サルテニャ物語



美味しいサルテニャ_作り方





10時を過ぎる頃になると腹の虫がグーと鳴く。私はデスクの上をチョット片付けてから仕事にかこつけて外に出るのである。郵便局を回って私書箱を覗いてから近くのCafeに入って何時もの様にコーヒとサルテニャを注文するのだ。勿論「プーロにエスペシアール」と伝える事には変わりない。   店はいよいよ込み始める。
兎にも角にもこの熱…いブラックコーヒと窯から出たばかりのサルテーニャは実に美味いんだナ…これが。私が最初この地に入った頃はサルテーニャを商う店はなかった。イヤ、目につくほど多くはなかったと云うのが正しのかも知れない。然し日本人の新垣サンと言う人が店を出してからお店は専門店として大いに繁盛するのである。Ensalada de Frutaを初めてこの地に流行らせた店でもあるが何しろお役所の集まるプラサに近く、また学校からも便利な距離にあったこの店はすぐに誰知らぬ者のない名所になってしまった。
さて、サルテニャと言うものをご紹介しよう。一言でいうならば餃子のお化けみたいなものである。メリケン粉をラードと温水で捏ねた生地を15センチ位はあろうか、円形に延ばしたものに具を詰めてからそれを半分に畳んで空い方の端の部分を餃子の様に包むのである。それに卵黄を塗って熱い窯に入れてハイ okで、文字にすればたったこれだけの事である。然しこれだけでは済まないのがサルテーニャで、具を書かざれば画龍点晴を欠くことになってサルテーニャに申し訳ない。では具のことに少し触れて見ることにしよう。牛肉を煮込んでからほぐしてたものを味付けしてからジャガイモの賽の目切りを固ゆでしたものを加えて先ほどの皮に乗せ、その上にゆで卵の一片、オリーブの実や干しブドウを少々を置く。それから忘れてはならにのが牛足を煮込んで取ったゼラチンであるがそれを一切れ落すと言う事だ。その他、店それぞれの隠し味を加えてある事は申すまでもないがサルテニャの出来はこの具の味付け次第で決まると言っても過言ではない。   (上部に写真挿入)
何かの本で読んだのだがサルテニャの初まりはアルゼンティンのサルタにあるという。サルタのある婦人がタリーハに住むようになってそこでエンパナーダ風のものを焼いたのがそもそもの始まりだとか。それが何時しかサルテーニャと呼ばれて町中の評判となり、やがてアンデス一帯に広まって行ったのだと言うのである。さも有りなん、タリーハはサルタに近く、コロニア時代にはサルタ管轄権の飛び地であった所でもあるからサルタから来てタリーハでサルテーニャになったと言う事はあながち嘘ではあるまい。
アンデス、コーリャの地のサルテーニャは確かに美味しい。それを本場ものと言うのだろう。ラパスで食べたサルテーニャはサンタクルースのそれよりも一味上を行くものであった。ラパスの中心街にはプラードを挟んで繁盛している店が2軒ほどあった。その何れも日本人のお店である。私はそのどちらのサルテーニャも食したがやはり美味しい。脱帽した。その内の1軒、桜井サンのボリウ゛ィア人の奥さんが作るサルテーニャの味が今でも忘れられない。美味、美味、美味でありました。
コチャバンバの有名なサルテーニャの店もこれまた日本人のお店である。山口県のご出身であると言う藤本サンのこのお店は大変な繁盛振りで千客万来とは将にこんな事を指すものだと思ったほどである。これまたラパスのサルテーニャに勝るとも劣らない美味、美味、美味であった。
さて、ここで少し閑話休題と行こう。
藤本サンはかつて或る苦学生を何かと面倒をみていた。とは云うのもこの苦学生は反政府運動をしている一連のグループの若者で、何時も警察から追われてばかりで生活にも事欠く始末、そんな彼を藤本サンはせっせと面倒をみてやっていたそうである。苦学生はやがて士官学校を卒業して空軍士官に任官して出世の階段を上がって行くのであるが何と何と、幾年かが過ぎて彼は軍事クーデターを指揮して遂に成功、そしてボリウ゛ィア国大統領の座に就いたと言うのである。嘘のような話であるが事実、藤本サンに大統領府からお召しの車が来て彼は豪奢な一室に案内され、暫し待っていると間もなく重い扉が開いて彼の前に立った恰幅のいい大統領閣下は紛れもなくあの時の苦学生、そして左右に並ぶ金ぴかの将官の幾人かは時々苦学生と一緒に来ていたあの貧乏学生達であったと言う。藤本サンは知っている限りのスペイン語を並べてお祝いを述べたそだ。大統領閣下は更に近づいて来て藤本サンの手を握りしめながらこんな事を言ったという。「これから御恩に報いたい。何なりと申し出て下さい」と。
暫くして藤本サンに在神戸ボリウ゛ィア国領事に任ずる旨の辞令が届いた。大統領の恩返しに感激して藤本サンが日本に発ったことは言うまでもない。ボリウ゛ィアであった、まるで嘘のような本当の話である。  その大統領こそ誰あろう、かの有名なバリエントス将軍であった。

サァ…もう一度サルテーニャの話に戻そう。昔のボリウ゛イア東部は交通も継ならない遠隔の地であったそうだからこのサルテーニャ文化の伝播にかなりの遅延があっただろう事は想像に難くない。それが東西サルテーニャの優劣にも少なからぬ影響を与えたに相違ないと思う。事実、当時は明らかに西側に軍配を上げざるを得なかった。しかしそこはサンタクルースの日本人、決して負けることはなかったのである。
先に触れた新垣サンのお店であるが、相変わらずの繁盛振りながら商売の常とでも言うのだろうか2匹、3匹目の泥鰌を狙う店が現れ出した。その内の一軒で強力なライバル、更にプラサに近い好所を占めてある老婦人姉妹が出した店がそれである。富裕な家系のオバーチヤン達が作るサルテーニャは確かに美味かった。ヒゴーテも然る事ながら、マーサに独特な味と香りがあり、焼き上がりも硬くなる事もない。今風に言えば「デリーシァス」且つ「マロヤカーーー」であるから将に強敵現るである。然し流石の弁慶にも泣き所があった様に、この店にも泣き所はあり、欠点とも言うべき個所が幾つかあったのである。
それは有閑婦人のお道楽的なご商売であったから売れてよし、売れなくてもよしのあくまでも少数限定販売である。それに姉妹の一人でも欠けると店を開かないとか、時々体の調子が悪いと言っては店を休むのである。そんな調子だったからチョト遅く行くと売りきれだったり、期待に胸を彈ませて早めに行っても降ろされたシャッターを睨んで踵を返しながら悔しがったりした者は私に限らず多くの人々も同じだった様だ。そしてお店は遂に閉店してしまった。

さて、先ほどの新垣サンのお店であるがその間にも繁盛は続いて売上では他の追従を許さず、ナンバーワンの座を明渡す事はなかった。寧ろ販路は大いに拡大されて方々の店が仕入れに来る様になり、サンタクルス中のサルテニャがこのCafe Sakura製にとって変わるまでになっていた。将に絶頂期にあったのである。その頃、新垣サンは新しく始められた事業に専念するとしてお店を辺土名サンと言うやはり沖縄の出の方に譲られるのだがその辺土名サンがまた商才に恵まれた人でポトシーの職人を引き連れて跡を継いだから味は一層向上してお店は名実共に騰るばかりとなった。

こうしてサンタクルスのサルテーニャは本場の物にも劣らない地位にまで引き上げられたのであるが、これには日本人が大きく係わったと言う事を皆さんにもお伝えしたかったのです。たかがサルテーニャされどサルテーニャ、ラパスの桜井サン、コチャバンバの藤本サン、それにサンタクルスの新垣、辺土名の両氏のお名前はサルテーニャがある限り何処かに残されるべきものだと思います。私は昼前になると今でも腹の虫が泣き出してサルテーニャを食べたくなるのです。そして新垣サンと辺土名サンに思いを馳せながら在りし日のサンタクルスの情景と移住初期の苦しさを思い出します。
因みに我家では今でもサルテニャを焼いて食します