『魯迅選集』


ここに一冊の本がある。

『魯迅選集』



 

 278ページの小さな本で、岩波書店から岩波文庫として出版されたもの。奥付には昭和十年(1935)六月十五日発行、定価四十銭とある。訳者は佐藤春夫と増田渉。
 巻頭に魯迅の肖像を掲げている。口を一文字に結び、真っ直ぐに正面を見ているあの写真である。
 裏面には、

「魯迅先生の肖像は本国でも珍しいものとされてゐる。
政治的迫害の手を遁れるためには肖像が流布しない方が便利だからだと云う。
・・・わが二葉亭の風貌と一味相通ずるものを見るのは
その文学と照応して一奇を覚えるではないか。(原文旧漢字)」

 という佐藤春夫の解説が付されている。

 収録されている作品は、
・孔乙己(小説)
・風波(小説)
・故郷(小説)
・阿Q正伝(小説)
・家鴨の喜劇(小品)
・石鹸(小説)
・高先生(小説)
・孤独者(小説)
・藤野先生(回憶)
・魏晋の時代相と文学(講演)
・上海文芸の一瞥(講演)
 そして末尾に「魯迅伝」が付されている。

 あとがきによると「故郷」と「孤独者」が佐藤春夫の訳で、あとは全て増田渉の訳であるという。収録作品の選択は全て訳者に一任されたようだが、「藤野先生」だけはぜひ入れてくれるよう、魯迅から要請があったという。


 
 巻末の『魯迅伝』は30ページという短いものだが、同時代の魯迅を活写していて、非常に興味深い読み物である。この『魯迅伝』をもとに魯迅が処女作『狂人日記』を発表するまでの足跡を簡単にたどってみよう。

 魯迅は1881年に、浙江省紹興府の読書人の家に生まれた。彼の幼少の頃には広い土地も持っていて、暮し向きは豊かだった。彼の祖父は清朝に使えた翰林学士だったが、彼が13歳のときに収賄事件を起こして牢屋に入れられてしまった。さらに父が病気を患って、その薬代の為に家財はほとんど失われてしまった。
 家にいても食えないため、何とか学資を工面して南京に出て、新党(当時の洋学派)の経営する鉱山学校に入学。ここで勉強するうちに、父を殺した中国の伝統医術は「意識的、或いは無意識的な騙り」であることに気がつき、医者になってそういう「無知」から人々を救おうと考えた。この時中国はまさに外国からの威圧と脅迫とによって滅亡の危機に瀕していた。彼は「科学的知識によって、まず医学と医術とによって」国民精神を啓蒙し、国民的自覚を呼び覚ますべきだ、という「少年らしいロマンチックな人道主義的興奮」を抱いて勉強し、日本へ留学した。
 日本では弘文学院で二年間日本語を勉強し、その後仙台の医学専門学校に移った。そこで有名な「汝悔い改めよ」の手紙事件、そして幻灯事件などが起こった。

「凡そ愚弱な国民は、体格が如何に健全でも、如何に強壮でも、無意味な見せしめの材料と見物人とになるよりほかに能がない。病死するものの多少は必ずしも不幸なものとは言えない。だから我々の第一に為すべき肝要なことは、彼らの精神を改造するにある。而して精神を善く改造するものは何か、私はそのとき当然文芸を推さねばならないと思った。そして文芸運動を提唱しようと考えた」(吶喊序文)(『魯迅伝』より抜粋)

 こうして東京に帰った彼は友人らと語らって雑誌『新生』を出版しようと試みるが、これは失敗に終わる。この頃から彼は清朝を滅ぼそうとする革命党(光復会)の党員であった。

 1909年、7年間の日本留学を追え帰国した彼を待っていたのは彼に頼るより他に方法の無い困窮した「家」であった。帰国して後、生活の為に紹興、杭州などの学校の教職についたが、いずれも思想的対立が理由で一年と同じ場所にとどまれなかった。この間も、彼は革命党員として始終奔走していた。また、精力的にエ書を尋ね、その成果は『會稽郡古書雑集』、『古小説鉤沈』、『唐宋伝奇集』、『小説旧聞鈔』などの形で結実した。
 1911年10月に武昌で革命が起こり(辛亥革命)清朝が倒れた。魯迅の故郷、紹興にも革命党がやってきたがその実態はただの軍閥と変わりなかった。それに不満を持った一部の学生たちが魯迅の名前で新聞を出して、「軍政府とその内部の人を罵り、それから、都督を罵り、都督の親類を罵り、それから同郷人を罵った」。そのせいで都督が魯迅を殺害に来るという噂が流れ、魯迅は南京に逃げた。そこで同郷の先輩蔡元培の引き立てで南京政府の教育部の人となり、まもなく政府は北京に移り、魯迅も政府について北京へ出た。
 清朝を倒し、名目上は共和政体となった「革命政権」だが、現実は軍閥の寄せ集めでしかなく、「北京政府はこれらの軍閥の政権獲得強壮の巣窟」であるに過ぎなかった。しかもそれぞれの軍閥は列強の手先として「互に対立、抗争し、中国における経済的利益の争奪を」事とした。つまり、「辛亥革命は清朝を倒した、だが清朝が崩壊したことは却って列強の中国侵略を以前よりも容易ならしめた」のである。
 この暗い情勢の下、魯迅更に精力的に古籍の収集に励み、碑文や画像石などの拓本の収集も開始した。これは、好きでやっていたことでもあろうが、その一方で「自分の魂に麻酔をかけ、自分を国民の中に沈めて、自分を古代に回帰させるため」でもあったろう。
 
 そうした中、1917年11月にロシア革命が勃発、全世界に衝撃を与えた。中国にも大きな思想的影響を与え、李大サらが中国にはじめてマルクス主義を紹介した。また、この年の1月に胡適がアメリカから『新青年』に寄せた『文学改良雛義』が発端となって文学革命運動がおこった。

「文学革命の旗幟は古文に反対する白話文の宣揚であり、白話文学運動であった。かくて従来民間に甚だしく流行しつつも俗文学として取り上げられなかった白話小説には新しい批判を加え、絶対的価値が付与された。だが最も重要なことは新しい白話小説をの作品創を出することでなければならなかった。」(『魯迅伝』より抜粋)

 このような時代背景の下、1918年4月、魯迅は『新青年』に『狂人日記』を発表した。
 

 『狂人日記』の内容に関する詳しい解説はおがまんさんのホームページに譲る。ただ、その内容が「狂人」の口を借りた中国の「伝統(礼教)」に対する批判であったこと、そして、その最後が「子供を救え・・・。」と結ばれていることは注目すべきであると思う。
 先にも書いたように、1911年の辛亥革命以前には革命のために奔走していた魯迅は、革命が成功したにもかかわらず、急速に堕落していく時期には「自分の魂に麻酔をかけ、自分を国民の中に沈めて、自分を古代に回帰させ」ていたのである。「革命」が「伝統」に喰われていく過程を自分のこととして体験した魯迅が「人食い」の礼教に痛罵を浴びせなければならなかったのは、当然過ぎるほど当然であろう。そして、自分もまたその「人食い」の一味である可能性を否定せず、「人を食ったことの無い子供は、まだいるであろうか。子供をえ・・・。」と結ぶことで、未来への希望を語っているのであると思う。
 ここでよく言われるのは「魯迅は進化論を信じていた」ということであるが、それを否定し得ないにしても、単純に進化論で片付けてしまってもいいものだろうか。辛亥革命からの数年間、「自分を古代に回帰させ」ていた魯迅が「歴史」に対して多大の興味を抱いていたことは間違いない。そして「古いものの中に、新しい時代の萌芽を含んでいる」という歴史発展の法則のようなものを漠然とつかんでいたのではないか、その発展を「進化」という形で理解していたのではないだろうか。というのが私の考えなのだが、これは単なる直感でしかない。
 

 『魯迅選集』の「魯迅伝」は魯迅の生存中にかかれたもので、それだけに当時の時代背景と魯迅の文芸活動との関係がはっきりと表されており、魯迅研究の資料としても大きな価値をもつと思う。もし機会があれば、全文テキスト化して見たいと思うが、今のところその条件が無い。興味のある方は図書館などで探してみてください。
 


 
 
 
 
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