魯迅の見た風景
魯迅が少年時代をすごしたのは、中国東南部の浙江省にある紹興という町。
水路が町の中を縦横に走り、人々は日常的に船で行き来をしている。
町の近くには古代中国で治水によって天下を治めたと言う伝説のある禹王の陵がある。
禹王が本当にいたのかどうかは定かではないが、戦国時代(紀元前400年頃)から
多くの人々がひとつの社会の中で生活していたことは確かである。
戦国時代、今の紹興には「越」という国があった。
「呉越同舟」などの格言でも有名な、あの越国だ。
今でも、その時代に作られた青銅製の斧や鏡が発見されることもある。
特にその鏡は当時としては一流の工芸品で、「会稽の鏡」(*1)として中国北部や、
海を越えて遠く日本にまでもたらされた。
南北朝時代(400年頃〜)には青磁(焼き物)制作技術が開花し、装飾の美しい青磁器を多く生み出した。
それらの青磁器には制作地の名前を取って「越州窯」の名が冠された。
現在でも、道路工事などで少し深く穴を掘ると当時の青磁器が出てくることがある。
なかには美しい模様が刻されたすばらしいものも有るが、
多くは厚手の、底の深い皿のような
当時の人が日常的に使っていたであろうと思われるものが出てくる。
こういうものはあまり博物館には並ばないのだが、
当時の庶民の生活の息吹が聞こえてくるようで興味深い。
南宋(1127〜)の頃には首都臨安府の副キ(*2)として栄え、
その後も地方都市として発展した。
魯迅が生まれ育ったのは、このように長い歴史を持つ土地だった。
魯迅が幼い頃に見た風景は「故郷」、「村芝居」、あるいは「髪の毛のはなし」などの作品に詳しい。
読者は、そこに水郷・紹興の自然風土を発見することだろう。
そういう紹興の自然風土と共に、歴史風土も少年魯迅に多大な影響を与えたであろう。
後の日本留学期に、同郷の友人と語らって『新生』という雑誌を発刊しようとした魯迅だが、
この企ては失敗する。
その後、文学者として名をなしてからも時の国民党政府からは危険人物としてマークされ、
文壇の中でもさまざまな妨害や裏切り行為にあいながらも、
終にその筆を折ることなく一生を全うした魯迅には
「臥薪嘗胆」(*3)の越人気質が宿っていたのだということはできまいか。
魯迅が日本留学から帰り(1909年)、『新青年』に『狂人日記』を発表するまでの間、
つまり本格的な文芸活動に入るまでには、10年近い歳月が過ぎている。
その間、魯迅は紹興や杭州にあって古書、古代の碑文などの整理をして
日を送っていたという。
魯迅は若い頃から地方史に興味を持ち、土地の言い伝えや昔話などを集めて本にしていた。
日本でも翻訳が出版されている『中国小説史略』なども、その仕事の一部と言えよう。
古文献の収集のほかにも、漢代の画像石(*4)なども収集していた。
『「吶喊」自序』では、古代の碑文などを写してなんの役に立つのかと聞かれ、
「何の役にも立たんさ。」
と答えているが、実はそうではない
と私は思う。
歴史についての考察の深さが、その後の魯迅の文芸活動にも深く影響している
と私は思う。
その意味で、『故事新編』は興味ある仕事であったと考えるが、
これについては稿を新たにして論じたいと思う。
だんだん話がそれてきて、どこが「魯迅の見た風景」なのだかわからなくなってきたが、
要は目に見える自然的風土のほかにも、目に見えない歴史的風土と言うものもあるのではないか、
と言うことである。
最近(2000年現在)の紹興の町の発展はすさまじいものがあり、
メインストリートなどはまったく昔の面影を残していない。
現在、私たちが目にする紹興の風景は魯迅の見たそれと大きく異なっていることだろう。
しかし、一本裏の路地にはまだ水路が走り、昔ながらの生活が残っている。
しかも、先にも書いたが道路工事などで穴を掘っているところにいってみれば、
いまでも古代の青磁を見つけることができる。
目に見えるものは、すぐに移り変わっていってしまうが、
目に見えないものは、そう簡単には変わらないのではなかろうか。
*1:「会稽」とは紹興の古名。画像鏡と呼ばれる銅鏡のほとんどが会稽製だという。
*2:簡単に言えば、首都東京に対する埼玉副都心(?)みたいなもの。
*3:戦国時代、越王句践に敗れた呉王夫差が薪の上に寝て復讐を誓い、
次に夫差に惨敗した句践が苦い肝を嘗めて恨みを忘れずに復讐したという故事が有る。
*4:平たい石の表面に動物や人びとの生活などを浅く彫ったもの。中国の漢代に流行した。
当時の風習などを知る上で貴重な資料となる。