サンタクルスは1561年にスペイン人カピタン、ニュフロデチャベスによって現在のサンホセ-に近いモ-ホスに建設されたがその後グァパイ河辺へと移され、更にグリゴターに移したと云われていて現在の所に定着したのは1569年である。一説に因れば疫病(熱帯病)の他、インデイアンの襲撃に耐えかねての移動に次ぐまた移動であったとも言われている。

1940年代に政府はサンタクルスの近代化を議るが1950年代になって漸くコチャバンバから延びる国道の完成とブラシルに接続する鉄道の開通とによってその実行の速度は飛躍的に高まる。それに因って農業や牧畜も盛んになり、また一方で石油の開発も進んだ。その頃には既に帰来二世と呼ばれた戦後の移民がいて旧移民十数の方々と共に活躍していた。それから沖縄県からの農業移住者,続いてサンフアン移住者が来るのである。

県都であると同時に,アンドゥレスイバニェスの郡都でもあるサンタクルス市は他のヒスパーノアメリカーナの街と同じくスペイン様式を保持し,9月24日広場と呼ばれるプラサを中心にして四方に碁盤状に広がりながらも第一環状線を越える事はなかった。其処から外は裕福な人の別邸や僅かに拓かれた農地が点在するだけで、少し離れて飛行場、停車場、兵営や刑務所、屠殺場と言った郊外型の施設があるだけの緑多き街であった。程なくして第二環状線の工事が始まるがそれは人口の都市流入が顕著になる1956年まで待たねばならない。

中央プラサを囲んで東側は商店にホテル、北側にはカサスワーレスの建物と銀行,西は大学と映画館に続いて9月24日クラブが並び、南側は政庁舎と教会が占めた。そしてプラサ中央に立つ独立戦の英雄ワルネスの銅像の下では警察隊が吹奏楽の演奏をサーウ゛ィスする事も屡々であった。その楽隊メンバーの幾人かが頼まれて葬式の先頭に立って葬送曲を響かせるなど、ここでは諸事万事が緩やかであった。警察に税務署、郵便局とか公設市場そして商店街はその近くにあり、続いて富裕な人々の屋敷が軒を並べる形で広がるのであるが物の5〜6丁も行くと家畜が通りを遮る事も珍しくなかった。電気は故障の連続で、家々は灯油らんぷを灯し、水道もなければ下水もなく、ただ僅かの施設に手動の電話が見られた他はアマチュアー無線局程度の放送局があるだけであった。雨の日は通りと言う通りは小川と化して人を通さず、特に繁華な市場の辺りになると泥濘も深く牛車以外四輪駆動のジープすら歯が立たない有様であった。

雨水は土砂を押し流しながら所々に水溜りや湿地を作り、それはやがては庶民の飲料水となるのである。地下に大きな水槽を持つお屋敷はともかくも、多くの庶民は頭に水がめを乗せて水溜りで水を汲み、洗濯は湿地でするのが当たり前の事であったから飲み水は将に貴重な物であった。トゥトゥーマ一杯の水で顔から躰までを洗うと言われた程であった。そんな街路だが晴天の日が続くと砂風が舞って道行く人々の顔を俯かせ、所々に砂の吹溜りを作っているだった。後に公設市場が手狭になって移されたのが当時の湿地の一つのロスポーソスで、昼間は悪童どもの格好の釣り場だが夜ともなると赤子の鳴き声に似た蛙の声だけが聞こえるうら淋しい所であった。

昼間のプラサは映画館の辺りが賑やかで、其処から9月24日クラブの角には数台の年代物のタクシーが並んでのんびりと客待ちをしてる。政庁前は黒の正装をした人が行き来し、中には熱さに耐えかねてか上着を肩先にヒョイと掛けた格好の紳士も多く見うけられた。女性はといえば黒ずくめの服装が多く、若い女性だけは色鮮やかな服装で闊歩していたがこれはまるで西部劇に出て来るメキシコの田舎町を連想させるのであった。

街はその何れもが時代を感じさせる建物が並び、赤い屋根瓦は錆色に変わってある物は既に波打っている。庇が長く道に張り出して強い陽射しを遮りながらその下に歩道を作り、高い入り口のドアの他は白塗りの壁には窮屈相な小さな窓がつけてあるのみだ。プラサからほど近い邸宅では壁の厚さも60センチ程もあって高く、簡単に中二階が出来る高さである。その大きな入り口から中を窺うと先ず、パーテイオがあって井戸が見える。そのパーテイオの地下が先に書いた貯水槽になっているのだがその奥にまた第二のパーテイオが続くのが普通で更に奥に広がりを持つ家もあると聞かされた。プラサを離れると二階家は殆ど見られずに平屋建の家ばかりが続く。暑い国だからであろうか、白壁が一抹の涼を呼ぶような気にさせてくれる。二階家で忘れてはいけないのがあった。それは先ほど出て来た独立の英雄、ワルネスが愛妾と住んだと言う家がそれである。英雄の闘志を偲ばせるかの様な堅いクーチの角柱が風格を漂わせていた

                                             
         
Santa Cruz de la Sierra