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4月1日(月)
SJ開寮である。

夕食はpolloricoで



4月2日(火)
夕食はpolloricoで
Hemos comido la cena en el pollorico en esta noche.


4月3日(水)
polloricoはお休みだ。カルメンも今日は非番らしい。


4月4日(木)
Hemos comido la cena en el pollorico en esta noche.


4月5日(金)
K氏帰国
Sr.K habia vuelto a Japon en esta manyana.

掲載拒否の憂き目にあった論文の校正を検討する



4月6日(土)
バルセロナ到着から153日目。残り152日。今日で折り返しだ。

久しぶりにSJで洗濯だ。
Hoy he lavado mis ropas en SantJordi, que hacia tiempo que no los lavaba.

そして出勤。



4月7日(日)
今日の記述は、日誌ではない。感想だ。
 
自爆テロ自体は非難されるべきであろう。いかなる理由があってもテロであることには変わりがない。

しかしあえて視点を変えてみれば、自らの信念を貫くために命をささげると言う行為は美しい。

あるいはそれを肯定する美意識が存在すると言うべきか。だがそれは勘違いだと思う。

キリストの死と自爆テロの決定的な差は他殺か自殺かにある。運命論者に言わせれば、

どちらも天寿を全うしたことになるのであろうか。つまり社会が彼女を自爆に追い込んだと。

背景としては正しい。しかし本当にそうかと言えば怪しい。死んだ本人だけが知っている。

だが、その真偽を追究することは無意味だ。我々の議論は死者の為にあるのではない。

墓前に手向けられる弔辞でさえ耳にするのは生きている我々だ。

運命と対峙し、生を全うし信念を貫くことが、多くの死を未来にとって意味のあるものにするのである。
 

と書いてみたが、この文章を生きたものにするかどうかは私自身の生き方に委ねられている。恐ろしいことだ。

今の私にとっては机上の空論であり言葉遊びの域を出ない。では、なぜ掲載したのか、お話したい。

先週パンプローナで感じたことも関係しているが、直接の切っ掛けは4月6日付けのアサヒ・コムの天声人語だ。

そこにはユダヤとパレスティナの二人の若い女性の話が載っていた。好戦的な二人の老人による犠牲を減らす

ために世界の警察が乗り出した、期待しているという文章だった。自爆テロについてコメントするには社会の、

それも国際政治の批判が一番手っ取り早いのである。なにしろ完全に蚊帳の外だからである。それでいて問題を

提示してみせる。上手いやり方だ。上のような文章を書いたら読者からいじめられるに決まっている。

本人の生き方自身に言及するような論説は難しい。だがあえて挑戦してみた。言ってみれば背水の陣である。

「おまえ、あんな偉そうなこと書いて、自分はちっともなってないじゃないか」と批判されることになる。

こまる。反省する。頑張る。でも批判される。批判がなくても、自分で書いた手前恥ずかしい、よわる、なやむ。

というわけだ。「悟りを開きます」宣言かな。
 

さて、今日の表現だ

La sociedad ha la forzado a hacer un atentaddo suicida con bomba.
社会が彼女を自爆テロに追い込んだ


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