| エッセイ 教育について 今の生徒たちに「やる気」がないのが不満だ。学校教育のシステム自体に不満がある。 いい学校とは、教員たちの求める「教育の理想」とか、生徒をどのように、どこまで伸ばすかの「目指す到達点」を、ある程度まで議論して詰めて、一定範囲の合意のもとに(※1)カリキュラムを課外活動も含めて組織し、段階的に生徒の‘学力’を育むような体制を持っているか否かにかかっている。表向きは、どこの学校も、そうしたことを謳ってはいる。しかし多くは空疎なものでしかないのではなかろうか。 ※1 全ての教員が全く同じ教育観を持っていることは不気味な事態であり、現実的にもあり得ないであろう。一つの学校的価値観に呪縛されない、多様性と自由が保障されることが必須であろう。 学力を‘’つきで書いたのも、そこにある。学力の定義は曖昧である。思うに「学力」は、知識の集積ではない。問題解決力なのではないか、と僕は最近思っている。つまり、問題を前にして、それへの取り組み方、方法論こそ学力なのだ。(※2) ※2 たとえば、学校の科目は社会に出てからは必要ないが、考え方とか勉強の仕方は応用が利いて、社会に出てからものを学ぶ上で役に立つと言われたりする。僕は「その通りだ」という立場に立っている。 学び方、つまり方法論に関しては、『知的生産の技術』『発想法』『知的複眼思考法』などを、僕は念頭に置いているのだが、しかし、今の高校生にこれらを学ばせるのは難しいかも知れない。(第一、僕だって、教師になってから読んだのだから・・・)まぁ、それはやり方次第なのかも知れないけれど。 寓話を読むことが、あたかも複雑な現実社会を読み解く上でのアレゴリーとして機能するように(※3)、学校的体験が現実社会での経験のアレゴリーとなるように、学校カリキュラムが組織されることが必要だと考える。 ※3 批判があるかも知れない。寓話はアレゴリーではない、と。しかし、寓話がアレゴリーではないと納得するような読書経験は、それ自体として、現実を読み解く上である種の作法のアレゴリーとして機能してしまう。 学校的体験としての「修学旅行」は、個々の学校の掲げる「修学」のお題目とは無縁に、惰性化したバカ騒ぎでしかないような気がする。「旅行」が富める者の余暇であった時代においては、大衆教育の場としての学校においての修学旅行にも、それなりの存在価値があったかも知れないが、海外旅行が珍しくない今日においては、生徒にとっては旅行の意義よりも、むしろ学校集団における他者との協調を強いられる特殊な非日常の経験としての意味が大きいのではなかろうか。 もちろん豊かな時代に生きる子どもたちが、旅行を当たり前の制度として学校教育の中で経験できることは、すばらしいには違いない。経験できないよりは、経験した方がいい。人生なんだって経験した方がいいという立場には賛成だ。しかし、もし集団活動を経験させることが修学旅行の目的なら、何も修学旅行でなくても、社会にさっさとほっぽり出す方が、彼らの為には手っ取り早いではないか。あるいは、もっとマシな集団活動が他にあるのではないか、と思われる。インターン制度という便利なものだってあるのだ。 テレビでみた番組で、「なぜ今の高校生は援助交際があとをたたないか?」の問いに、「ある警察官は売春婦も高校に行くような時代になっただけのことだと答えた」という。 これは傑作だと思った。今や大学で学ぶ目的意識も、進学への意思も希薄な生徒たちが、「進学」を目標とする高校に籍を置く時代になったのだと言える。夢を持たせる力が学校にないとも言えるだろう。しかし、それは、子に夢を持たせられない富裕な家庭が増えたとも言えるのだ。身にそぐわない豊かさを消費する上で、ブランド志向を持った親が、子を私立学校に入れるのは、理解し易い。 もし学校が夢を持たせたいのなら、進学を優先したプランを、ひとまず凍結した方が良い。順序が逆だからだ。多様な選択肢を示した上で、もし有名大学への進学に夢を賭ける生徒が現われれば、彼らに対して進学至上主義の教育を施せばいいのだ。逆に言えば、なんでもかんでも有名大学に行かせようという考えに凝り固まっている学校は、始めからそれが生徒にとっての夢であると信じているために、逆に生徒の夢を育む上での柔軟性というか、知性に乏しいような気がしてならない。そういう学校は「夢を持たせる」などとは言わず、「進学の夢を持たせる」と厳密に謳った方がよい。 夢=大学進学とは限らない。そう自覚すべきである。 何のために大学に行くかも定かではなく、勉強を無理強いされるのは、生徒にとっても不幸なんじゃないだろうか。青春は貴重だ。自分でもその目的がよく把握できてない一事業を遂行することは、そうした立場の生徒にとっては荷が重過ぎるかもしれない。 僕は教師として、生徒の力を高めることを仕事にしているのだが、しかし教科の学習は、大学進学という前提で成り立っていることは否めない。専門学校進学や就職を目的にしている生徒にとっては、荷の重い課題としか受け取られかねない。(ただなんとなく、周りがそう言うから・・・というだけの理由で大学進学を希望している、あまたの生徒たちにも当てはまることだ。)そして現実的にいって、そういう生徒たちに、勉強の面白さを教える的な、余暇的な意味での教育は、ナンセンスではないかと思う。 理由、その1。大学に進学しない時点で、シビアな現実が待っているのだから、特殊な才能がある以外の場合、現実を生きぬく具体的な知恵こそ必要ではないか。あるいはその現実をよく認識させる努力と、そうした上で将来のビジョンを描かせる努力が、進路指導の場面で行われるべきである。 理由、その2。勉強というのは、面白いだけではない。ツマラナイと感じるような場面もあるものだ。難しいこと、手間がかかること、藁をもつかむような頼りない時間を過ごすこと、それでも全体を把握しようとする意思と、コツコツと積み重ねる労力によって、何がしかの見取り図を自ら獲得していく作業、そういうことを体験せずに、何が勉強だ!と僕は思っている。 よって、キレイゴトではない、生の声。本質的な改革。そうしたことが、教育界に起こるべきだし、すでにそれは起こるべき状況になっている。メディア教育は、もっと熱く行われるべき時に来ている。インターネットや他愛無いHPを作って満足している情報教育ではダメだ。メディア・リテラシーや、メディアを使った創作活動を推進するべきだと思う。文化祭を刺激的な創作物で溢れさせてみろ、と言いたい。 最後に。 やはり、自ら学び自ら成長しようとする意思を、生徒ひとりひとりに持たせることができるかどうかが鍵だ。何をしようとするか。それは個々の生徒の判断に委ねられている。学校、教師ができるのは、それぞれの生徒のサポートなのだということを、きちんとアナウンスするべきだ。(※4)その上で、個々の生徒が自らの選択をクリアに表明すること。そうすれば、教師は十人十色、適材適所。生徒個々に、今よりももっと柔軟で決め細やかなサポート体制を作れると思うのだけれど。 ※4 生徒が何をしたいかを見つけるためのサポートは、学校全体として行うべきだし、情報を与える体制をどれだけ作れるかが大切だ。早い話、中・高一貫なら、中学のうちから、さまざまな体験学習、職業体験、課外活動をさせるべきかも知れない。高校だったら、様々な専門分野の大学教員を招聘して、講演会を沢山開いたり、あるいは、企業から人を呼んで講演してもらってもよい。また、社会への関心を高めるために、さまざまな人を学校に招聘して、コミュニケーションの機会を作るべきである。たとえば、戦争体験者、被爆経験者、水俣などの公害問題に関するエキスパート、警察官、弁護士、スポーツ選手、音楽家、美術家、などなど。お題目化した空疎な学校行事を潰しても、こうした外部の人たちを巻き込んだカリキュラムを徹底的にマジになって作れれば、そしてこうしたカリキュラムを教科授業と同等の価値を持つものとして実践できれば、おのずと生徒の意識は高まるのではないかと考える。 そうそう、イベントということなのだ。修学旅行や文化祭だけがイベントではないのだ。もっと他に、豊かな質の高いイベントに金を出せるようでなければならない。アホくさい宴会に大枚はたいているような私立学校なら、あながち非現実な案とは言えないと思う。(金はあるのだから、要は使い道ということ) ここでは私立学校ばかりを槍玉にあげたが、公立だって同じように利益を享受する権利が生徒たちにはあるはずだ。しかしながら、筆者は公立学校の現場については無知なので、語るべきことを持たない。 |