高山右近

高山右近は、現在の大阪府豊能郡豊能町高山 の出身の人だそうです、
高山右近は、キリシタン大名です、彼は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三代の世に
渡って生き抜いた人である、

高山右近の父は、熱心なキリシタンで右近も12歳で永禄7年(1564年)キリスト教の洗礼
を受けています、
父は50歳を過ぎると高槻城主の地位を息子の右近に譲り、右近21歳天正元年(1573年)
約440年前のお話です、自らはキリシタンとしての、生き方を実践するようになった、
この時代、父が教会建築や布教に熱心であったため、

領内の神社仏閣は破壊され、神宮僧侶は迫害を受けた、父の生き方に当然息子の
右近に大きな影響を与えたでしょう、

徳川家康による、キリシタン国外追放令を受けて慶長19年(1614年)翌年1月7日
長崎天主堂から、長崎港へ家族と共にマニラに送られる船にのり、12月にマニラに到着した
右近はマニラで大歓迎を受けました、船旅は1年間、気の遠くなるようなお話ですね、
しかし、長い船旅の疲れや、なれない気候の為、老齢の右近はすぐに病を得て
元和元年(1615年)2月5日に息を引き取った64歳だったそうです、「わが主を仰ぎに行く」
と幾度も繰り返したという、でも最後に家族にどんな言葉を掛けたのでしょうね
現代では60代は老齢ではなく元気なお年寄りという感がありますね、

葬儀はマニラの聖アンナ教会で盛大に行われたそうです、右近の死後右近の家族は
日本への帰国が許されたそうです



高山右近
 高槻城主であった頃
 高槻城下である村人が
 亡くなつた時、当時は
 賎民(ぜんみん)の仕事
 であった棺桶を担ぐ
 仕事を率先して引き受け
 領民を感動させたという、

 右近の感じがどこか
  「清(きよし)の病い」
 があると書いてましたが
 なるほどうまくとらえたな・・
 私も同感です、

 写真を見ていると右近が
 着崩れせず、背筋を
 しゃんとして、どこか隙が
 なく近寄りがたく頑固な感じ
 がしました



高槻城
  城跡 模型



高槻城絵図



高槻城跡公園
  かって高槻城があったとされて
  います、キリスト大名で有名な
  高山右近が城主になっています

  高山右近の像が、建てられてい
  ます



高山右近の像
  郷土が生んだ戦国武将、若干
  21才にて天正元年(1573)年
  高槻城主となり、徳川家康
  に十字架の信仰を貫いてマニラ
  に追放され異国の土にねむる


  香り高きキリシタン大名
  君の右手は十字剣をおさえ
  平和を語り君のいのちは
  地位とほまれと
  世をすてて永遠の愛に献げられた



思案石
 高槻城の堀の角に位置していました
 江戸時代生活に苦しんだ人が、堀に
 身を投げようかどうか思案したという
 伝説があります???

 この石には、十字が彫ってあります、
 何かキリスト教に関わりがあったの
 ではないかなと思うのですが・・・・・
 わかりません、



高山右近記念聖堂
  大理石の右近像



教会の外壁の右近像



高山右近記念聖堂
  高槻城の近くにあります
  
  当地マニラにも同じデザインの
  教会があるそうです、

  マニラ市は、高山右近が縁に
  なって姉妹都市になっている
  マニラの日比友好公園には、
  高槻市と同じ右近像が立つて
  いるそうです、一度現地に行って
  見たいと思います、



高山右近の生誕の地
 箕面の山から少し奥に入ると
 高山という小さな集落があります

 ここが大阪府豊能郡豊能町高山
 になります、小高い丘に生誕地の
 碑がありました、



高山マリアの墓
  墓碑は、4基ありなぜか1基が
  離れている(手前の3基のうしろ
  木の根っこのうしろにある)
  墓碑には、江戸時代中期の
  元文(げんぶん)、延享(えんきょう)、
  寛延(かんえん)-(1730〜51)の
  年号が刻まれており2組の夫婦の墓
  と伝えられている、高山は高山右近
  の居城のあともあり、キリシタンとは、
  関係の深い土地柄である、

  マリアの墓の所伝は不明であるが
  江戸幕府のキリシタン禁教後、
  キリスト教徒は、ほとんど姿を消した
  が、村には2軒が残り、この2軒の
  夫婦とも考えられる、

  江戸時代、高山のキリシタンは寛延
  年間頃で後を絶った事になります、




キリシタン禁令の高札
  高山の村を出る角に建って居ます

  1、切支丹宗門之儀は是迄
    御禁制之通固く可相守事
  1、邪宗門之儀は固く禁止候事
    
     慶応5年(1869)太政官
  右之通報御出願同可相寺者也
              
                 日 向


  これは珍しいものを見つけました
  私でもなんとなく内容がわかります
  こんな山奥まで厳しい取調べが
  あったのかと・・・・・・

  現代では信仰は自由ですが・・・
  



愛と光の家
  千提寺にあります
  村人の憩いの場として使われて
  います、
 中央にマリアの像がイエスをだいているのが見えます   高山右近です  大きな人で身長が高いですね



キリシタン遺物史料館
     千提寺にあります



クルス山
  
山中にキリシタンの墓碑が
  
あった所
  
第二名神工事の為
   山を切り開いています
   歴史がどんどん消えて
   いくような気がして残
   念です、



私の感想
  隠れキリシタンという昔の私にはわからない世界の事を文章にまとめるのは苦手で
  途中でやめようかと思ったぐらいです、資料を集めたり、写真もたくさん撮っていたので
  もうやるしかないと気合をいれてHPを作成しました、

  一つ残念なのは千提寺のクルス山を撮れなかったのが・・・・今、第二名神の道路工事
  の為、昔の遺跡が無くなろうとしています、残念です、このままそっとしておきたいですね
  クルス山は、十字架の山という事で墓地を指したらしい、山の中腹に(生の松)(死の松)
  と呼ばれる大きな松2本があり、昭和4年3月に切支丹信者発見之地と刻んだ石碑を
  立てたそうです、

  高山右近の意志の強さには驚きました、古い時代から日本は仏教の国です、他国の
  キリスト教を広めたのは強い意志がなければ切り開く事が出来なかったでしょう
  弾圧が押し寄せてきたのを跳ね除けて城主を捨ててまで、
  自分の道を切り開いたのは恐らくまねはできないと思います、
  お陰で歴史が少しは勉強になりました、主人に感謝です。
   


次に続く