女王的旅行
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三 峡 を め ざ し て −東京
〜 上海 〜 鎮江 〜 南京 〜 宜昌三峡(西陵峡・巫峡・瞿塘峡)〜 重慶 〜 上海〜東京
11/14
定刻より1時間遅れで上海・虹口国際空港に着く。上海は、2年ぶり。空港から市内まで高速道路ができ、外灘(ワイタン)付近は、摩天楼が乱立 している。うーむ、ここは、本当に梅姫の知る中国なのでしょうか???まして、昨日、トランクを自宅まで集荷に来てもらい、成田では、今回、利用する旅行会社の添乗員が機内への手続きを梅姫が成田に着く前に終わらせ、上海でもまだ、トランクを持っていない。女王様のような旅!いいや、なにか、物足りないような違和感がある。「中国=苦労」。
(~_~;) そう思われている方々、多いのでは?夕食後、今夜の宿、「和平賓館」へ。しかし、3人という半端な参加人数の申し込みのため、梅姫は相部屋をお願いしておりました。(単にお金ない関係ですけど…。) はたして、どんな人と、どんな部屋になるのでしょう。(期待と不安。(-_-) )
部屋の鍵をいただくと、友達の鍵のタグは部屋番が印字されているが、梅姫のにはボールペンのなぐり書き???どうやら
ここは 間違いなく中国らしい。と、みょうな安心感が沸く。どこからか添乗員が寄ってきて、小さな声で「相部屋の方おいでになりませんので、お一人でお部屋御使用下さい。内緒ですよ。」そういうと、せわしく消えた。ラッキー!
追加料金なしで、一人で部屋使えるなんて〜。しかし、… (-_-;)梅姫は手の中のボールペン書きキーナンバーをじっーと見詰めた。(~_~メ)梅姫の部屋は、廊下の端だった。ボールペン書きキーを挿し込みドアを開ける。???(@_@)そこは、部屋ではなく、廊下がさらに続いているだけだった。
仕方なく廊下を歩き、一番手前の部屋をのぞくと、そこには、真っ赤な絨毯が敷き詰められ、ビロードの応接間セットがおかれた客間だった。急ぎ廊下に出、次の部屋に走る。ダブルベットが2つ並んだ寝室。ベルボーイがトランクをクローゼットに運び込む。広さはゆうに2畳はある。ここは、まさかのスイートルーム。 (^。^)
11/16
AM3:30ごろ、鎮江を通過する。(行っていないのになぜ表題にあるかって、回答:通過いたしましたので… ^^; )外は月も星もなく墨を流したように真っ暗である。目の高さに、光りの点線が平行に連なってしている。どうやら、あの当たりが鎮江らしい。しばらくすると、明かりは消え、ただ、暗闇が窓の外に広がるだけであった。(一応、起きて外は、見ましたです。){鎮江(ちんこう)=三国志の名場面の舞台。}AM6:00
起 床。AM6:30中国語講座。
中国講座の先生・陳さん。どうもなまっている。日本人を「ズーペンレン」、上海を「サンハイ」、などなど、田舎っぺになりそうな気配。朝食後、南京に上陸し、市内観光へ。午後、梅花園見学。晩秋の11月、裸になった梅木が無数に点在し、寒々とした風景である。ここが、呉国・孫権の墓。三国の覇王・孫権は、212年、この南京を健業(けんぎょう)と改名し都を定め、幾多の荒波を克服して繁栄をほしいままにした。252年 70才で病死し、この小高い岡の下に、殉死した趙(ちょう)夫人や歩(ほ)夫人と合葬されて今、まさに梅姫の足元の地下深く眠っている。1700年の時空を飛び越えて浮かび上がる歴史に、梅姫のこころは浪漫に満たされた。

桃胡妹妹撮影(南京・霊光寺正門)
その後、霊光寺(れいこうじ)にまわる。境内にそびえる黄金に色づいた銀杏の大木が美しく、一陣の風に黄葉が蝶のように舞い散る。本堂からはなれると人の気配は失せ、晩秋の傾きかけた夕日が小さな霊廟(れいびょう)を照らし出している。誘われるように中に入ると、香華(こうげ)がたむけられたりりしい関羽画像にめぐりあった。(^.^)夕刻、扶子廟(ふしびょう)で自由時間。大正時代の浅草という雰囲気で、なかなかあじわいがある。白熱灯の灯かりは、あたりをセピア色に浮かび上がらせ、色あせた回転木馬から嬉々とした笑い声がわく。川面には、茶館の軒に吊るされた紅い中華風提灯の影が浮かんでいる。中国は、現代と過去を一緒に生きている国なのかもしれない。
客船にもどり、ひとりキャビンのテラスから船がゆっくりと南京の街を離れて行くのを川風にふかれながらながめる。あわい町の光りが遠のく姿は、哀愁を強く感じ、汽笛の音に霊光寺の夕日に照らし出された関羽の姿を思い浮かべた。
11/18
南京を出発した翌日の11/17は、どこも下船観光がなかった。今回の旅行は、ツインの部屋をすべてひとりで使う女王様旅。午後、バスタブに入浴剤を入れて、ゆっくりはいり、お昼寝したり、乗船したプレジデント号の主催するアトラクションに参加したり、キャビンのテラスから鈍色(にびいろ)に光る長江をながめて過した。
九江(きゅうこう)は、はじめ盧山に向かう。わが国でも有名な「香炉峰(こうろほう)の雪事件」の香炉峰がある山。(どんな事件か?という問合わせが多いので。平安時代、清少納言があたしゃ、学(がく)があんのよ。といって、定子(ていし)に雪見るんなら簾(すだれ)を掲げなきゃだめよ。香炉峰の雪は簾を掲げて見るっていうじゃない。という事件です。智恵をひけらかしたため、犬猿の仲の紫式部との宮中バトルが加熱したとかしないとか。 (~_~) )
なるほど、百聞不如一見!(百聞は一見にしかず)。壮大な山。遊歩道がありヒールでもサンダルでもOKだが、一瞬、平衡感覚をなくす。するどく切りたった崖、深い渓谷の山々。
そのふもとに目指す煙水亭(えんすいてい)は甘棠湖(かんとうこ)の岸辺にあった。大小、色とりどりのビル群に囲まれ、千代田のお濠のボート乗り場ぐらいの感覚である。
208年。呉国の周瑜(しゅうゆ)は曹操軍との決戦に備え、赤壁に向かうための最後の訓練、調整をここ煙水亭に立って行い、長江をさかのぼっていった。
その時、同行の年配の御婦人が感慨(かんがい)深げに語った。「戦争中、兄に付いて九江で暮らしていましたの。その当時は、まだ長江とつながっていて、甘棠湖もはるかに大きくて、長江へ小さな釣り舟が出て行きました。」そう言って立ち並ぶビルの一角を指差した。いまはもう見えなくなった長江の方角へ、修練を積んだ呉国の船団が軍旗をはためかせ、銅鑼音(ドラノネ)も高く意気揚々と出陣していく勇姿を暮れなずむ九江の街に思い浮かべた。

桃胡妹妹撮影(武漢市内をのぞむ)
11/20
昨日、19日は武漢市内観光。超有名、黄鶴楼へ。しかし、梅姫ひとり遠慮し、お隣り雲光閣の観光と、コスプレをする。コスプレのおばちゃん、注文が多く、あーポーズを取れ、ここに立てという。ま、中国人料金10元で 写真撮ってもらっているので、素直に従う。ツアーに合流し、昼食。自由市場の散策。東湖。博物館。帰元寺。主要なところは、すべて網羅(もうら)されている。だが、梅姫のこころを捉えたのは、有名観光地ではなく、それも、どこにでもあるものだった。夜、暗がりを照らす明かり。客船が停泊する長江の港のそばに寺が建っている。寺は小高い岡の上にあり、長江に面している。たぶん、船の安全運航祈願で建てられたのだろう。岡は暗い。だが、背後から武昌の街の明かりに照らされて、その輪郭だけはかすかにわかる。そして、提灯がひとつ、その寺の建物の一角に吊るされている。長江から風が吹き上がるたび、明かりは前後左右に揺れている。まるで、誰かに秘密の合図を送るように。ここは、武漢。赤壁の戦いに向かう、呉軍・周瑜と、劉備軍・孔明が合流した地。また、そのようすを偵察する魏軍・曹操の隠密(スパイ)が暗躍(あんやく)していてもおかしくない。ひとり、夜、キャビンでそんなことを考えながら長江の灯火をながめていた。
20日は、乾期のため大型客船の武漢〜宜昌運行が難しいということで、陸路、荊州を経由して、夜、宜昌のホテル・三峡賓館へ入る。荊州は、関羽が最期を遂げた地だが、観光した場所は、観光化された「荊州古城」。中に関羽が使った青龍刀(まったくのニセモノ、つくりもの)が飾ってあった。天候が急に変わり、寒くなったこともあり、別段、記するこのがない。
11/21
いよいよ待ちに待った三峡観光。葛州ダム(三峡入口のダム)を朝一番に通過。三峡とは、三つの峡谷の総称。下流から西陵峡(さいりょうきょう)・巫峡(ふきょう)・瞿塘峡(くとうきょう)。この葛州ダムができるまで、三峡の一番の難所は西陵峡だった。しかし、葛州ダムの恩恵によりいまでは、三峡第一の安全地帯となっている。昨日から急に天候が変わり、非常に寒くなった。本来このあたりの気候は亜熱帯に属し、温暖なはずだが、今日は苛酷な見学になりそうだ。寒風吹き荒れるなか、まず最初に張飛の雷鼓堂が前方右側の山に見えてきた。両まなこを見開き、侵入者を威圧する。まさしく、ここが三峡の入口。ダムによって広くなった川幅が、張飛の足元から急に狭くなる。船は静かに三峡に侵入した。中国の大地である赤土を含んだ川の水はとうとうと流れる。両岸は濃い緑の木々が生い茂っている。

梅姫撮影(三峡風景)
これからしばらく見どころがないので、冷えた身体を温めに一度船内にもどる。船に乗りこんでいる三国志研究者の盧老師に教えを請うた。盧老師曰く、「劉備の墓はこれから向かう白帝城近く、奉節の永安宮にあり、劉備の夫人の遺体も永安宮内に成都から移されています。」と口角あわをとばす勢いで熱弁を振る舞われる。見所のひとつ「牛肝馬脾」「孔明の碑」が近づくと、盧老師がみずから梅姫のカメラを持ち、甲板に出るよう言われ写真を撮ってくださった。中国の老師はサービス精神旺盛。盧老師の書籍を購入し、サインを頂く。ちなみに、盧老師は、北京大学の教授だそうです。そうこうしている間に、巫峡の中心地、巫山に到着した。
11/22
AM6:00起床。眠い。昨晩、巫山へそっと抜け出し、もどったのが12時をまわっていた。巫山の町は思ったよりも開けていて、ネオンが輝き、老若男女が遊興にしたっていた。この町はやがて水の底になってしまうなどとは、想像もできない。AM7:00、小三峡遊覧に出発。渇水期のためバスで入口乗り場に移動する。この小三峡は、巫山に流れ込む支流、大寧河(ダイネイガ)のことで、この大寧河にも巴霧峡・滴翠峡、龍門峡という峡谷があることから名づけられた俗称である。大きな違いは、山明水透。山青く、水澄む。川底の小石の模様まではっきり見える。しかし、渇水の状況は深刻で、何度も下船を強いられ、船遊覧でなく、徒遊覧であった。

梅姫撮影(小三峡・龍門橋をのぞむ)
PM3:00、最後の峡谷、瞿塘峡に入る。渇水のすごさを見せつけられる。大型船が岩床に乗り上げ、赤黒く塗られた船底を見せている。その横をゆっくりと回り込むように通りすぎた。白帝城下の桟橋は大型客船が直接横付けできないため、一度小船に乗り換える。はるか山頂にかすかに観星亭が見える。感動。(T T) 一歩一歩、白帝城をめざす。山頂付近の石段は巾が狭く、敵が攻め込むのは不可能だろう。白帝城入口は日本人、中国人観光客が入り乱れ写真を一枚撮るだけで一苦労した。入ると劉備最期の様子を塑像で紹介している。名場面。再び感動。(ToT) 白帝城内は涙に曇っているのか、あたりは薄暗い。いいや、もう陽は傾き、瞿塘峡に夕闇が迫っていた。あわただしく数枚記念写真を撮ると後ろ髪を引かれながら白帝城を後にした。すでに、山道には人影がない。割り込み中国人観光客やツアーのメンバーでいっぱいだった城山は静寂につつまれている。桃胡妹妹の持つ懐中電灯で時計を照らすと、渡し舟の時間まで10分ほどしかない。慌てて石段を駆け下りる。風姫女史(同行の友人)が道が違うと言う。いま駆け下りた石段をもどり、さらに狭い崩れかけた下り坂を疾走した。時間ぎりぎりにたどり着き、渡し舟は間を入れず出港。粗い息を吐き、額の冷や汗をぬぐいながら見上げる白帝城は、暗闇に覆われ、静かな夜を今夜も過ごそうとしていた。

梅姫撮影(白帝城内)
11/23
豊都見学。夕食後、船長主催のさよならパーティが開催され、3人それぞれチャイナドレスで参加する。桃胡妹妹は同船した中国人青年とダンスを楽しんでいる。風姫女史はいつのまにか姿を消した。梅姫はひとりデッキに出た。三峡最後の夜は満天の星空であった。ひとつひとつの星が力強く輝いている。古来、星の運行に命運を照らしあわせていたのもうなずける。個々の星星が自己主張しているようである。諸葛亮孔明も巴城(重慶)へ向かう船の中からこのように星を見上げたのだろうか?あの星の煌きに勝利を確信したのだろうか?ふと流れ星が見たくなり、目を張って見上げその時をしばらく待ったが、その気配まったくなかった。目を落とし、川面を覗き込む。下層の客室の窓から漏れる明かりで浮かびあがる水は、黄土色。波おだやかである。一陣の寒風が吹きすぎた。劉備、諸葛亮、李白そして杜甫。みな時間は違うが梅姫と同じ長江・三峡の天上の星を見上げ、さかまく風を受け、思いをめぐらしたのだろうか?再見長江、将来三峡見、再び会う日まで
梅姫撮影(三峡・瞿塘峡の夕ぐれ)
11/26
三峡から三日後、無事日本に帰国す。我到三峡旅行是第三次的。女王的旅行是第二次的去旅行。従上海到重慶座了座船的13天。我感覚又安静又舒服、更喫的東西、看的東西和聴的東西都很有意思。我一回国就要去三峡旅行。下次散文主題是《清貧旅行
― 三峡をめざしてー》。