ゴジラよ永遠に

 
 

我々は、ひとりの英雄を失った。
しかし、これは敗北を意味するのか
否、始まりなのだ。
実写映画に比べ、我が特撮映画の予算は30分の1以下である。
にもかかわらず、今日まで戦い抜いてこられたのは
なぜか、諸君?
我が特撮映画の制作目的が正義だからだ。
ひと握りのエリートが、テレビにまで膨れ上がった映像界を支配して50余年。
特撮映画を愛する我々が自由を要求して
何度、「資本の論理」に踏みにじられたかを思い起こすがよい。
日本特撮愛好会の掲げる、人類ひとりひとりの自由のための戦いを
神が見捨てるわけがない。
私のお気に入り、諸君らが愛してくれた
ゴジラ映画は死んだ、なぜだ。
戦いはやや落ち着いた、諸君らはこの闘争を対岸の火と見過ごしているのではないか。
それは、罪深い過ちである。
株式会社東宝は、清雅唯一のゴジラ映画を汚して生き残ろうとしている。
我々はその愚かさを、東宝映画制作所のエリートどもに教えねばならんのだ。
ゴジラは、諸君らの甘い考えを目覚めさせるために死んだ。
戦いはこれからである。
我々のコンテンツは、ますます整いつつある。
東宝映画制作所もこのままではあるまい。
諸君の父も兄も、「資本の論理」の無思慮な抵抗の前に死んでいったのだ。
この悲しみも怒りも、忘れてはならない。
それを、ゴジラは死をもって我々に示してくれたのだ。
我々は今、この怒りを結集し東宝映画制作所にたたきつけて
はじめて真の勝利を得ることができる。
この勝利こそ、戦死者すべてへの最大のなぐさめとなる。
ゴジラファンよ、立て!
悲しみを怒りに変えて
立てよ、ゴジラファン!
ゴジラは、諸君らの力を欲しているのだ。
ジーク・ゴジラ!


「ゴジラ」の国葬に臨んでのゴジラ・スキー総統の追悼演説より引用

 
 
 

 12月15日、ゴジラシリーズ最新作「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総進撃」が封切られた。ユエハイは例によって見ていない。いや、見に行きたくないというのが本当のところかもしれない。その理由は後で述べることとして、少しゴジラ映画の歴史を振り返ってみよう。
知らない人はいないと思うが、「ゴジラ」とは日本が世界に誇る特撮怪獣映画である。シリーズ第一作「ゴジラ」は1954年に封切られた。オフィシャルページでは、

原水爆実験の影響で、大戸島の伝説の怪獣ゴジラが復活し、東京に上陸。帝都は蹂躪され廃墟と化した。ゴジラ抹殺の手段はあるのか…。
 戦後の日本映画界に、特撮怪獣映画というジャンルを築いた、記念すべきゴジラ映画第一作。核の恐怖を描いた、本多猪四郎の真摯な本編ドラマと、円谷英二のリアリズム溢れる特撮演出は、絶妙のコンビネーションを見せ、ゴジラの名を一躍世界に轟かせた。本作を越える作品は無いと言われる、東宝特撮映画の不滅の金字塔。

と紹介されている。本多・円谷のコンビネーションもさることながら、主人公ゴジラを演じる中島春雄の重厚な演技、伊福部昭の有名なゴジラのテーマも忘れることは出来ない。だがしかし、第一作が「本作を越える作品はない」とまで言われる本当の理由は、作品の時事性にある、とユエハイは考えている。
 時は1945年(昭和20年)、アメリカ軍による2回の卑劣な原爆投下、無差別虐殺を受け、日本敗戦。そのヒロシマ・ナガサキの悪夢も覚めやらぬ1954年(昭和29年)、アメリカによる非人道的なビキニ水爆実験によって遠洋マグロ漁船第五福竜丸被爆。日本中、いや世界中が核の恐怖にさらされる中、「ゴジラ」が現れた。そう、ゴジラは「核の恐怖」の象徴として生み出されたのだ。
 圧倒的な破壊力を持つゴジラの前に全く歯のたたない自衛隊(ちなみに1950年に組織された警察予備隊は1952年に保安隊に改組され、1954年7月に防衛庁・陸海空自衛隊が成立)、為すすべもなく焼き尽くされる東京。まさに東京大空襲の再現といえよう。人は、「ゴジラ」を通して「軍隊なんぞがどれだけいても、核攻撃を食らえば皆終わり」という真理を知るのだ。その意味で、ゴジラは反戦・反核の象徴とも言える。
 
 第一作では「核の恐怖の象徴」、「人類の敵」として現れたゴジラだが、その後のシリーズではだいぶ性格が変わっていく。まるで日本人の「核」に対する認識の変化に歩調を合わせるかのように。また、1964年に公開された「三大怪獣 地球最大の決戦」で、宇宙怪獣キングギドラが登場。今後ゴジラはキングギドラを初めとする「宇宙からの侵略者」にたいして地球を守る為に戦う正義の味方(本当はちょっと違うけど・・・)というスタンスで描かれるようになっていく。
 何故そうなって行ったのかというと、前にも述べたようにやはり「核」に対する認識の変化というのが、最大の理由だと思う。1954年の第五福竜丸被爆事件を受けて、民間では原水爆禁止署名運動などが盛り上がっていたが、政府はその翌年の1955年に日米原子力協定なるものを結び、原子力基本法を制定。1956年には国会で原水爆実験停止決議を採決する一方で、東海村に原子力研究所の設置を決定した。これ以降、日本政府は「核エネルギーとは、うまくコントロールしてやれば莫大な富をうむ夢のエネルギー」として宣伝にやっきになる(コントロールしきれずにたびたび暴走させていることは、皆さんご存知の通り)。これに加えて冷戦構造による米ソ対立の図式のなかで、米国側の「不沈空母(by中曽根元首相)」、共産勢力に対する資本主義陣営の先鋒と自負する日本が、他国(主に旧ソ連)の侵略という幻想に取り付かれていたことが、「キングギドラ」やその他多くの宇宙人といった地球侵略者の方々を生み出す背景になったと考える。こうして、昭和ゴジラシリーズは第一作「ゴジラ」とはだいぶ方向性が変わっていき(1971年の「ゴジラ対へドラ」は少し異なるが、詳しい説明は省略)、1975年の「メカゴジラの逆襲」を最後にゴジラは9年間の眠りにつくことになる。

 そして1984年、9年間の沈黙を破って「ヤツ」が姿をあらわした。

「ゴジラ」
 
 この作品の一番の特徴は、シリーズ第一作以外の物語がなかったことになっていた点であろう。まあ、ゴジラに空を飛ばせたり、怪獣同士で(ふきだしを使って)会話させたりとかなりな無茶をしていたので、そのまま無理やりシリーズを続けるよりは、全部無かったことにしたほうがやりやすかったのだろう。
 この「ゴジラ」も第一作と同じように自衛隊が迎撃するのだか、今回は簡単にやられてしまった以前と違って、自衛隊もそれなりの抵抗を見せる。戦後40年の再軍備の成果だろうか。しかもこの自衛隊は対ゴジラ以外に何の用途があるのか全くわからない「首都防衛兵器」なるも秘密兵器を開発していた。その名も「スーパーX」!・・・・・・なんちゅーネーミングセンスだろうか。しかもこの「スーパーX」には偽波動砲返し見たいなのがついているのだが、実際ゴジラの放射能火炎をはじき返す以外には使いようが無いのである。何故こんな無用の長物しか積んでいないような兵器を作ったのか?まさかどこぞの国がソーラ・レイを実装していて、しかも日本侵略を狙っていると言う設定なのか?開発費は防衛予算枠内におさまるのか?そもそもこんなもん作る余裕があるなら海軍の防衛力強化を優先すべきではないのか?などなど、スーパーXにはさまざまな突っ込みどころがある。だが、この作品の最大の問題、これ以降のゴジラシリーズに影を落とすことになる大きな問題は、ゴジラが原子力発電所を襲って「核燃料を吸収する」という設定である。昭和シリーズでは鯨や牛を襲って食っていたゴジラだが、平成シリーズでは核燃料で動くことになってしまったのだ!「核燃料で動く生物ってなんだよ!わけわかんねーよ!」という声も一部では聞かれたのだが、全く無視されてしまったようだ。それはともかくこの設定のおかげでゴジラは原発とか原子力潜水艦を見ると攻撃を加える義務が生じ、日本近海でソ連の原潜が何隻も行方不明になることになった。その他にも、劇中無意味に自称ゴジラ好きの芸能人が出てくるとかいろいろ問題はあるわけだが、本作品以降「昭和ゴジラシリーズ」とは違う「平成ゴジラシリーズ」が作られることになる。
 ところで、「ゴジラ」が平成ゴジラシリーズの出発点なのだが、制作された1984年は昭和59年であり、まだ平成になっていない。本当の意味での平成ゴジラシリーズは、平成シリーズ第2作目「ゴジラ対ビオランテ」から始まる。
 
 「ゴジラ対ビオランテ」。1989年公開。所謂「VSもの」はここから始まる。そして、シリーズ中一番評価が高いのも、この作品だろう。まず何よりもこの作品のゴジラの造形がかっこいい。メリケンのトカゲの化け物とは大違いなのである。これぞゴジラ。キング・オブ・モンスター万歳!対する「ビオランテ」も、ゴジラに負けないほど凝っている。オール吊りで撮影されたその疾走シーンには、感動すること間違いなし。そしてストーリがまた良い。遺伝子工学による「許されない生」の問題や、遺伝情報をめぐる産業スパイの暗躍などは、当時としては最先端の技術と問題を扱っていたと言っていいだろう(超能力少女とかも出てくるけど・・・)。これはつまり1954年の第一作にあった時事性を取り戻したということでもある。たんなる娯楽映画となっていた昭和シリーズから決別して、娯楽映画でありながらその枠を越えた新たなるゴジラ神話を作り上げるのだ!と、当時は思っていた。しかし、現実にはそうはならなかった・・・。
 ちなみに、「ゴジラ対ビオランテ」の最後にゴジラが水中で苦しみもがくシーンがあるのだが、ゴジラを演じている役者さん(薩摩剣八郎さん)によると、本当に溺れていたそうである。このようにゴジラ映画とは多くの人々が命をかけて制作する共同制作物であり、軽軽に扱ってはならないのである。
 
 「ゴジラ対ビオランテ」の成功のおかげか、その後ゴジラは毎年日本を襲うことになる。1991年「ゴジラ対キングギドラ」、1992年「ゴジラ対モスラ」、1993年「ゴジラ対メカゴジラ」、1994年「ゴジラ対スペースゴジラ」、1995年「ゴジラ対デストロイア」・・・。作るごとに駄作度が高まっていくのはユエハイの気のせいだろうか。
 まず「ゴジラ対キングギドラ」はストーリーがあまりにも現実離れしすぎている。タイムマシンだとか未来人だとかの時代遅れのSF感覚は許すにしても、「ゴジラサウルス」はないだろう、「ゴジラサウルス」は。この「ゴジラサウルス」、名前のごとくゴジラの前身なのだが、第二次世界大戦時に日米間で激戦が行われた南洋諸島のある島(ラゴス島)になぜかたったの一頭だけ生存していて、ラゴス島に駐屯していた日本軍の守備隊を助けてアメリカ軍上陸部隊をぶち殺し、おかえしに艦砲射撃で瀕死の重症を負わされるのだが、これまたなぜか1954年のアメリカのビキニ環礁水爆実験まで生き残っており、実験時に多量の放射能を浴びたことによりこの「ゴジラサウルス」が「ゴジラ」になったという設定。じゃあ平成シリーズでも存在したことになっている、オキシジェンデストロイヤーで殺された1954年のゴジラはどこからきたのか?もうわけわかりません。この作品は伊福部昭氏が劇伴曲に復帰し、音楽、特撮とも素晴らしい出来だったが、ストーリーに破綻が多すぎて作品としては決して成功しているとはいえない。
 この後のシリーズではモスラ、ラドン、メカゴジラなどの懐かしの怪獣が出てくるのだが、ストーリーもまた懐かしの娯楽映画へと帰っていく。ユエハイ的に「ベビーゴジラ」の存在が一番許せない。体長100mを越えるゴジラの子供が何で身長2mほどしかないのか?わけわかんねーよ。「ゴジラ対スペースゴジラ」の「テレパシーでゴジラ操縦」とかいう設定に関しては、語るべきことは何もない。だがそれ以上の「トンデモ設定」が待っているとは、誰が予想しえたであろうか・・・。それは平成シリーズの完結作である「ゴジラ対デストロイヤ」に用意されていた。その設定とは・・・「ゴジラのメルトダウン」・・・・・・。

「ゴジラのメルトダウン」

 ゴジラ、もはや生物ですらないし。
 オキシジェンデストロイヤーによって生み出された怪獣とゴジラの対決という設定は面白いと思うのだが、「メルトダウン」はないだろう、「メルトダウン」は。とにかくメルトダウンを起こしてゴジラは消えるのだが、その爆煙の中に新たなるゴジラの影がうかびあがリ・・・・・・。新シリーズへの伏線が張られているわけである。しかしユエハイの見るところではこの平成シリーズも昭和シリーズと同様、無かったことにしたほうが無難な気がする・・・。
 
 この「ゴジラ対デストロイア」で平成シリーズは完結するのだが、この後1999年に「ゴジラ2000 ミレニアム」、2000年に「ゴジラXメガギラス G消滅作戦」が公開されている。この2作品は昭和シリーズとも、平成シリーズとも無関係で、物語の中では独自の時間軸が成立している。そして今年(2001年)のゴジラもまた、独自の時間軸を持っている。これら3作品はストーリーも異なれば、撮影する監督も異なり、「ゴジラ」であるということ以外には何の共通点もないように見える。だがしかし、この3作品には大きな共通点がある。それはどれもが「自称ゴジラ好き」の監督によって撮影されていること、そしてその娯楽性の強さである。それは昭和シリーズ後期の作品に通じるところがあるかもしれない。なんでもありの無法地帯だ。「G消滅作戦」では「プラズマエネルギー」とか言う某早稲田大学教授が泣いて喜びそうな名前のエネルギーが存在し、これまた何故だかしらないがゴジラはそのエネルギーを狙って暴れるのである。もうほんとうにわけわかんねーよ。
 
 確かにゴジラは空想の産物である。誰がどのような作品を撮ろうともかまわないのかもしれない。
 しかしユエハイは思うのだ。空想と妄想は違う、と。
 1954年のゴジラは、現実に行われている核実験の影響で、もしもゴジラのような巨大生物が生み出されたとしたら、と言う「空想」のもとに制作された。それに対して最近の、特に2000年以降のゴジラはたんなる監督の妄想でしかない。今年のゴジラを撮った金子監督は「ガメラ」の監督もつとめていて、特撮ははじめてではない。以下、12月10日の朝日新聞に載った監督のインタビュー記事を紹介しつつ、言いたい事を言わせてもらう。
もと記事はこれ↓
http://www.asahi.com/culture/movie/K2001121001167.html
 

 ゴジラシリーズ第25作「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」が、15日から全国公開される。平成ガメラシリーズを手がけた金子修介監督が、長年恋いこがれたゴジラにたっぷりと思い入れとアイデアを注ぎ、「とにかく悪くて強くて怖いやつにした」と語る。 

 この部分を読むだけで、今回の作品が金子監督の妄想の産物であることがわかる。そして金子監督の中のゴジラは「悪くて強くて怖いやつ」だったのである。
 
 

 グアム沖に出現、日本に上陸して破壊の限りを尽くすゴジラに、古代の眠りから目覚めた「護国三聖獣」バラゴン、モスラ、ギドラが立ち向かう。 
 
 

>古代の眠りから目覚めた「護国三聖獣」
 
 

「護国三聖獣」!?
 
 

 なんですか、この「護国三聖獣」って?全くついていけません。「ゴジラ対メカゴジラ」で出てきたキング・シサーの焼き直しですか?しかもその「三聖獣」がバラゴン・モスラ・ギドラ??なんでキングギドラが「護国三聖獣」になるんだよ!いくら妄想でも、そんなの絶対ありえないだろう!キングギドラっていうのは宇宙怪獣で、金星を滅ぼして地球も滅ぼそうとしていて、宇宙人と手を組んだり未来人に操られたりして破壊の限りを尽くすまさに「人類の敵」。東宝怪獣映画の悪役と言えばキングギドラ!「悪くて強くて怖いやつ」とは、キングギドラにこそふさわしいのだ!それなのに、それなのに、「護国三聖獣」なんかにしてしまうなんて、キングギドラへの侮辱でしかないとユエハイは考える。
 
 

 「大人になって怪獣映画を見ると、いろいろ突っ込みを入れたくなる変なところがあるけど、最後のバトルになると頭がツーンとして楽しくなってくる。これは自分でも作ってみたい、とずっと思っていた」 

 あんたの作ったゴジラのほうが突っ込みどころ満載だよ!
 
 

 ゴジラの着ぐるみは過去最大の身長2.2メートル。そして白目の凶悪な面構えにした。「相手の怪獣との大きさの違いを強調した。白目は、観客が感情移入しにくいようにするため」 

 白目のゴジラ。はっきり言ってかっこ悪い。「凶悪な面構え」と言うよりはまぬけな面構えだ。それだけ。
 
 

 ゴジラがビルを壊す時は、そこに人がいるショットをはさむ。「ゴジラを徹底的に人間の敵にしたかった。でも、いくら怖くしようとしてもどこか愛敬がある。着ぐるみ怪獣はその不可思議な味、ローテクの肌触りが魅力でもある」 

 「ゴジラを徹底的に人間の敵にしたかった。」だと?それこそ人間の思い上がりだろう。昭和シリーズのゴジラは確かに中途半端な存在だったかもしれないが、「敵」だとか「味方」だとかアホくさいことは言わなかった。ゴジラはただ、ゴジラであった。その活動範囲内に人類が存在することにより、ゴジラと人類の間に利害の衝突が生ずるという理解であった。つまりゴジラは日本を破壊しようという気はさらさらなく、たまたまその通り道に日本があるので、結果的に破壊活動を行うのである。昭和シリーズ、平成シリーズの経験を吸収して模索されるべきは、「人類とゴジラの共存」、これ。でも怪獣ランドは無しの方向で。
 
 

 なぜゴジラは日本にばかり来るのか、なぜ生物なのに普通の兵器では傷もつかないのか、なぜ日本には怪獣がたくさんいるのか。物語では、怪獣映画にまつわる「なぜ」に、金子流解釈で決着をつける。 
 「自分で怪獣図鑑を作っていた子供時代からの疑問。ウソでもいいから納得させてほしいと思っていた。だから、ちゃんとウソをやろうと思った」 

 それこそ大きなお世話である。金子監督の妄想の中で決着がついたとしても、そんな設定が全国一千万(推定)のゴジラファンを満足させることなど、出来はしない。そんな「俺設定」がおもしろいのは自分だけだ。
 
 

 監督がゴジラの相手として構想したヤマトの国を守る聖獣に、東宝側の「スターがほしい」との要望で、モスラやキングギドラを起用することになった。 
 
 

ヤマトの国を守る聖獣!?
  
 

 この人はウヨですか?もしかしてゴジラはどこぞの国のリーサル・ウエポンで、日本侵略を狙ってるんですか?昭和シリーズのゴジラと立場が逆になっただけで基本的な設定は変わらないってか。
 
 

 「ゴジラという歴史あるキャラクターを使えば、いろいろ制約はある。『ガメラ』の時も、リアルさを追求したドラマだったので、カメの姿の怪獣っていうのがつらかったし。でも制約を利用して作るのも面白い。今回は、怪獣の名前に漢字を当てて和風にしようと努力した」。問題はキングギドラの「キング」。 

 だからなんでわざわざ「怪獣の名前に漢字を当てて和風に」しなけりゃならないんだよ!ぜんぜんわけわかんねーよ。ガンダムに「頑駄無」とか当て字をして武者シリーズとか作っておもちゃを売りまくった故事に倣おうというのか?いい加減にしてくれよな、全く。ほんとうに自分の妄想前回で好き放題やりやがって。
 
 

 「劇中でどうキングと呼ばせようか、これには苦労しました」と笑った。

 もっと違うことで苦労してくれよ!てゆーか、そんなことで苦労しているあんたのほうがお笑いだよ(泣)!
 
 

  以上のような理由で、ユエハイは金子監督の撮ったゴジラを見たいと思わないのだ。
 それにしても、世の中本当に面白いものがなくなっていく・・・。それは悲しいことだ。
 だが、嘆いてばかりはいられない。悲しみを怒りに変えて、立ち上がらなければならない。この小文も、そのひとつの表現だと言えば言えよう。全国一千万(推定)の同志よ!立ち上がれ!そして自らのオリジナル・ゴジラを創造するのだ!

ゴジラよ、永遠に!
 
 


 
 
 
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