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91年9月 2回目の中国
-- 香港、広州、桂林、昆明・石林 --
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○ 広州駅で ○
今回は別の友人と2人で香港まで飛行機で飛び、鉄道で広州に入りました。 広州駅から外に出た瞬間目に入った光景はたぶん一生忘れられないでしょう。 一面の人、人、人。 駅前の広場は当時「盲流」と呼ばれていた、地方からの出稼ぎ労働者たちで埋め尽くされていたのです。その数がどのくらいだったのか見当もつきませんが、何百という単位では済まないことは確かです。 みなそこで何かをするわけでもなく、そこが居場所になっているのです。活きるために、故郷を離れ都会に出たけれど行き場のない人の群れ。見ているだけで息苦しくなってくる光景でした。 まだバブル経済の余韻の中にあった日本から来た私は、中国社会の影の部分を見た思いでかなりショックを受けました。
さて、この広場から切符売り場に入りうろうろしていると、後ろから男の人が日本語で話しかけてきました。中国人の話す日本語です。「もしかして前に会ったことありませんか…?」私達はもちろん広州に知り合いなんていません。(広州ではこんな日本人みたいな声の掛け方が流行っているの?目的は何?)と思いつつ振り向くと、なんとその人は一年前上海から横浜へ帰る鑑真号で一緒だった留学生でした。 偶然とはあるものです。 TVドラマだとそこから恋に発展するものですが、現実はそれきり。やはりドラマのようにはならないのでした。
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○ 桂林 ○
水墨画の世界、桂林。 漓江下りはまさに山水画の中に入り込んでしまったような錯覚に陥ります。あの幻想的な美しさは、"天下一"と言ってもおかしくないと思います。 でも…。私は桂林と聞くと「日本語ペラペラの怪しい2人組」の顔を思い出してしまうのです。 どことなく"とんねるず"に似た2人組みはとても親切で、一日かけて有名な水墨画の先生のところに連れて行ってくれたり、観光ポイントを案内してくれたりしました。
あとで同じホテルに泊まっていた日本人達と話ていたら、その人達も別の日に同じように水墨画の先生のところに連れて行かれたことが判明。そういえばその"高名"な水墨画家のところで、「絵をすごく安く売ってくれる」「このチャンスを逃すなんて本当にもったいない」等々、かなりしつこく勧められたのを思い出しました。 その勧める時の表情があまりにも真剣で、「本当にもったいない…」などという時は惜しさのあまり気を失って倒れるのではないかと思うくらい真に迫っていたので、(なんか、すごいな…)とは思っていたのですが。
実際にはただ案内してもらって助かったわけですが、やはり騙された気がしてなりません。こういう日本語ペラペラで観光客ズレした人に出くわしたのは桂林が初めてだったのと、他にもペラペラの日本語で客引きをする店があった為に、私にとってはそれが桂林のイメージとして定着してしまいました。
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○ いざ、昆明へ ○
桂林から雲南省・昆明への列車は、始発がなく途中乗車になるので切符の入手が非常に大変でした。朝の発売時間前に並んでも目の前で売り切れたりして、数日間足止めをくらいました。やっと手に入れた切符は「無座」、つまり席無しの夜行です。 私達はトイレ脇のスペースにゴザを敷いて寝ました。この移動は身体的なつらさに加え、足はゴミと一緒に掃かれるし、盗難にも遭うし、かなり参りました。
昆明では途中の石林への1泊旅行を含め、ずっとサニ族の女性達にマークされていました。彼女達の目的が刺繍などの手工芸品を売るためだということはわかっていたし、買う予定もあったのでおとなしく案内されていました。彼女達は民族衣裳を身にまとい、石林等近郊から昆明へ出稼ぎに出てきているようでした。雲南省は日本人に人気があり、バックパッカーなど旅行客が多いところです。サニ族など少数民族の女性にはまって住みつく日本人男性もいるのだとか。彼女達はそういう日本人達から教わり、日本語が話せるのでした。
今回はハードスケジュールだった上に、現地の人のペースに載せられ、心身ともに疲労の激しい旅となりました。帰国した時は、もう中国なんて行きたくないと騒ぎましたが、時間・お金ともに切り詰めすぎたのが祟ったのだと思います。 若気の至り、ということです・・・。
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