山元周行先生旅行記 No.4:

ドイツ独り旅(序でにプラハ,ウイーン,パリ瞥見)

(Würzburg大学のRöntgenコーナーにて)

 

 1.北大予科生の頃の回想。

 昭和17年北大予科(当時の正しい校名では北海道帝國大學豫科)に入学した。予科生時代には,ドイツ語の授業が毎週8時間あった。

使われた教科書で思い出すのは、

柴田治三郎先生:SchweizerAus meiner Kindzeit und Jugendzeit

Marie von EschenbachDer Vorzugsschueler,Ein Original

吉崎十七先生: HebbelBarbier Zitterlein

原 俊彦先生: LamprechtsDeutscher GeschichteからGoethe und Schiller と

                                           Beethoven の部分を抜粋したもの.

山岡直道先生: HesseKnulp

 

Hecker先生は蓄音機を腕に抱えて教室に来られた。ドイツLiedの詞を板書された後,蓄音機のネジを巻かれた。「Romantisch!」などと声を出せば免罪符が得られるこの時間をグウタラ予科生共は楽しんだ。予科消滅を「Unsere Yoka hoerte schmerzlich auf !」と,先生は嘆ぜられた。当時は理科系のみであった予科は、理科系の無思想ととかく評せられかねない。そうであればこそなお、Menschlichkeitsschule(人間性の学校) を予科で追求されたHecker先生とその周辺こそ、予科の精神的系譜を探るにあたっては特筆されるべきであろう。

Klenp先生は「水は酸素と水素からできている」というような当時の国定小学理科教科書の文章を独訳する宿題を出され,丹念に点検された。几帳面で熱心な指導であったが、「竹馬の友」というような難しい日本語を使ったりして、Humorもまじえられた。

 狸小路1丁目の帝國座では,当時はドイツ映画とフランス映画のみが上映されていた。教室ではなかったが,ドイツ語の雰囲気に多少とも浸ることができた。

 浅薄な知識を披露したり、糞勉強をしたり,時局に便乗した際物的な発言をしたり,教練を本気でやったりする者は、級友からの罵声「オンチ!」を浴びた。しかし,ドイツ語の勉強をしていたりドイツ語の本を読んでいたりしても、このような屈辱を受ける心配はなかった。

 シュバイツアーのreine Menschlichkeit 。ゲーテやシラーのSturm und Drangの世界。「少年時代に失恋し,故郷を飛び出して放浪するアウトサイダー」であるKnulpの物語。これらに接することで、欺瞞的なプロパガンダや偽善的な愛国者的言辞が横行していたあの戦時下におけるLand der Luegen (虚言の世界)で、少年の魂がStunde der Wahrheit(真実の時)の模索を断念しなかったのかもしれない。

“Die Stunde der Wahrheit im Land der Luegenは、今回の旅でよく見かけた

ドイツSpiegel紙の宣伝文句よりの剽窃である。

  

2.フランクフルトからブラウンシュバイグへ。

5月7日午後6時(現地時間しかも夏時間)フランクフルト空港に着陸した。切符は3月初めに買った。その後イラク戦争開戦、SARSの蔓延等が続いたので、旅行を危ぶむ声も耳にした。ところが、成田空港が閑散であったり、機内で3人分の空席を占拠して臥所を作ることが出来たりして、空の旅はかえって快適であった。80歳に近い老人にも、エコノミー症候群などは杞憂に終わった.

 JALは第2ターミナル着なので,シャトルバスに乗って第1ターミナル近くの空港長距離列車駅へ向かう。長い駅舎を駈けぬけた後Information窓口でレールパスをvaliedieren(使用開始日の記入捺印)しなければならなかった。Hbf.(中央駅)とは反対方向から着いたICE(都市間超特急)に飛び乗って、中央駅に向かう。12分でこのICEの終着駅であるフランクフルト中央駅19番線ホーム着。ところが、ここが始発であるブラウンシュバイグ行きのICE72は9番線ホーム発。19番線ホームの端へ戻って9番線に行くには100m以上ある。ICE872にはもう間に合わないと観念する。ところが,ホームの中央辺りに地下道を発見。ここを潜って1913発のICE872に飛び乗ったのは、発車直前であった。

 些事を述べ過ぎたかもしれないが、1810から1913までの1時間余で味わったDB(ドイツ鉄道)体験のスリルは忘れ難い。この後の鉄道の独り旅に自信を与えてくれるという学習効果もあった。このICEを逸すると、7日中にブラウンシュバイグに着くのは不可能で、フランクフルト泊を余儀なくされたのである。偶然の連続ともいえる綱渡りの成功に感謝した。

 夏時間では夜の8時でも未だ明るい。ビート,薯,麦等の畑や草原が連なるGoettingen辺りを過ぎる9時頃、夕日はようやく沈んだ。真紅に彩られた空の下に拡がるGoettingen(月沈原)の暮色はまさしく日沈原のそれであった。

ブラウンシュバイグ駅からはタクシーをひろい、DrOpitz宅に着いたのは1015分頃。2年ぶりの邂逅を祝して,深更まで杯を重ねた。

 3.ブラウンシュバイグでの滞在。

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Opitz氏宅から200m程離れた所にガウス(17791855)の立像がある。この背後にある低い丘はGaussberg(ガウス山)と呼ばれていて、その後ろをOker Fluss(オカー川)が廻っている。山を下ると広い道を隔てて、ブラウンシュバイグ大学のGelaende(ゲレンデ,キャンパス)が拡がる。Mathematik uInformatik(数学と情報学)の教室を訪ねた後,正面玄関にぬける。ここの壁に彫られたDedekindのレリーフは前と変わりはない。

 HeidelbergTuebingen等もそうであるように、ドイツでは大学や学生寮の建物は市街の建物と截然と区別されて建っているわけではない。学生寮から少し歩いた所で、Wilhelmstrasse(ウイルヘルム通り)に面したマンション風の建物に、「ガウス生誕の地」と彫られたGedenktafel(銘板)が掲げられていた。生家は戦時中空爆で破壊されたそうである。白、紫、ピンクのライラックの花が、家々の庭から咲きこぼれていた。

 裁判所前のレストランから路上に張り出した席に座り、ビールで渇きを癒す。この後帰宅して昼食。「3時まで昼寝の時間にしましょう。」ということで,各人の部屋にこもる.滞在した3日間いつもこうであった。昼寝の慣習は、日本ではこのように徹底したものではない。

 昼寝の後、Strassebahn(路面電車)に乗ってBraunschweig Hauptfriedhof(中央墓地)に着いたのは、4時頃。Dedekindの墓に案内したいというOpitz氏の好意からであった。彼と知り合った初めの頃、松前や水戸等に旅行した際、私は先ずその地の墓地を訪ね、、松前藩諸大名や藤田東湖の墓等へ案内した。この頃「duFriedhof(墓)のSpezialist(専門家)だ。」などと、彼は私をひやかしたものである。40年前のこんなことを覚えていた彼の返礼に、私は謝したい。

 Dedekindの墓石は,天を仰ぐような形で横倒しになっている。静岡長源院にある横山芳介先輩の墓も同様である。この周囲にDedekind一族の墓が可也の墓域を占めている。彼は名門の出のようである。

 この近くにOpitz氏夫人の父君の墓があった。1940年代にイタリ−戦線で結婚後間もなく戦死されたのであった。その後,夫人は母親の女手一つで育てられた。夫人のお母さんが拙宅を訪れた昔に、「思索されながら散歩されているデデキント先生を、よくお見かけしたものですよ」と話されたのを思い出した。

墓碑面が横長の長方形である小さな数百の墓標群が眼前に拡がってきた。いずれの墓標に刻まれた生年も私のそれに近い1920年代であり、歿年は1940年代である。私と同世代である戦死者の悲しみを思って合掌。

 Kartoffel(ジャガイモ)料理の専門店で夫妻と共に夕食。地下であったから、あるいは市庁舎の地下レストラン(Ratskeller)であったかもしれない。1347年創業とのことである。

注文した料理名はKartoffelAuflauf mit Pilze(茸入りジャガイモグラタン)。ジャガイモで育ったような私でも食べ残すような量である。一般にドイツのレストランでは量が多い。前菜(Vorspeise),スープ(Suppe)、メイン(Haupt)、デザートなどと注文したら大変なことになろう。スープだけを注文しても、パンはついてくる。メイン料理の皿には皮付きジャガイモ、フライドポテト、ジャガイモ団子が添えられていたりする。私は旬のSpargensuppe(アスパラガススープ)あるいはGulasch(牛肉パブリカシチュー)の単品注文で済ませたことが多かった。

序でに述べるが、北海道育ちの私はジャガイモとか馬鈴薯というような言葉よりも「ゴショウイモ」という言葉に親しみを感じている。一つの種イモから5升のイモが収穫されるからであると聞いてきた。

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 小雨が降っていたので、Stadtmuseum(市立博物館)に2人で行くことにする。工事中の為古い時代の展示は見られなかったが,20世紀以降の展示でも興味が充分あった。

 足踏みミシン等の家庭用品の展示では、自分が子供であった頃の日本における家庭内風景をドイツで見る思いがした。電気計算機が出現する昭和40年以前では、北大の研究室でも、ハンドルを回しガラガラと音をたてて計算するタイガー計算機の雑音を、廊下にまで響かせていたものであった。日本で当時このように多く使われていたタイガー計算機は、日本人の発明かとも思っていたが、同型の計算機がここドイツで沢山展示されているところを見ると、どうやらそうではないらしい。もっとも、3倍するにはハンドルを3回まわさなければならないような愚直な計算機よりは、日本の算盤の方が優秀である。

  戦時中札幌を訪れたヒットラーユーゲントが例の「ハイルヒットラー」式の挙手の礼をしながら、停車場通りを闊歩した。この往時の風景を今でも思い出すが、これと同じような風景を撮った写真も展示されていた。これに限らずナチ時代を髣髴させる展示にもボカシをかけるようなことはしていない。

 Japanische Militarismus(日本式軍国主義)を隠蔽,忘却しながらも、隣邦の民族のそれを連日のように嘲笑している日本とは違う。国体選手団やオリンピック選手団がこの「ハイルヒットラー」式挙手をしながら入場するフイルムを、つい最近迄見たことがある。現在はどうなっているのであろうか。某知事や宰相も「ハイルヒットラー」式挙手と紛らわしい挙手のPoseを好むかのようである。

 自己の受けた戦争被害の悲惨を哀訴する例年の記念日も近い.しかし、加害者であったことを忘れ、民衆に悲惨な受難を強いた体制や根源を直視しない。それどころか、そのような昔の体制に回帰する危険の著しい予兆に対しても鈍感である。このような日本の現況を憂い忌まわしく思うのは、戦中派老人のPessimismus(悲観主義)であろうか。

 午後は雨があがったので、ガウス山に連なる広大な緑地を散歩する.この辺りは、富裕なビート商人や銀行家が昔所有していた庭の跡地とのことである。塀で囲むことは到底不可能な広大な芝生や森を市民が自由に散策していた。

 それまで自由に入れた北大植物園が、入園料400円を取るようになり塀も補強されたのは、昭和40年頃であった。農学部関係者に折にふれて言ってきたが、せめて老人には無料化あるいはシニア−割引ができないか。弱小地方自治体でも、その施設にこの種の配慮がある。来年からは独立行政法人となるのであるから、こんなこと位自主的に裁量できないか。とはいっても,「金儲け」に腐心することが、大学で今までよりも尊ばれるようになるのは殆ど確実である。

インターネット・カフエーのある老人ホームに立ち寄る。老人ホームは町のはずれや人里離れた所にあるのが日本の常である。ドイツでは町の中心部でも、ここに限らず見受けられた。

この後、デパート地下の食品売り場で,ドイツの食品、酒類についての親切な実物教育を、Opitz氏はしてくれた。これで得た知識は、私のこの後の旅に大いに役立った。

夜はOpitz夫人のご饗応を受け、ワインや芋焼酎に快く酩酊し、至福の時を過ごした。米をわざわざ買ってきて炊いてくれた夫人のAufmerksamkeit(心ずかい)にも感謝あるのみである。

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ドイツの古くからの町では、その中心部にMarkt(マルクト。市場)がある。市場といっても、普段はただの広場である。これに面してRathaus(市庁舎)、教会が建っているのが常である。ドイツの町を歩く時には、町の顔であるこの3点セットを目印にすると都合がよい。

ブラウンシュバイグもこの例にもれない。マルクト横には、八角形の2本の高い尖塔が聳え立つロマネスク様式の教会(Dom.大聖堂)がある。12世紀にこの地方を支配しライオンのように勇敢で獅子公と言われたハインリヒ公が建てたものである。自分のシンボルであるライオン像もマルクト内に彼が建てた。ライオンは町のシンボルにもなっている。

この日はマルクトに市がたつからといって、Opitz氏は私をマルクトに誘った.食品の素材ならなんでも揃うようであったが、旬の見事な白アスパラガスがとりわけ目立った。

この地での最後の夜はマルクト界隈の酒場をハシゴした。40年前2人が30歳代であった頃のSpaziergang in Susukino(すすきの散歩)の思い出を共有していたのであったろう。以心伝心2人は出かけた。この老いた昔のBengel(若造)を、Opitz夫人はイタズラポック微笑んで見送ってくれた。

最後の店では、スタンドの上に瓦葺の庇がかかっていて、その上に白い梟が乗っていた。画家と名乗っていた隣の客は、色々なImageを述べて、「それぞれのImageを1つの漢字で象徴できないか」と,私に問いかけてきた。スタンドの奥にいた店のご主人はイラク戦争を批判して議論していた。強きを助け弱きを挫き、虎の威を借りる狐宰相に対するご主人の非難は、私の語学力をもってしては弁明不可能。“Ich habe die gleiche Meinung wie Sie”(私もあなたと同意見。)と言って、議論を切り上げる外はなかった。画家は我々にビールを贈ってくれる。杯をぶっつけあって何度も乾杯。私がドイツを訪ねたくなるのは、このようなビールに媒介されての交流が可能なればこそでもある。

4.べルリン,プラハ,ウイーン,パリ。

ベルリン

10日朝駅まで送ってきてくれたOpitz氏と別れて、ベルリン行きのICEに乗る.。私が乗った1等車の乗客は私1人であった。「チェコのレールパスがDBの駅でもvalidierenできるか」など,鉄道旅行で沸いてきたいくつかの疑問を車掌に質問した。分からない所は携帯電話で問い合わせたりして、若い車掌は親切に教えてくれた。突然中年女性が目の前に現れて早口で喋り出す。何を言っているか分からない。「簡単にしかもゆっくりと」と頼むと、“Etwas zu trnken oder essen ?“。食堂車からの出前の注文取りである。勿論”Danke aber nein !“。この後は何時でも即座にこれで応答することにした。

終点のベルリン・ツオー駅からSバーンで東駅へ。駅前に近い今夜泊まるホテルに荷物を預ける。東駅始発のプラハ行きのEC(ヨーロッパ都市間特急)に翌日の早朝に乗ることを考えてのことであった。この日のベルリンは猛暑で、女性の臍だしルックも目立った。

Sバーンでツオー駅にもどる。2年前に比べると、駅周辺は小奇麗になっていた。駅近くの屋台店でCurrywurst(カレーソーセージ)を注文。旅の本で褒めてあったが、全く不味い。ビールで腹に流し込んで昼食に代用。

駅前から100番バスを乗り継いで,ブランデンブルグ門,ウンターリンデン,フンボルト大学と歩く。ここからウンターリンデンに再び戻り、フリードリヒシュトラーセ駅まで歩く。駅からSバーンでポツダム広場へ。ソニーセンターでLindenbraeu(リンデンブロイ)のビールを飲む。

この辺りのミュージカル劇場前に、「マレーネ・ディトリッヒ広場」がある。予科生時代から独身の頃、私はディトリッヒのフアンであった。映画「モロッコ」などは,帝國座で何度見たことであろう。

Hier steh ich an der Marken meiner Tage

 Marlene Dietrich  19011992      “

「私の人生の日々が刻まれた場所、ここに私は(立って)いる。」――彼女の墓碑の文。

「ここに眠る」とするのが普通であるが、「(立って)いる」と刻んでいる。ナチへの協力を拒んだ彼女の人生にも見られる彼女の強靭さと存在感を死後にも感じさせる。この墓参を予定していたのだが、日も暮れてきて実現しなかったのは残念であった

プラハ

ベルリン東駅から5時間程で、ECはプラハ・ソルビッチ駅に到着。この駅舎内に沢山並んでいる両替店で、チェコ通貨コルナに早速両替。チェコはEUに加盟していないので、ユーロー(ドイツ語読みではオイロー)は使わない。ユーレールパスも有効でなく、チェコ行きには,余計な金と神経を払うことになる。ウィ−ン行きはプラハ本駅始発の車に乗るので、地下鉄で本駅の方に移動して、ここで荷物を預ける。

前述した3点セットのある辺りに近そうなムーステク駅より1駅手前のムゼウム駅で、地下鉄を降りる。この傍にある国立博物館正面に立つ聖ブァ−ツラフ騎馬像から見下ろす幅60mの通りは壮観である。

旧市街の中心であった広場を囲んで、バロックやゴシックの建築様式の教会、ゴシック建築の塔をのせた旧市庁舎が建つ。広場でビールを飲んで陶然としてくれば、中世の空間に身を置く想いである.

ここからカレル橋に連なるカレル通りは,世界中からの観光客で賑あう。土産物の物色などで時間や金を無駄にしないことを旅の信条としているケチな私も、可愛いマリオネットの民芸品の前では、孫達を思って足をとめた。

カレル橋はVltava(ブルタバ川)にかかる石橋である。この橋の欄干には30人の聖人像が並ぶ。橋の上に猥雑に陣取る物売りの露店、似顔絵書き達はこの橋の趣きを損ねている。プラハ城からの眺望の中に位置ずけてこそ、橋の美観は占われる。

橋に佇む暇もなく、プラハ城への道を上る。城内で最も高くそびえるゴシック様式の聖ヴィート大聖堂は圧巻である。塔の高さは100m余。チェコの巨匠ムハの手になったステンドグラスを透過した光が、幻想的な空間の光源。パイプオルガンの荘重な音が、この空間を流れる。教会のベンチに坐りしばし瞑想。

赤茶色の屋根が織りなす風景の俯瞰が楽しめるのは、ドイツでは何も珍しいことではない。テュ−ビンゲンやニュウルンベルグの古城から市街を望んだ私のささやかな体験を例示するまでもない。また、所謂ロマンティシェ街道やスイスの牧歌的風景では、日本人にはメルヘンの世界と映ずる。しかし、プラハ城の眼下に拡がる絶景は、この種の景観では、他にその比を見ないのではなかろうか。これの描写は,私の手には負えない。

城からの帰りは、カレル橋より1本北側の橋を渡る。ウ・ルドルフィナという名の有名と聞いていたレストランで、グラーシュを注文してビールを飲む。

再び広場に戻る。スメタナの「わが祖国」やドブォジャークの曲のコンサートが9時から催されるのを知る。彼らの博物館を訪れる時間的余裕はもうない。せめてコンサートが醸し出す感動に広場で浸るべきか。

迷った末、ウ・フレクーに地下鉄で向かった。「世界でもっとも素晴らしいビァホール」と、Opitz氏が絶賛し奨めてくれた所である。コクのある黒ビール。雰囲気を盛り上げる手風琴とラッパの奏者。渋みのある造り。さすがに創業1499年を思わせる。しかし、私の隣に座った客がイタリ−人の母娘であっては、議論もできない。一昨年ミュンヘンのホッフブロイハウスで三村氏と共にしたような感動は、望むべくもなかった。

021プラハ本駅発のチェコ鉄道に乗る。凄まじい音をたて車体を壊れんばかりに激しく揺すぶりながら走って、チェコの国境駅Breclav(発音不詳)に450に着く。ここでチェコ側の2人がパスポートを調べに来る。ここから509発のオーストリア鉄道に乗りかえる。今度はオーストリア側の2人がパスポートを調べて入国審査。このような乗り換えを行った者は、私一人であった。

ウイーン

6:30にウイーン南駅に着く。ウイーン西駅発で再びドイツに戻ろうと考えて、荷物を預けに西駅に向かう。西駅行きのトラム(Strassebahn路面電車)が南駅の前から出るのに乗る。手許の地図と車窓から見える街との対応を計ろうとしたが、線路が余りにクネクネ曲がるので途中で諦めた。しかし、一寸した早朝の安あがり市内遊覧。街の大雑把な印象を掴むのには好都合であった。

西駅から地下鉄でカールスプラッツ駅に向かう。この駅の直ぐ傍にある国立オペラ座の前には観光バスが沢山並んでいる。ドイツ語使用、英語使用等々でバスを選ぶ。日本語使用のバスがあったが、5割増しの料金。ドイツ語,英語のどちらでもよいと言うと、英語のバスに乗れという。ところがこのバスの乗客の殆どはイタリ−人。ガイドは英語の後にイタリ−語を添えた。イタリ−人達は,英語はいらないと騒ぎ出す。王宮,宮殿を短時間で回っても,心に残るものは少ないのでは時間の空費。また、またプラハの景観に圧倒されていたので、ウイーンの街では感動も減殺されたか。シェ−ンブルン宮殿でバスを放棄し,最寄の地下鉄駅に出る。

するとHeiligenstadt行きの地下鉄が来る。Das Heiligenstaedter Testament(ハイリゲンシュタットの遺書)を、予科生の頃読まされたのを思い出し、これに飛び乗ることを決断。ハイリゲンシュタット駅前で教えられたバス停留場で降車。遺書を書いた家はなかなか見つからない。車も人通りも少ない昼下がりの狭い道で、日本人の若い娘さんが通りかかったのは、幸運であった。彼女はウイーンで音楽修行中とのこと。「もう通り過ぎましたよ。あの白壁の家です。」と教えてくれた。入り口の表札は、見失っても不思議でない大きさ。ここの引戸をくぐり中庭に出て,屋外に張り出した階段を昇って2階の部屋に入る。上品な老婦人が親切に応対してくれる。彼女から頂いた地図を頼りに、ベートーベンの散歩道を歩く。彼が「交響曲田園」を構想して散策した地と言われている。ところが、ドナウ河畔にさしかかる頃、不気味な雷鳴,稲妻を伴った落雷の音が響きわたる。雨具を取りに西駅に戻るよりほかはない。

途中Stadtpark(市立公園)内にある駅を通過する頃,未だ雨は落ちていない。そこで飛び降り、公園内のシュトラウス、ブルックナー,シューベルトの像を見終わって駅に入る直前、バケツをひっくり返したような雨。

西駅の大きなドーム状の駅舎は、雨で水をさされた万余のデモ隊で溢れんばかり。吹き鳴らされる沢山のラッパの音と打ち叩かれる沢山の太鼓の響きは、駅舎にこもって反響する。さすが音楽の都か。少数の警官がこれを傍観している。デモ隊の人数より多い人数の機動隊員にサンドイッチされて行進する日本のデモ風景とは違う。

ガラス越しにこの光景を眺めながら、駅舎二階のレストランでビールを飲む。Tagesempfehlungen(本日のお勧め料理)と銘打ってあったので、Wiener Schnitzel(ウイーン風カツレツ)をつまみにする。大きな皿からも更にはみだしているカツレツには驚く。

レストランは終始満員状態であったので、デモ参加者が次々と相席を私に求める。最初の相席者がくれた立派な分厚いビラを読んで、デモの目的が“FriedensvolksbegehrenGegen MilitarisierungFuer Frieden und Neutralitaet”(「平和を求める国民運動。軍国化反対。平和と中立賛成。」)と分かったので、この後の相席者とは“Frieden !”を叫んで乾杯。

相変わらず雨は降り続くので、ホテルを探すのは止め、2325ウイーン西駅発の夜行でミュンヘンに向かうことにする。折角芸術の都、音楽の都を訪れたのに、勿体無い決断と思われるかもしれない。レールパスはflexibelに活用しているので,勿体無いわけではない。しかし無粋ではある。

翌朝620にミュンヘン駅に着く。雨は降ってはいなかったが、薄ら寒い。840発のICEに乗ると夕方515にパリに着く。生憎の天候でもあるので、この日は汽車の中で眠って休息しよう。未だ見ていないオルセー美術館を見るだけでも、パリ-行きは値打ちがあろう。

パリ

パリ東駅の前の一郭にある教会横の安ホテルに泊まる。翌朝東駅のSchliessfach(コインロッカー)に荷物を預ける。ロッカー室の入り口で荷物のエックス線検査をする物々しさである。パリに行こうとは予定していなかったので、ガイドブックも地図も持ちあわせていない。駅と太陽が出た方向で東西南北の方向を占い、セーヌ川に向かい南へ歩くことにする。朝の空気を吸って人通りが未だ少ないパリを逍遥するのは爽快な気分。

1時間程歩いて10時頃セーヌ河にぶつかる。ここまで来ればしめたもの。対岸にノートルダム寺院が見える。橋を渡ればソルボンヌ大学の辺り。大学の方に向かわず,河に沿って西進しオルセー美術館に直行。

順路は地上階、上階、中階の順。上階は印象派と後期印象派のフロア-。ここは、1つの部屋には一人の作品というような展示に大体なっている。モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン等々。絵の知識に疎い私にも馴染な巨匠達だ。5時間程の短い鑑賞で終わらざるをえなかったが、絵の印象が私の魂にこれほど強く刻まれたことはなかった。

オルセーでの感動を反芻しながら,セーヌ河沿いに更に西進。パリに来た序でにエッフエル塔へ。前回訪れた時には、余りの長蛇の列に上がるのを諦めたのであった。ここのエレベーターに5分間乗るのに乗り賃は11ユ−ロ−(150円位)。オルセーの入館料は7ユ−ロ−(900円位)。金で価値は測れないものである。

凱旋門を見てから,待望のシャンゼリゼ通りへ。ここのレストランで大枚はたいて食事をしようと考えていたから,未だまともな昼食はとっていなかった。レストランから通りへ張り出した椅子席で先ず注文した冷たい飲み物を飲みながら、メニューで料理を物色。ところが、隣のテーブルでは、去った客のコップや皿を3羽の鳩が激しく突付いている。1羽の雀もこれを真似している。数羽の鳩が他のテーブルで待機している。客が去れば、去った直後のテーブルに素早く飛来して来ようと待ち構えているのである。シャンゼリゼ通りに懐いてきた幻想は霧散するどころか,住人達の無神経に怒りさえ覚えた。こんな所で料理の注文などしたら、勿論阿呆だ。

私の住まいから中島公園駅への短い距離の間に,沢山の鳩が群がっていることが多い。公園の空気を汚濁し私の深呼吸を妨げるこの貪欲な生き物を、平和の象徴などとは到底私は考えられない。Opitz氏は「鳩はLuftratte(空気を乱す鼠)」と言って鳩を嫌っていた。この語はドイツでは一般に通用しない彼の造語であるかもしれない。

シャンゼリゼ通りに連なるコンコルド広場を塞いで、機関車,客車の実物が数十台レールに乗せて展示してあった。広場でフランス革命の熱気を偲ぼうとした私の感傷は、こんなガラクタでブチ壊された。

オペラ座へ行く途中のフォ−ブル・サントノレ通りはブランド店が立ち並び、上得意の成金日本人観光客で普通は賑あう所である。ところがこの度は日本人の姿は余り見かけなかった。オルセー美術館でもそうであった。イラク戦争の故であろう。時勢に動かされ易く世論操作も容易なMasse(大衆、大量)の国日本である。

ピュブリック広場の中央には、共和国を象徴するマリアンヌ像が立っている。自由を象徴する松明(たいまつ)を、像の右手がかざしている。薄暗くなった広場に千人位の人の群れがある。デモかと思って近寄ると、失業者やホームレスへの炊き出しを、若い女の子達が行っているのである。パリ社会の一断面を垣間見る想い。フランス革命に由緒のあるこの広場で革命の空気を多少とも吸って、コンコルド広場で先程懐いた不満が解消された。ここへ立ち寄ってよかった。ここまで来れば安心である。パリ東駅へは歩いて10数分。下町情緒が漂うこの界隈のレストランに入り、フランス料理で飢えを、ビールで渇を癒した。

9時から夜10時まで、乗り物には乗らず足で歩いてパリを実感した滅多にない充実した1日であった。

2258パリ東駅発、翌朝7:01フランクフルト着の夜行列車で、ドイツへ戻る。往きに受けたような入出国のパスポート検査はされた覚えがないのが、未だに不思議である。

5.ヴュルツブルグ,ニュルンベルグ

ヴュルツブルグ

5月16日(金)701フランクフルト中央駅着。ヴュルツブルグの三村氏への電話で、「午後4時半にヴュルツブルグ駅で迎えます。」という親切な申し出を受ける。913発のICEでゲッチンゲンに行き、1405にそこを出発するICEで戻れば1526にヴュルツブルグ駅に着く。そこで、ゲッチンゲンに向かうことにする。(この間の事は、6.で後述)

独り旅を記述した部分では、移動したOrt(場所)の時系列が筋書きと言ってもよい。独り旅では、訪ねた場所(宿,駅,乗り物,通り,店,観光スポット等々を皆含めた意味で)の選択はは独りで決断しているので、比較的よく覚えているものである。Informationで貰ったStadtplan(市街地図)などを見れば,かなり正確に記憶が蘇る。しかしヴュルツブルグでは、三村夫妻の親切な案内にすっかり頼りきりであったので、案内して頂いた場所の時系列の復元には困難を感じないわけではない。そこで、桑園MLに宛てて20035202109に送信された三村夫妻のメールを引用させて頂き、それに私が補注を加える形でヴュルツブルグ訪問をを以下に記述する。なお、このメールには5葉の写真が添付されている。

三村夫妻のメール:

先日はお騒がせして恐縮でしたが〔注1〕,山元先生と無事にドイツで再会できた三村夫婦(元応援団+元サイクリング部)です。

ヨーロッパで元気な旅がらすと化していらっしゃる山元先生ですが、当地ヴュルツブルグで暫しの間、羽を休めていってくださいました。

夜行列車も何度も駆使され、ドイツ、チェコ、オーストリー、フランスそしてまたドイツと短期間に駆け巡ってこられたお疲れもまったく感じさせず,終始笑顔でお過ごしでした。

ヴュルツブルグにお着きになった晩はまず、マイン川辺の日本庭園が隣接するビアガーデン(注2)で乾杯した後,拙宅[注3]に来て頂き、寮歌もいくつか歌いました。

翌日は私達がそれぞれ所属している研究所[注4]、レントゲン博物館、老人ホームに所属するワイン醸造所[注5]の見学コース、世界遺産にも登録された宮殿[注6]の庭の散歩、丘の上の眺望のきく要塞[注7]でのビールなどを楽しんで頂きました。

夕食は友人宅[注8]でご馳走になり、先生はドイツ語の唄なども披露して下さり、大変ウケました。

この三日目は先生が興味をお持ちだったニュールンベルグ裁判の行われた場所をなんとか探し当て[注9]、見学コースに参加しました.解説の後の質問の場では傍聴席の最前列で聞いておられた山元先生が突如、挙手されたのには少し驚きましたが、「日本とは異なり、(戦争に対する自省の念をこめて)こうしたものを各地に保存し続け、公開しているドイツを私は尊敬しています。」といったことを、ドイツ語で発言して下さってよかったでした。

アイスクリームを舐めながらニュールンベルグのお城まで散歩し、晩にはまたヴュルツブルグに戻りフランケンワイン酒場[10]で夜中まで楽しく飲みました。

昨日の朝、ドイツ新幹線で北ドイツ、ブレーメンの街に向けてまた旅立たれました。詳細につきましてはいずれまた山元先生ご自身からご報告があると思いますので、そちらをどうぞお楽しみに。                      (三村 信子)

私事ながら、3月25日に大阪大学より学位を授与されましたので報告しておきます。(以前報告したつもりでしたが、山元先生が心配されていたため、改めて報告します)

[11]

                              (三村  良) 

[注1]        迷惑をかけないようにコッソリ出発しました。ところが、三村氏はもとより浜田氏、渋谷氏等をかえってお煩わせしたことを、帰国後メールを読んで知りました。お詫びします。

[注2]       この日は暑く、ゲッチンゲンで汗をかいてきた後でもあり、ビールの味は格別でした。今までの独り旅股旅道中記で強がりを述べてきた。しかし三村夫妻が傍におられる安堵感は、異郷の地なればこそなお更でした。またFestung Marienberg(マリエンベルグ要塞)を背景にしてマイン川にかかるAlte Mainbruecke(アルテ・マイン橋)を眺める景観は、もっと吹聴されるべきである。

[注3]       レジデンツの庭を自分の庭とするような位置にあり、日本の普通の狭隘なマンションなどは、その比ではない。

[注4]        市街地にある三村夫人の研究所にまず行く。今年はペリー開港150年の年で、日本ではシーボルトも併せて話題になることも多い。彼はヴュルツブルグで生まれ、ここで医学を学んだ。彼の胸像も見られ、三村夫人の解剖学研究室のある辺りは彼の縁りの地である。屍体を見るのが恐ろしいような意気地なしの私は、彼女の研究室内への案内をお断りした。生きている者の方が死者より恐ろしいと、彼女に笑われそうな気持がする。     

ヴュルツブルグ大学の郊外にあるゲレンデは広大である。三村氏の研究室は         こちらの方にあり、市街地より路線バスで行く。彼のメールに書いてある電話番号の電話は、この研究室内にある彼の机の上に載っている。研究室に連なる大きな実験棟は巨大な装置で一杯である。彼の辛苦の結晶が商品化され巨万の富が得られるのではないかと祈るのは、不純であろうか。

[注5]        Buergerspital(ビュルガーシュピタル。民衆慈善院)は1319年以来続いている財団法人で、ヴュルツブルグの富豪が寄進した葡萄畑と土地不動産の収益により、680年以上経った今日でもなお2つの養老院(老人ホーム)で老市民の介護を継続している。街の中心部テアターシュトラーセとゼメルシュトラーセの角にあるビュルガ−シュピタル養老院は、その1つで約110人の老人達がその余生を送っている。何世紀にもわたる伝統から、毎日の楽しみに、一日一杯のワインが全員に与えられる。ここに付属したアーチ型天井の広大なワインケラー(地下貯蔵室)では、750000g以上の収容能力がある200余りのオーク樽で仕上がりを待ち、ボックスボイテル(フランケン特有の丸型平瓶)にボトリングされる。ヴュルツブルグには生きる喜びがある。2000年以上に及ぶ文化が、1200年の歴史のあるワイン生産と融合している。モーツアルトフエスト、バロックフエスト、バッハターゲなどの文化的行事は、葡萄畑に囲まれた陽気なバロック都市に輝きを与える。           −以上はケラーで貰ったProspekt(パンフレット)の要約。−

[注6]        Residenz(レジデンツ。宮殿)は18世紀中葉に建てられた領主大司教の居城。Treppenhaus(階段の間)の天井画は,広さ600uであって世界で最も大きいフレスコ天井画である。前の大戦中空爆でヴュルツブルグは82%破壊されたが、この天井画は戦災を免れた。私は以前のロマンティッシェ街道廻りで見ているので、時間の節約上今回は見学を遠慮した。ここのレストランで、三村氏達は大学の会合を持つとのことである。

[注7]       Festung Marienberg(マリエンベルグ要塞)は1253年から1719年迄の歴代大司教の居城兼要塞。前のテラスから町全体が一望できる。

[注8]        郊外の閑静な住宅地にある別荘。医師であるご主人は大人(たいじん)の風格を漂わせられ、ご趣味の釣りで樺太まで遠征されたとのこと。日本女性の夫人は日本から取り寄せた高価な珍味を惜しげなく振舞われた。初対面の私に対するご夫妻の親切なお心ずかいには御礼の言葉もない。

[注9]        ニュルンベルグの項を起こして、後に述べる。

[注10] [5]で述べたケラーの傍にあるロマンティッシェなアーチ型天井のビュルガーシュピタル・ヴァインストゥ−べ(ワインレストラン)で、フランケンワインを飲む。「ヴュルツブルグに来てフランケンワインを飲まないのは,パリに行って凱旋門を見ないようなもの。」と言われているそうである。私は今回の旅では「ワインを飲み且門を見た」。独り旅では、宿泊ホテル内にないレストランでの酩酊は自制しないと危険である。三村夫妻がおりホテルも直ぐ傍なので、ドイツワインで最もこくがあると言われているこの辛口白ワインを、安心して私は愛でた。

[注11] 帰国して三村夫妻の保存メールを探すと、33日発信のメールに「最後の口頭試問試験に合格してようやくひと山こえたところ」とある。目的の頂上に上ったというメールは見当たらない。このような事は兎も角として、御祝詞を述べるのが遅くなりましてお詫びします。大学卒業後、ひき続き大学に残ってやった丁稚奉公年季明け証明書の類とは異なります。門外漢の私は貴兄のDissertation(学位論文)にKommentar(コメント)など何ら出来ません。しかし社会人の繁忙にもめげない長いご努力に深く敬意も表します。私の学位取得の時,時計や花瓶等のお祝い品を思いがけない人から頂いたりして、こんなに祝福すべき事なのかと訝ったり,面映く感じたりしました。この度は迂闊にもお祝い品も持参せずに参上しました。

桜星会優勝歌「桑楡哺紅に」に加えて、二高優勝歌(対高工野球戦凱歌)を歌いましたね。「戦勝てり美酒(うまざけ)を くみてたたへん君が御名

光涼しく月照れば 喜びに満つ五城楼」

 

 ニュルンベルグ

 18日は日曜日である。三村夫妻はホテルに迎えに来てくれた。夫妻に教えられた見物候補地の中から、ニュルンベルグを即座にお願いした。1時間程のDB乗車で到着。私が所望したNuernberger Prozess(ニュルンベルグ裁判)の場所を、三村夫人は駅の近くで、年配者に早速聞き質してくれた。教えられた場所にはタクシーで乗りつけたが、どうやら目的の場所ではない。

上から見れば半円状に見える巨大な建物の方向に、長い建物が延びている。この建物の外壁にはForum(フォラム)開催を報せる横断幕が掲げられている。裁判所へ転ずる為にタクシーを待たしていた短い時間に、建物の入り口付近にあった数種類のProspektHeft(小冊子)を咄嗟に頂いた。ここで瞬間的に受けた印象には基ずくが、帰国後興味深く読んだこれらの文書の要約の一部を述べるのを、お赦し願いたい。

 ニュルンベルグ南部のこの地は嘗ってのナチ時代のゲレンデで、我々の目に入った建物群はナチ時代のDokumentationszentrum(ドキュメンタリー・センター)である。

序でにナチス党は正式に言えばNationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(国家社会主義ドイツ労働者党)NSDAPはこれの略記。貧弱な教育機構を高等教育機能開発総合センターなどと欺瞞的に呼んで恥じない者達は、この長さを笑えない。

ここに残存している巨大なナチ時代建築物は、ナチ体制の誇大妄想を証明している。広さが11平方キロメートルもあるこの地域には、NSDAPが自作自演する為の舞台脇道具が現出している。

5万名が収容可能な未完成のKongresshalle(上述した半円状建物。ナチス党会議場)では,ナチス党集会の歴史が示されている。そして党集会を、NSPropaganda(ナチズム宣伝)が頭を捻って考え出した定まりきった典礼儀式であるとして、その仮面を脱いでいる。    なおNSNationalsozialismus(ナチズム。国家社会主義)の略語。

戦争中の日本の体制をこのような筆致で諷刺的にでも述べようものならば、自虐的であると脅迫されかねない。そうであるので、以上の訳出は私に愉快な時間を与えてくれた。しかし、ここらで止める。

Heft63頁の小冊子であり、各ページに鮮明な写真が載っている上質紙で出来ている。Zenturumの解説だけでなく、ナチ時代と戦争裁判の編年史を客観的に記述している。買い物をしても、包装紙も袋もくれないで資源節約をしている国であるのに、これを無料でくれるのである。

再びタクシーに乗って、裁判所に向かう。その門には見学時間が掲示されている。次の見学にはまだ少し時間があったので,近くのギリシャ・レストランでビールを軽く飲み食事をする。

入り口には独文と英文両方のProspektが置いてある。これを貰って法廷内に入る。思っていたより法廷は狭い。被告席と検事席が対峙する形で、傍聴席が我々見学者の席である。

Prospektには法廷の成立経過、24人のナチ指導者被告の名前と各人の罪状と判決内容、裁判経過等が記載されている。しかし先程紹介したProspektのような面白い表現は用いてはいない。30分位の説明も恐らくこれにそったものではなかろうか。法廷内や建物の写真を沢山撮った。今回の旅で最も貴重な写真である。

旧市街の方に戻り,石畳のゆるい坂道を登って城に行く。ここからの眺めは、雨にも煙って幻想的であった。ナチの業苦を負ったが,本来は中世の趣きが漂うロマンティシュな町である。

 

7.ブレーメン。ゲッチンゲン。ワイマール。ライプツィヒ。ドレスデン

 ブレーメン

 ドイツ北部のハンブルグに次ぐ港町といっても、ハンブルグのように海が見えるわけではなく,港町の荒々しさもない。清潔な感じのする落ち着いた街である。自転車用に造られた道路には、カラーが施されている。ここでは、自転車に乗る老若男女の姿が目立つ。この地方は自転車道がドイツで最も発達している地方とのことである。

 中央駅から真っ直ぐ進み、右手に風車を見やりながら森や小さな沼のある辺りをこえる。例によって3点セットを目指すには、高い塔を目印にして大聖堂、ここでは聖ペトリ大聖堂を先ず目指せばよい。

マルクト広場には約10mの高さのローラント像がある。平和と権利の象徴とのことである。

 鶏、猫、犬、ロバを重ねた像が、Rathaus(市庁舎)の傍に置かれてある。観光客は皆ロバの足に触る。私もそれを真似た。「幸せがくる」そうである。像の写真を撮り、ブレーメンの音楽隊の人形を露店で買う.。孫達への土産である。

 市庁舎の地下にある600種類以上のワインが選べる歴史的なRatskeller(市庁舎ワイン酒場)に下りる。古風な衣装を纏った男がワインの注文をとりにくる。値段がbillig(安い)のをと言いかけてMittelwert(平均)に言い直す。昨晩のフランケンワインの方が遥かに好きだ。

 この先のヴェ−ザー川手前のベットヒャ−通りは、中世風の町並みの興行街。面白そうであるが、小雨がバラついてきたので、ホテルに戻る。

「ブレ−メンの音楽隊を見てきたよ」と孫達を驚かそうか。ブレーメンから名をとった札幌にある「ブレーメンの会」同人への土産話でも得られようか。これ位がブレーメンを訪問したMotivationenであった。

しかし、石畳を敷きつめた車が通らない広い道で人間的な憩いを味わい、また自転車道が尊ばれるのを実感した。子供や文学同人達には余りromantischな話ではないが、この体験こそ日本への土産話であろう。

車に殺されかねない脅威に怯えながら狭い道を這いまわる子供達、資源の浪費に奢っている資源貧乏国が日本の姿であるからである。

ともかくこの日は言わば休息日のようなものであった。翌朝は早くゲッチンゲンに向かおう。

ゲッチンゲン

 5月16日 三村氏にお会いする迄の時間で、Universitaetsstadt(大学町)ゲッチンゲンを下見することにした。

 駅前の広場で見られたのは、沢山の学生と自転車が殆どである。駅前の地下道を潜って 

Goethealle(ゲーテ通り)に出る。これを直進して3点セットを目指すと間もなく,右手にマルクト、その横に旧市庁舎が見える。

マルクトには大学町ゲッチンゲンのWahrzeichen(シンボル)であるGaenseliesel(ガチョウ姫リ−ゼル)のブロンズ像がある。ガチョウの番をするこの貧しいMaedchen(メッチェン)は、frischgebackenen Doktoren(新しく焼きあがった博士達)のお気に入りである。彼らは博士号を取得した後には、ブロンズの頬にキスをするのが慣例となっている。このような次第で,彼らはこのメッチェンを“meistgekuessten Maedchen der Welt”(世界で最も多くキスされたメッチェン)にしてしまったとのことである。

 マルクトを勿論含めて、旧市街は菩提樹並木が植えられている昔からのStadtwall(土手)に囲まれている。ゲッチンゲンでの生活はこのStadtwall内で大部分がまかなえ、すべての重要な場所は歩いて行けるそうである。古い植物園,Deutsche Theater(ドイツ劇場)あるいは多数の歴史的建造物も、歩いて10分以上はかからない。

 Stadtwall内の南端にガウスとウエバーが向き合ったDenkmal(記念像)が見える。これより少し南に進むと新市庁舎。この南側の通りはGaussstrasse(ガウス通り)と呼ばれ、この通りの先にはGaussGarten(ガウス庭園)がある。そこには立派な天文台があった。

 短い時間ではあったがStadtwall内をあらかた歩いた。駅前の芝生に風呂敷を敷いて腰を下ろすと、快い睡魔に襲われる。猛暑の昼下がり、前夜の夜行列車の故であろうか。

 

 5月20日 早朝ブレーメンを発って,再びゲッチンゲンの駅に降り立った。

 Stadt, die Wissen schafft.(知を創造する町)は決して誇張ではない。前世紀100年の間に40人を超えるノーベル賞受賞者がここに住み研究生活を送った。Adolf Windaus(ビタミンD 発見者)、Otto HahnMax Born(量子論定礎者)等々。町の中の多数の建物には、著名な彼らが嘗ってここの住人であったことを思い起こさせるように、その外壁にGedenktafel(銘板)が嵌め込まれている。この100年間の住人達に限っても,このような銘板は約300あるとのことである。

    今まで、Gauss17791855)については、度々ふれた。彼が近世数学のKoenig()と言われているのと同様に、ゲッチンゲンは1933年までは、数学のWelthauptstadt(世界の首都)であった。David Hilbert18621943),Felix Klein1849−1925),GFBRiemann18261866),PGDirichlet18051859)等々がここの住人であった。

 我々の学生時代は、ドイツ語を読めなくては数学の勉強はできないとされていた。「英語は商人と語るによし、フランス語は恋人と語るによし、ドイツ語は神と語るによし。」などと嘯いていたことも思い出される。

北大の教養での講義で、 Statistik(統計学)の一つのklassische Quelle(古典的源流)がドイツのStaatenkunde(国家学)学派であり、ゲッチンゲン大学教授Gottfried Achenwall17191772)はこの学派の学問内容にStatistikという名前を新しく与えたことを説いた。

Achenwall(アッヘンヴァル)流統計学は、ゲッチンゲン大学にいたその後の後継者が継承したので、統計学史ではゲッチンゲン学派の統計学とも言われる。ゲッチンゲン大学だけではなく、ドイツの諸大学でこれは講ぜられたので、deutsche Universitaetstatistik(ドイツ大学派統計学)とも呼ばれた。

ところで英国やフランスが近代統一国家へと成長していたその時代にドイツには大小約300の領邦国家があった。1806年神聖ローマ帝国終焉とともに40位に整理され、それらが連邦国ドイツを形成した。このようなドイツにおける史的背景を自明のようにして講じたから、Staatの概念について学生諸君が誤解しなかったかと、今頃になって内心忸怩たるものがある。

駅からゲッチンゲン大学まではそんなに遠くはなく、また道も分かり易い。Stadtwall側の南の方からUniversitaetsgelaende(大学キャンパス)に入る。考古学研究所,図書館,精神科学研究センター,ゲッチンゲン七教授(グリム兄弟2人も含む)広場と進む。やがて昼近くなって,色々な建物から大量の学生達が溢れ出す。Zentralmensa(中央学生食堂)で昼食でもとろうかと、その建物に入る。玄関ホールや廊下、建物内は何処も学生がビッチリ。諸サービスの窓口に座っている男達はbuerokratisch(官僚的)。

北大の教養(今は高等教育機能開発総合センターなどと呼ばれている。舌をかみそうなこの言葉の代わりに、大ざっぱに教養という言葉を使う。)での混雑現象や教養砂漠化は、私の定年後もより加速しているのではないか。

大量の自転車、競輪選手まがいの学生達、不熱心な演技者が演ずる興ざめた劇場空間を現出するマスプロ教育。大量留年現象の発生防止に多年貢献してきた私には、前述したような「統計学学説史におけるゲッチンゲン学派の清算」よりは、こちらの方が生涯の関心事である。

予科に入学した時のクラスは,それまでの中学校時代より少なく40名以下。学部の数学科のクラスは10余名。更に最終学年3年目に4講座に分かれると、1講座2,3名。3年目で必須であった大よそ講座毎のSeminar(演習)では、教官の人数が学生の人数をうわまわった。Seminar録には研究の先端が綴られているとも教えられた。このようなakademischな光景を教養で希求することは、教養教師の私には叶えられない憧憬に終わった。

00名から500名(新制大学発足時には600名を超えたこともあった。)の学生を講堂に集めて、マイク無しで怒号しながら講義するような苦行を私は甘受してきた。いかに大量観察を商売とする稼業であっても、このような境涯は本意ではない。大学紛争の後で所謂教養改革委員に選出された際、「演習」で少人数教育を多少とも志向できないかと、激論を戦わせた。東大ではこの頃、「全学演習」(正式名称は不詳)で当時東大で発生した自主講座をも吸収する策を練っていたと聞いた。今村学長から出張を命ぜられ、朝日奈先生(低温科学研究所長)と一緒に東大へ調査に行った。このような事があったが、所謂教養改革では、言語文化部発足や教養部運営で教師の利益が計られたに過ぎなかった。学生は当局側の学生対策の対象物となり、学生に対する教養の教育は改善されどころか、その意義さえも疑われるようになった。現在見られるその縮小や廃止は、この時点でも予見されうる帰結である。

このような思念はたえず私に去来してきたものである。

ゲッチンゲン大学の学生数はおよそ3万名と聞く。大学の状景を実見してきたばかりの私は、自分が多年懐いてきた問題意識に資するような処方箋を、性急にここで探ることはできないと直感した。もっと問題を勉強整理してから、再訪を期したい。出たとこ勝負で予定外の首都廻りなどをしてしまったので、主目的であったドイツを歩く日も残り少ない。Weimar(ワイマール、ドイツではヴァィマールと発音)へは50分程で行ける。

ワイマール

ワイマール駅内のInformationには「冬季期間中につき閉鎖」の札がぶら下がっている。ここで宿を決めようと考えていたのだが、例の3点セットのある辺りででも探そう。やむなく荷物を担いで駅前の住宅街の道を直進すること50m。電柱に張り付いたPensionの札が目に入る。札にかかれてあった矢印の方向に進む。それらしき住宅風の建物の周りを廻っても玄関が見当たらない。壁と見分けがつかないようなドアが入り口であったからである。

その傍にあったHaustelefon(インターホン)で「1人部屋がないか」と尋ねる。「ない」との答え。ここでやめなくてよかった。一寸間をおいて「2人部屋ならある」との声。値段を尋ねると40オイロー。こんな値段では、普通のホテルでは1人部屋でも泊まれない。即座に宿泊を頼む。入り口のドアの鍵をあける音がして,上品な女主人が現れる。部屋の鍵と領収書を渡して去る。この後一度も顔を見ていない。しかしIndifferenz(無関心)、不干渉も最高のサービスであった。

調理器具(包丁,鍋)、食器(ワイングラスも),栓抜きの類一切から冷蔵庫も揃ったキッチンが用意されてある。高い天井の中央から下がったシャンデリアの下には、円い大きなテーブルがある。ここにビール,ワイン、Opitz氏から頂いた焼酎に私の好物を盛って,今宵は「ワイマールの宴」をはろう。

駅から直進する先程の道を10分ばかり歩くと、住宅街が終わって町の中心部に出る。Goetheplatz(ゲーテ広場)からは歩行者天国状態。Deutsches Nationaltheater(国民劇場)で先ず歩を止める。その前でゲーテとシラーが手をとりあっている像の写真を撮る。マルクトを通リ抜けGoethes Wohnhaus(ゲーテの家)を先ず見る。通リ過ごしてきたSchillerhaus(シラーの家)と同じく黄色の壁であるのは珍しい。

予科生時代、戦時下における日本の絶対主義に対する反感は募るばかりであった。これをドイツの領邦絶対主義に投影し、王侯に仕える上流階級の徒とゲーテを想像し、反感とは言わなくとも距離感を感じるようになり、予科生時代の終わりにはその作品をとうざけるようになった。これは、次のような視点が私に欠落していたのにも起因する。

「ドイツ人よ。国民になろうとしてもそれは空しい望みだ。そんなことではなくて、自分をより自由な人間に発展せしめよ。」これはゲーテの言であり、「ワイマールの精神」を言いえている。また、当時の啓蒙主義における悟性偏重に反対し,社会の因習を激しく批判したSturm und Drang運動で、彼は旗手であった。

ゲーテが1775年に26歳でワイマールに来た時、ワイマール公国の面積は東京都程度,人口は11万、首都ワイマールの人口は6千。ここでゲーテが世界市民を標榜したのには驚嘆する。ケーニスベルクの町を出ずしてカント哲学を作ったカントも同様である。統計学史におけるドイツ国家学派を前述した際にもふれたが、大きな統一国家を小さな領邦公国に投影して考えると、誤りを犯す。ワイマールの人口は現在でも人口6万。この小さな都市が世界にKulturstadt(文化都市)を誇っている。それはゲーテやシラー達が築いた精神文化遺産が人類の共有財産までになっているからであろう。

地方分権が日本でいかに叫ばれても、精神文化の遺産が貧弱な日本の小都市で、このようなことは望むべくもない。町や村の神社あるいはその総元締めを拝ませて,伝統を愛し郷土を愛する心を育てるなどと説くのは滑稽である。

マルクト広場に限らずGoetheplatz(ゲーテ広場)、Herderplatz(ヘルダー広場)など広場が多い。そのベンチに腰を下ろし行き交う人々をボンヤリ眺め、夕べの感傷に浸る。

「想は駈する南欧の 灯ともし頃の雲の色 チューリンゲンの病葉よ ユングフラウの影淡し」(「時絢爛の」4番。高知高寮歌)。これはThueringenのこの地に相応しい。一昨年はユングフラウの暮色を三村氏と共に愛でた。

本屋に立ち寄った後、Supermarktで今宵の宴に備えて買い物をした。

自分の好物のみが盛られた豪華な皿を自画自賛し、ビール、ワインのMischung(チャンポン)。Opitz氏から貰ったゴショウイモSchnaps(焼酎)で仕上げ。予科生時代からの遅くなった言わば精神的決算の日、60年来の夢が叶えられたこの日に謝して乾杯。

「その(二八に帰る)術なきを謎ならで 盃捨てて嘆かんや 酔へる心のわれ若し   吾とこしへに緑なる」(「北の都に秋たけて」2番。四高寮歌)。

ライプツィヒ

ワイマールからライプツィヒまでは、ICE50分。駅は重厚な趣で立派である。駅前のInformationは親切。そこを出てRitterstrasseを出版社の建物群を左に見ながら少し南進すると、右手にニコライ教会。1989109日「FreiheitKeine Gewalt!」(自由。非暴力)を叫んで、このニコライ教会の近くに約7万名の群集が集まった。ベルリンの壁と並んで、東西統一の契機を与えた所である。教会では、小さな蝋燭を買いその代価以上の金を賽銭箱に投じるような殊勝な気持ちになった。

1723年から1750年までBach(バッハ)がオルガンを演奏していたことで有名なトーマス教会もここから歩いて5分程度。教会前にバッハの像、さらにBach Museum。ここでBachの文字の入った安い布製手提げ袋を数枚買う。例のマルクト周辺風景はもう食傷気味なので、遥かに眺めるのにとどめる。

早朝を過ぎたので賑やかになった往路をもどり、35階建てのHochhausを目印にしてライプツィヒ大学に達する。そのゲレンデに入る手前で、本を読んでいるLeibnitz(ライプニッツ)の像を発見する.これより少し前に見たゲーテ(ワイマールやフランクフルトのそれより若い容姿の)像の周りに見られたような観光客の姿はない。

正式名はGottfried Wilhelm,Freiherr von Leibnitz(16461716)であるライプニッツは,ライプツィヒに生まれ、数学,自然科学、哲学、神学、文化諸科学万般に寄与した天才である。彼はNewtonと並んで微分を発見し、導関数を表す dy/dx の記法は彼によるもので、ライプニッツの記法と言われる。積の関数の高次導関数に関するライプニッツの公式は、教養程度の教科書でも見出される。

この像の前で女子大学生にKameraVerschluss(シャッター)をきってもらった。問いかけてみたら、彼女は微分についの上述の知識は持っていた。大学のゲレンデでの夥しい学生が醸し出す風景は、ゲッチンゲンと変わらないようである。

明日の夜はフランクフルト空港から帰国しなければならない。短時間ではあったが昼前でライプツィヒの町の大体の空気は体感した。フランクフルトに戻って、そこからボン大学あるいはマーブルグ大学へ行こうか。あるいはTrier(トリアー)まで行って、ローマ遺跡を見た上でマルクスの生家見物でもしようか。しかし同級生西平重喜氏(世論調査研究の第一人者)の話を思い出した。柴田治三郎先生が「あの美しい町ドレスデンが,アメリカの空爆で一夜にして破壊された。」と歎かれたという話である。ドレスデンのお目当てのホテルに電話してみると、部屋はあるとの返事が得られた。ボンやトリアの方は次回の旅ででも行くことにして、ここから1時間程で行けるドレスデンに向かおうと決断した。

ドレスデン

中央駅からPrager Strasse(プラガー通り)が始まる辺り迄の300m位の間は、地下街建設の大規模な工事で掘り起こされていた。この通りの始点付近にあったホテルに荷物を置いた後、歩行者天国のプラガー通りを歩く。デパートや商店が両側に立ち並ぶこの道を10分ほど直進すると、旧マルクト。

ここら辺りには立ち止まらずに、Zwinger(ツヴィンガー宮殿)へ急ぐ。この中にある数学物理学博物館などには目もくれず、アルテ・マイスター絵画館へ。ここでは「まどろみのヴィ−ナス」(ジョルジョーネ作)やラファエロの「マドンナ」の絵が見られた。

レジデンツ(ザクセン王の居城)を過ぎて通りかかった外壁には、タイルを使って描いた壁画「君主の行列」が通りから見られた。これは長さが101mもある壮大なもので、必見物であろう。他のツアー観光客に紛れたりして歩いた城、宮殿、教会等の名前の退屈な列挙は控える。

Frauenkirche(フラウエン教会、聖母教会)については、言及を控えるべきではないと考える。6118日かけて建てられたと言われるこのプロテスタント教会を破壊するには、ドイツ降伏3日前に米英空軍が敢行したわずか一夜の空爆で事足りた。このドレスデン爆撃は広島,長崎の悲劇に比すべきものである。それから60年近く経ても、瓦礫の山が悲惨な姿を未だに残している。この山からかけらを1つ1つ掘り出して鑑定し、それを元の位置に戻す。10年頃前から始まったこのような作業は他の場所でも見られ、町全体が再建(Wiederaufbau)を標榜しているのを感ずる。

これまで歩いた旧市街地区の南はElbe(エルベ)川で限られている。この川の源流はチェコにあり、ドイツを南北に貫いて約1100km流れている。昨年はこの流域での洪水が報ぜられ,日本人をも驚かした。この川沿いの庭園付き遊歩道はブリュ−ルのテラスと呼ばれる。ここのベンチに腰を下ろし、Augustusbruecke(アウグストゥス橋)を眺めて、夕景色を楽しむ。橋を渡って対岸の新市街地区に行くのは思いとどまった。

16世紀以来ザクセン王国の首都として栄え、「百塔の都」を誇った嘗っての栄華を、ドレスデンは今でも伝えている。観光客、とりわけ老人夫婦観光客が多い。京都や奈良の神社仏閣廻りを終えて、冥土の土産ができたと欣喜する日本の田舎の老人達を連想されてよい。翌朝のホテルでの朝食では、ハシャイデいるこのような老人夫婦達でレストランは満員であった。私は未だこのような老人の心境にはない。古寺巡礼よりはビアホール巡礼を好むか。

フランクフルトでの午後

522日ドレスデンを8:11に発ち1237にフランクフルトに着くICEに乗る。前にも述べたボンやマーブルグなら、フランクフルトから時間的には往復可能である。しかし折角これまで無事できたのに,帰国JAL便に遅れたら大変である。少々残っているユーローも、再両替などするよりはドイツの品に換えるべきであろう。Einkaufen(ショッピング)などは、今回の旅でも殆どしないことにしてきた。訪ねた町を体感しようとするのには、むしろ妨げとなるからである。しかし、ドイツに別れる最後の地であるフランクフルトの午後では、この掟を棄てた。

中央駅からSバーンでHauptwache(ハウフトヴァッへ)駅へ先ず出る。駅は繁華街の中心に位置する。ここからブラブラ歩いて夕方迄に中央駅に戻れば、空港で慌てることはない。

乞食、浮浪者、ヤクザ風の男、屋台風の露店で飲んでいるルンペン風体の男、あまり品がよいとも思えない女達。中央駅に近い辺りに、これらがたむろする柄のよくない物騒な界隈がある。このような光景をドイツで見出すのは困難であり,今回でもこの日が初めてである。

街をグルグル廻って入るうちに方向感覚が狂ってきたようである。通りがかりの夫婦ずれに持っていた地図を示して、”Wo bin ich auf dem Plan?”(私はこの地図ではどこにいるのか)と聞く。これは私の常套手段。ご夫婦は親切に教えてくれ、別れて最初の角にさしかかった際に振り向くと、中央駅の方向を手で指してまだ佇んでおられた。

中央駅の地上駅部分は行き止まり式のドームである。30本に近いGleis(番線)も平行,平坦に発しているから、目指すGleisの選択も容易である。Sバーンが往来する地下駅では、馴れない者にはこの選択は容易とはいえない。地下駅に下りる沢山の階段,エスカレーターのうちから1つを選択して下りても、下りた場所の両側のどちらの側の車が目的の駅に向かうかを選択しなければならない。ドイツをDBで駆け巡ってきた私も、Sバーンで空港駅に向かう最後の場面で、この選択に困惑した。中年のドイツ女性にお聞きすると、美しい発音で教えてくれる。教えてくれたGleisに、やがて車が入ってきたところ、「それに乗っては駄目」と反対側から手振り身振り。やがて目的の車が到着した時、反対側からこちら側にスーット来られ乗車を促した。彼女は私の無事な乗車を見届ける為、自分の乗車を遅らせたのである。

”DankeDanke schoenDanke sehrVielen DankHerzlichen Dank

私は可能な限り「ダンケ」を連発した。

些事を詳述し過ぎると思えるかもしれない。しかし、旅で受けた親切は旅の全印象をも支配するものである。ドイツの地で最後にお受けした人の情けは、ドイツへの私のこれからの回想を美しく彩るであろう。

Opitz夫妻,三村夫妻への感謝は勿論のことである。しかし、謝辞を綴る言葉に窮する。独り旅などと称しているが、両御夫妻のAufmerksamkeitが今回の旅を強く支えてくれたのである。                       (20037月 脱稿)