いているのは婦長ではなかった。それはわたしたちだった。わたしたちに必要だったのだ。彼が座っている姿勢からゆっくりと身体を持ち上げることが。――(中略)――この何週間も彼に行動をさせつづけたのはわたしたちなのだ。彼の足や脛が言うことをきかなくなったあとも、長い間彼を立たせ、何週間も彼にウインクをさせ、笑わせ、そして彼のユーモアが2つの電極に挟まれてすっかりからからにされてしまったあとも、ずっと彼に行動をさせつづけた原動力はわたしたちだったのだ。」(P492)

 

 ブロムデンは最後に確信する。それは、自分たちが彼に責任やリスクを押し付けていた、ということよりもむしろ、前でも書いたように、自らが動き始めなければいけないのだ、ということではないだろうか。現在私は、キージーやケルアックといった先人たちが残し、その後の世代の人びとが守り続けてくれた場を享受している。そこに飛び込むチャンスを享受している。しかし、この場を守り続ける――提供し続ける――ことを誰かが引き継がなければ、この場は永遠に失われてしまうかもしれない。既に自らを消耗しきったマックマーフィが、ビリーを自殺に追い込んだ婦長に飛びかかる、というシーンには、キージーのそういう思いがつづられているのではだろうか。

 

「わたしは大地を走った。かつて犬が走って行ったのを思い出し、その方向に向かい、ハイウェーへと走った。走るとき、大きな歩幅で走ったのを思い出すことができる。上げた足が大地に下りる前にずいぶんと長いあいだ空中に浮かんでいるような気持であった。宙を飛んでいるような気持だった。自由だ。」(P502)

 

 婦長に飛びかかったことで、マックマーフィは危険人物とみなされ、ロボトミーという前頭葉の一部を切り取る手術を余儀なくされる。そしてついに彼は、その自尊心と勇気を永遠に剥奪されてしまう。ブロムデンは、そんなぶざまな姿になったマックマーフィの生命をとめてやり、そしてついに自信と自覚のもとに動き始める。かつてマックマーフィが試みた手段で窓を突き破り、逃走する。

物語はここで終わり、その後のブロムデンの生き様については触れられていない。しかし物語の最後を飾るこの行動によって彼は、長い間マックマーフィが1人で提供し続けてきた場を周りの人間に提供することに成功する。私は、このブロムデンのように、先人キージーが残してくれた場を、一度でも提供する側にまわることができれば――自身にある縛りから自由になる手段として、それを選択できれば――と今、考えている。

 

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