March 2003

 主は今、若者を立てられる

                           坂  達 也


    2003226日から31日までカンサスシテイーで行われたマイク・ビクル師のカンフ

   ァレンスに行って参りました。私はこの集会に参加して、この1年ほどの間、主から与えられ

   たと信じて来た私の思いに確信を得ることが出来ました。

   

もう1年以上になりますが、私の心からどうしても離れない御言葉があります。それはIコリント10章です。特に5節と11節で「…彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。…これらのことが彼らに起こったのは戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

ここに出てくる「彼ら」とはモーセに引率され、エジプトから出て約束の地カナンに向かうイスラエルの民のことです。

聖書をよく読むと、創造者である神様のなさることには一貫したパターンがあることに気が付きます。それは神様は最初に肉の形で表わし、後に同じ事を霊の形で表す(Iコリント15:46)と言うパターンです。このパターンを心に留めて聖書を読むと、書かれている総ての事が見違えるように生き生きと見えて来て、総てに霊的な深い意味があることが分かってきます。特に、肉の形でイスラエルの民に起こった旧約聖書の物語が、終末に生きる私たちクリスチャンにとって霊的に重要な意味を持つことが分かります。本当に聖書全体が今の私たちのために書かれていると言っても過言ではないと思うのです。

さて、このパウロの警告で先ず気が付くのは「荒野で滅ぼされたイスラエルの民」とは神を信じる人たちばかりで、それは今のクリスチャンに相当すると言うことです。とすれば、その民の大部分がなぜ荒野で滅ぼされたかを、私たちは今自分のこととして真剣に受け取る必要があると思います。

イスラエルの民が荒野で神の怒りをかった理由は、自分の欲望をむさぼり、不平を言い、偶像を崇めたからですが、そうなった根本の原因は何かと問いただせば、彼らが「神の声に聞き従おうとしなかった」ことにあると信じます。主は、「今、もしあなたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となり…祭司の王国、聖なる国民となる。(出エジプト記19:56)と言うすばらしい約束をイスラエルの民に与えました。これに対し民は口をそろえて「私たちは主が仰せられたことを、みな行います。」と言っておきながら、実際には主がシナイ山に降りて来られた時、雷といなずま、全山を蔽う火の煙と激しい地震で民を試されると、みな神を恐れ、モーセに「…神が直接私たちにお話しにならないように、私たちが死ぬといけないから(20:19)と言う致命的に間違った嘆願をしたのでした。人間は、神と親しく個人的に交わり、神の声に従って生きる様に最初から造られているのですから、「神の声を直接聞かない」と言うことが荒野で滅びる決定的な要因となったと私は思います。

この物語が現代のクリスチャンへの教訓であると言うことは、この終末の時代に同じ事が再び今度は霊的な形で霊のイスラエル人である私たちの上に起こると言う事を意味します。

さてここで、荒野で滅びた人たちとはヨシュアとカレブと言う二人の指導者を除く20歳以上の総ての人たちであったと言うことに注目したいと思います。(民数記14:29)つまりヨルダン川を渡って、約束の地カナンに入ったのはヨシュアとカレブに引入れられた20歳以下の若者たちでした。

最近世界中で若者が台頭し、若者からリバイバルが起きつつあると言われます。神様は明らかに今、世界中の若者を祝福しようとしておられます。私はこの事実を喜ぶと同時に、この事実が意味するところに気が付いて愕然としました。つまりパウロの警告によれば、私を含む20歳以上のクリスチャンの大部分が、もしかすると約束の地に入れないで荒野で滅び果てると言うことになるからです。

但しこの場合の20歳以上とは霊的な年を指していると解釈したい処です。そして「荒野で滅びる」と言うことが救いを失うことであるとは思いません。しかし蜜と乳の流れる約束の地で、再臨の主の側で過ごせると言う特権に与ることが出来ないことを意味しているのかも分かりません。

今回のカンサス・シテイーのカンファレンスに出席して、主催者であるマイク・ビクル師の熱烈なビジョンに触れた時、私ははっと思いました。それはビクル師が神が選んだヨシュアの一人であると言う確信でした。現在46歳のビクル師は20年前に主から耳に聞こえるような声ではっきりと預言を受けました。それは今彼らがIHOPと言う名前で始めた724時間の「ハープ&ボウル」のミニストリーを世界中の若者たちへ広げて行くために5千人のリーダーを主が与えると言うものでした。

しかしここで注意していただきたいのは、この「断食祈祷のミニストリー」の特徴が主を個人的に知って、深い交わりを持つことにあることです。それは「花婿」であるキリストが熱烈に愛し求める「花嫁」となるために、私たちが花婿に対して個人的に親密な愛の関係を持つことを目的としています。

これはまさに、出エジプト記19:5で、神が私たちに求めている「まことに私の声に聞き従う」ことに適い、又カナンの地では羊は羊飼いの声を聞いて、慕い従って行く、「主に安息」する時代であることにも通じます。

今回のカンファレンスの最大の特徴は、招かれた講師が皆イエス様をビクル師の言うように恋人のように親密(Intimacy)に知った人ばかりで、本当に神に近い,神の声をよく聞く人々であると言う事です。ビクル師を初め、ポール・ケイン師、グラハム・クック師、リック・ジョイナー師、ジャック・ディヤー師,それにゲイリー・ウエイン師(この人の本を今読んでいますが、この方も実にすばらしく神を知る人です。)のような多くの霊の逸材をビクル師の処に集めておられること自体が、主が終末になさる「サイン&ワンダー」であると感じました。

中でも特記すべきことはタッド・ベントレーと言う特別の癒しの器に出会ったことです。彼の見るからに成熟した容姿はとても27歳には見えません。彼自身の証しによれば、彼は明らかにイエス様を深く知り、使徒的油注ぎによる癒しを実行している人であることが分かります。彼はドラッグ・ディラーから救われた後、連続して3ヶ月の間、主とだけの内密な時間を毎日5時間も過ごすと言う経験を与えられました。それを2回経験したので、通算で少なくとも6ヶ月間、彼は使徒が主と共に暮らしたのと同じ経験を持ったと言っております。最後の時代には主は速くことを成されると言われますが、まさに主はこの若者に短い期間に集中して使徒訓練をし、使徒の油を注がれました。彼の癒しのミニストリーにはみなぎるような主の力が臨在しています。又、彼の「信仰と癒しの関係」に関する御言葉の理解にはとても27歳とは思えない霊的な深さがあり、それは主から直接与えられた霊の知識であることを強く感じました。

話しは横道に逸れますが、今の時代はアメリカでも日本でも「使徒」と「預言者」を立てることが強調されています。終末の教会にこの二職を立てることの重要さは私も認めますが、問題は、それに選ばれる人の資格にあります。私にとって絶対に欠かせない使徒の資格とは「イエスと共に住む」と言う初代の使徒と同じ経験を持つことです。使徒とは主が選んだ人たちです。そして最初に選ばれた使徒たちは肉的に主と3年半を過ごしました。であれば後の時代においても使徒の資格は同じはずです。なぜなら、そのために主ご自身が私たちの中に聖霊様として来られ、内住されているのですから、少なくとも使徒と呼ばれる人は霊的に最低3年半、実際には毎日を主と親密な関係で過ごす人でなければならないと思います。そうあってこそ、主はそのような緊密な人を通して、主ご自身が直接大きな御業をなさるのが「使徒の働き」であると信じます。ですから使徒の働きには単なる通常の賜物を持つ人が行う業以上に主の圧倒的な力「サイン&ワンダー」が顕れると思うのです。

私はIHOPを昨年訪ねていますので、この人たち(ほとんどが若者)の賛美に接するのはこれで二回目です。今回は特に「若者」に興味がありましたので、このIHOPグループの演奏者たちに注意を払って見守っておりました。そして気が付いたことは、歌っている歌い手たちが本心から主に向かって語り掛け、叫んでいると言う事でした。多くの歌い手が涙を浮かべていました。彼らのやっていることは、演奏家として技術的ダイナミックさに欠けるかも分かりませんが、ステージアクトではない、素朴に主を求めている霊的な姿でした。そこにリーダーであるマイク・ビクル師の霊的指導を見ることが出来ます。

終末の時、世界中で24時間切れ間なく主に賛美と祈りをささげたいと言う熱狂的なハープ&ボウルの願いはダビデのビジョンです。しかしそれ以上に、24時間私たちと共に住んで下さる「内住の主」への感謝と、絶え間ない愛の語り掛けでなくて何でありましょうか。それは究極的なクリスチャンの姿を表していると思います。

そのための若者が今どんどん立てられ、カンサスシテイーに集められております。やがては日本からも使命を持った大勢の若者たちがやって来るでしょう。そして霊的な訓練を受けた後、リーダーとなって日本に帰り、本格的な24時間の祈りのミニストリーが各地で起こされると確信します。しかし、ここで忘れてならないのは、ここに集まる人たちは主との霊的交わりに飢え乾いた人たちであると言うことです。

さて、それではヨルダン川まで来た年配者のクリスチャンはどうなるのでしょうか。それは、年だけ取って宗教的で、頭だけのクリスチャン、教会の仕事は献身的に尽くして来たが、主を個人的によく知らない、あまり霊的・内面的なクリスチャン生活を送って来なかった人たちのことを指しますが、そのような人たちに向かってこそ「悔い改めよ」と荒野でバプテズマのヨハネが叫んでいます。今までのマルタ的クリスチャン生活を、心から悔い改め、もっともっと主を個人的に知って深い愛の関係に入る、マリアにならねばならないのです。そしてそのマリアに変えられたマルタが立ち上がって、霊のヨルダンを渡り、霊のカナンの地で抜き身の剣をさげた主に出会って、主と共に最後の闘いに参加するのが終末の真のキリスト者であると思います。そこで最後の闘いに参加出来ても、私たちの総司令官であり王である主の指示する声が聞こえなくては敵に殺されてしまうでしょう。

私は荒野の生活から約束の地に入るためには「ヨルダン川」を渡らねばならないこと、これは霊的に大変大きな意味を持つと信じます。先ずレビ人の祭司が担ぐ主の契約の箱を先頭に、ヨシュアとイスラエルの民が乾いた川底を歩いてヨルダンを渡りました。その後、エリヤが外套で水を打っと水が分れたので歩いて渡りました。エリヤの後を継いだエリシャが同じように水を打って渡りました。そして、その同じヨルダンでヨハネは多くの悔い改めた人たちに洗礼をさずけ、キリストもそこで洗礼を受けました。その時天が開いて、御霊がくだり、父の「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と言う声が聞こえました。これから霊のヨルダンを渡る私たちの上にも天から同じ祝福の声が聞こえるはずでありましょう。

私たちクリスチャンは今こそ、ヨルダン川の川岸に立っております。ここで真に悔い改め、水と聖霊()の二つの霊的なバプテズマを受ける時に、私たちはヨシュアとカレブになって向こう岸に乾いた底を歩いて渡るのです。それは次の世代の若者たちの霊的指導者になることを意味します。

これからいよいよ、ものすごい数の「若者」が聖霊の起こされる最後のリバイバルによって集められます。その人たちにはよい霊的指導者が必要です。主は今こそ、荒野で滅ぼされるかどうかの「剣が峰」に立つ「年寄り」に期待しておられます。(終わり)