マカオと日本の歴史的関係をすこし





鉄砲は、マカオから伝来した?

一説によると、1543年に種子島に鉄砲を持ち込んだ三人のポルトガル人が出航したのがマ
カオの港(となり街の香港が国際交易の港として栄えたのはその数百年後である)からで、そ
の証拠に、乗ってきた船がジャンク船と呼ばれている中国式の帆船であったと言われている。





生糸と銀、それと胡椒とキリスト教

16世紀なかばより始まったマカオと日本の貿易は、日本から銀を、マカオからは、中国の生
糸や、胡椒などの香辛料、それと物品ではないがフランシスコ・ザビエルが布教したとされるキ
リスト教。(これは余談だが最近日本でも流行ったエッグ・タルト。マカオが発祥の地である。)


マカオで最初の印刷物を発刊したのは、日本人

なんと、約400年以上も前に、ふたりの日本人男性が2年あまりの間、マカオに住み着き、マカオ史
上、最初の活字印刷物を刊行したとされる。このふたりの男性は、そもそも、1582年にローマへ宗教
信仰活動のため、天正遺欧少年使節として日本から、長い旅に出た者たちだった。 その行き帰りの
拠点として、マカオに滞在している。その復路にマカオに滞在したふたりが、ヨーロッパから持ち込んだ印
刷機で自分たちの著書を印刷発刊したもので、その代表作に(遺欧日本使節対話録)などがある。



16世紀に建てられた「聖ポール天主堂(大三巴)」は、極東で最初の大学であったとされている。


日本人は、天主堂の建立にも協力

此処、聖ポール天主堂(広東語名の通称、大三巴)うらの博物館には、ここで亡くなった多くの日本
人殉教者のなまえが壁に彫られている。彼らは、1614年徳川幕府からのキリシタン迫害をのがれて
この地に辿り着き聖ポール天主堂建立の為にと、資金の一部をみんなで出し合い建立の手助けした
とされている。そして、その功績を讃える為日本の菊の紋様が聖ポール天主堂前壁にのこされている。


マカオを語るうえで欠かす事のできない「音吉」という人物

1832年11月3日乗組員14名を乗せた「宝順丸」が米や陶器を江戸へ運ぶ為、鳥羽港を出帆し
た。その中に当時14,5歳の「音吉(乙吉ともいう)」も「炊」(かしき)と呼ばれる見習い船員として乗
っていた。しかし、航海の途中大荒れの遠州灘で舵を壊してしまい太平洋上を漂流してしまう。さい
わい船自体は頑強に造られており、積荷も米などの食料品であった為長い間漂流に絶えられたのだ
と思われる。ましてや当時既に、ランビキという海水を蒸留して真水を作り出す方法が広く知られてい
たのだ。しかしながら14ヶ月という歳月はあまりにも長すぎた、海上では当然新鮮な野菜が採ることが
できず、乗組員の殆んどが「音吉、久吉、岩吉」の3人を除いて壊血病で亡くなってしまう。しばらくし
てアメリカのフラッタリー岬(カナダのバンクーバー傍)というところに辿りき、その地に住むマカ族のインディ
アンに助けられ、そののちイギリス、ハドソン・カンパニーの商船に保護され、コロンビア川を200キロほど
遡った所にあるフォートバンクーバー(当時の毛皮交易所があった所)へ。そしてサンドウィッチ諸島(現
在のハワイ諸島)を経由してロンドンに到着したとされている。その3人はロンドンを見物したはじめて
の日本人となった。しばらくして、ロンドンから東洋への長い船旅に出た3人は1835年12月、此処
マカオに無事到着する。マカオで宣教師をするドイツ生まれのグッツラフの保護のもとで初の日本語訳
聖書の制作に協力したとされている。それから2年程たったある日、九州出身の力松、庄蔵、熊太
郎、寿三郎の4人が音吉ら3人とここで出会う。彼らもやはり遭難した漂流民であった。南シナ海で
曹難しフィリッピンのルソン島に漂着して1ヶ月間原住民に捕らえられていたがスペイン船に保護されて
マカオに連れて来られたのだった。1837年日本との貿易を目論んだアメリカの貿易会社オリファント社
(広東)は、モリソン号に音吉たち7人の漂流民を乗せ一路日本へと向かったのであった。しかしながら
悪い事に当時の日本は鎖国をしていた時代であり幕府による異国船打払令の流布で上陸ができず
7人は帰国をあきらめて再びマカオへ戻り、外国で自立して行く道をそれぞれ模索して行くのであった。



この地で亡くなった日本人殉教者の名前が「大三巴」には残されている。

音吉ら漂流者たち、それぞれのその後の人生は?

庄蔵はその後香港に住み中国人と結婚し、仕立て屋を営みかなりの財を成したと言う。力松はアメリ
カ人と結婚をし新聞社に勤務。久吉は、中国のイギリス貿易監督庁通訳となり中国人女性と結婚。
寿三郎は望郷の念やまずアヘン中毒になって死亡。熊太郎は寄宿先のマカオの宣教師の家で若くし
て病死。岩吉は無念にもその妻によって命を絶たれたと言う。そして音吉だが、彼はとくに語学の才能
があったようで四ヶ国語を自由に話せたようであった。そしてしばらくはイギリスの船にて各国を廻り、そ
ののち上海にてイギリスの貿易会社に勤務、そこで同じ職場のイギリス人の女性と結婚をしたと言う。
(上海のイギリス人居住区に住み、かなり裕福だったらしい)彼はまた、イギリス軍艦の通訳として二度
日本を訪れてもいます。(記録によるとその頃にはジョン・M・オトソンと名乗っていたそうです)本当の意
味で彼らが偉大だったと思うのはその後の行動で、とりわけ音吉、庄蔵、力松の三人は日本人漂流
民の帰国への手助けを多くしていたと聞く。その後、音吉はイギリス人妻と死別したのち、マレー系の
女性と結婚した。1862年にシンガポールに移住し、居を構えたとされています。日本が開国し、最
初のヨーロッパへの使節団(遣欧使節団)がシンガポールに寄ったた時には市内を案内したり、自宅に
招いたりと、たいへんな世話人でもあったようである。彼はそのシンガポールの地でその生涯を終えたと
いう。彼ら7人は遭難、漂流という想像をも絶する苦難を乗リ越え、異国の土地でそこに根を生やす
ように生きてきたが、ついにその望郷の思いを成す事なく、波瀾万丈の人生を異国で終えたのである。

参考資料  磯井 行氏の「漂流話余禄」 http://www3.justnet.ne.jp/~iso-be/index.htm
愛知県美浜町ホームページ http://www.town.mihama.aichi.jp/main/


マカオに長崎街って、ほんと?

そうなんです、ほんとうに長崎街ってあるんです。それも、広東語読みじゃなくって、そのまま日本語読
みで「な・が・さ・き」なんです。場所はホテル・リスボアからヤオハンを通ってフェリー・ターミナルへと抜ける
道路のちょうど中間あたりマカオ・ワールド・トレーディング・センターの真向かいにあります。こんなとこから
も、日本との関わりあいをあらためて、感じてしまいます。機会がありましたらぜひ、訪れてみて下さい。





マカオグランプリの歴史 

毎年11月の第3土曜日、日曜日に行なわれるマカオグランプリは、今年で48回目を迎えますが、そ
の始まりは、1954年に三人のマカオ在住のポルトガル人の発案から、その歴史を開きます。そのひと
たちの名前は「パウロ・アンタス、フェルナンド・デマセド、ピント・カルロス・ダ・シルバー」と云い、かなりの
モーター・スポーツ好きだったと思われます。今でも、ポルトガルの人たちは種類を問わず、かなりのスポ
ーツ好きです、その証拠にF1では、毎年ポルトガル・グランプリが開催されますし、サッカーも盛んです。





こうして始まったマカオグランプリ、最初はそれこそ、地元のひとたちだけの小さな行事のひとつでしたが
今では、あのアイルトン・セナも当時のF3チャンピオンに名を連ねるほど、世界中のモーターファンには
欠かせないグランプリになっています。もちろん、数多くの日本人レーサーもここで活躍して、ステップアッ
プしていきました。一昨年のレースには、今年からF1のジョーダンホンダ・チームからフル参戦していた佐
藤琢磨氏も出場してみごと日本人としては初の、優勝という栄冠を手に入れ、F1での活躍に弾みを
つけました。 それにしても、マカオグランプリへの行政側のちからの入れようも相当なもので、コースにな
る約6.17キロの一般市街道路の舗装を毎年あたらしくしてレースに備えています。また、今では観
光スポットにもなっている「グランプリ博物館」も政府観光局により、1993年11月8日に開館してい
ます。そこには、歴代のグランプリカーが、カテゴリーを問わず展示されており、マカオグランプリの歴史を
垣間見ることができます。当地にいらっしゃる機会がありましたら、ぜひ、訪れてみて下さい。なお、グラ
ンプリ博物館の隣には、ワイン博物館があり、ワインの奥深さを触れられます。こちらも見逃せません。












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