実際、この地に人々が生活していたとされるのは、約5000年ほどまえからと
考古学の調査でわかっていますが、マカオのひとたちの先祖がこの地に住み
始めたのが、宋朝時代の末期頃と一般的には言われています。       








古代には濠鏡澳と称され、当時の広東省香山県(現、中山市)に管轄されていた。16世紀の中頃
にはポルトガル人がこの地に住みはじめますが、最初は一時的な上陸でした。明朝の時代、つまり1
572年には朝廷から正式に居住を認められました。そのポルトガル人たちは、交易を業として活動を
します。こうして、貿易港として、欧州文化とアジア文化の交わる国際都市として発展していきます。





しかし、アヘン戦争のあとポルトガルはマカオを植民地としての統治影響力を強め、当時のポルトガル
女王であった「マリア二世」が1845年にマカオの自由港宣言をおこない、外国船の自由貿易を認め
ました。その後もポルトガルはタイパ島につずき、コロアネ島も占領してしまいます。そして、1877年の
12月「中葡和好通商条約」により中国はポルトガルがマカオを永久統治する事を認めてしまいます。





1974年のポルトガル革命後、新しいポルトガル政府は海外にある植民地を放棄するという反植民
地主義を宣言します。その時、マカオは中国領土であり、ポルトガルが管理している特別地域というこ
とを明確にしました。そして、1979年には外交関係を樹立した中国とポルトガルは「マカオの前途に
関する連合声明」を1987年4月に樹立調印しました。これにより、みなさんもご存知のように1999
年の12月20日、マカオは正式に中国へと返還されました。そして現在、中国の特別行政区となった
マカオは、となりの香港と同様、返還前の社会、経済制度を今後50年間は変えないことが宣言され
ました。政治的には、マカオ特別行政政府基本法が適用されました。そこにはマカオ特別行政政府
には行政権と立法権があると書かれています。( マカオは日本とは違って三権分立ではありません。)


マカオという地名の由来

そこには、日本の「七夕」と深い関わりがあり、縁というものを日本人としてあらためて考えさせられました。




マカオ半島の南端に、明の時代から500年以上もマカオを見守ってきた「媽閣廟(マーコッミュウ)」とい
う古いお寺がありますが、そこには天上聖母(マカオでは阿媽、日本では天川)と呼れる航海安全の
女神が祭られていて、今ではマカオの観光名所のひとつになっています。その「媽閣廟」には、ある言い
伝えがあります。その昔、現在の福建省出身のひとりの貧しい少女が港にあらわれ、船に乗せて欲し
いと金持ちの船主にお願いをしましたが、聞き入れてはもらえませんでした。しかし、一隻の古くて粗末
な船の船長が、その少女の申し入れをこころよく引き受けてあげました。しかし、その航海の途中で激
しい暴風雨にあい、船団はその粗末な船以外はすべて海の藻屑と化し、すべて沈没してしまいまし
た。その時、粗末な船の舵はその少女がとり、無事にマカオの入り江に辿り着いたそうです。少女は下
船すると丘に登って行き、天に向かってキラキラと輝きながら昇って行ったそうです。船員たちはそれを
見た時、はじめてその少女が「女神阿媽」だったと気がついたのです。船の乗り組み員たちは感謝の気
持ちを込めて、少女が上陸したその場所にお寺を建て、そこを「阿媽閣(アマーコッ)」と名付けました。



 
路環島(COLOANE)にある、マカオという地名の由来となった「媽祖塑像」。その姿はほんとうに美しい。


その後ポルトガル人が、はじめてここに上陸したとき、漁師たちにここの地名を尋ねたところ「阿媽閣」と
答えたのですが、ポルトガル人たちには、「アマカオ」と聞こえたと言われています。そののち、この土地を
「マカオ」と呼ぶようになったと一般的には言い伝えられています。1555年の11月20日にポルトガル
の探検家、「メンデス・ピント」がこのマカオの地より本国にあてた手紙にも、此処を「AMA CUAO 」と
記しています。日本では、長崎の住人で、江戸初期の航海学者「池田好運」の書いた「元和海記」
という書物に此処の地名を「天川(あ・ま・か・わ)」(現在ではあ・ま・の・が・わ)と書きしるしています。



「媽祖閣」内の大きな石には、その伝説を絵にして描きあらわしている。




Copyright 2001-2003 Yaz All Right Reserved