魯迅が集めた漢代画像石 

(画像石って何?という方はグーグルで検索かけてみてください。イヤになるほどヒットします)

 『魯迅日記』によれば、魯迅は1915年から漢代の画像石(の拓本)を収集し始めたそうです。魯迅が人に頼んで集めてもらった画像石の目録も残っていて、目録には山東省済南、曲阜などの画像石の出土地名と共に、拓本に対する要求もかかれていました。それは、
 

一、中国の紙と墨を用いてとる事。
二、金石は一枚の紙で拓本を取り、縁のあるものはあわせてとる事。
三、模様のあるものは字、画にこだわらず、全てとる事。
四、複数面ある場合は職人にどの面であるのかを明記させること。
 

の四項目です。
 ちょっと説明を加えておくと、「二」で「一枚の紙でとる事」とわざわざ断っているのは、画像石には1mを越える大きなものが多く、そういうものは大体ひとつの画面に複数の題材が刻されていて、しかも拓本というのはやってみるとわかりますがかなり重労働であり、ひとつの石に付き一枚、と注意しておかないと各図柄ごとにとってお茶を濁すひとも出てくるかもしれません。そうすると、いったいどの図柄がどこのものなのかわからなくなってしまう為、「一枚の紙でとる事」と注意しておく必要があったのでしょう。
 それから「四」の「複数面」と言うのは、画像石とは、林巳奈夫先生の『石に刻まれた世界』によれば、「死体を納めた棺と供物を納めるために地下に営まれた部屋の内壁の石材」や「古墳の盛り土の麓に作られた地上の祠、墓地の門柱、石碑、石製の棺」のことであり、墓室の内壁などは数枚の画像石を組み合わせて作られており、墓室内部の様子を復元する為にも、画像石のもともとの位置がわかっていないと困るからです。画像石に対する正確な知識をもっていたからこそ、このような注意書きがかけたのでしょう。

 この目録にある画像石には教育部の収蔵品番号がつけられていて、魯迅が教育部の仕事として画像石の収集を行い目録につけていたのだということがわかります。では、ただの仕事として画像石を集めていたのかというと、そうでもないようです。
 魯迅の友人の蔡元培は『魯迅先生の逸事を記す』で、「私は彼が図画に興味を持っているのを知っていた。北平(今の北京)にいたときから漢碑の図案の拓本を集めていた。従来、漢碑を記録した本というのは、文字ばかりを重視して、図案には全く注意を払わなかったが、先生は特にこれを集め、すでに数百種類も収集していた。私たちは何とか印刷できないかと相談したこともあったが、印刷代が高すぎて、結局できなかった。」と書いています。
 魯迅自身も『廈門通信(三)』のなかで「はじめはここに二年くらい住んで、講義をするほかにまえまえから集めていた『漢画像考』と『古小説鉤沈』を出したいと思っていた。」と言っています
 そして、1934年から、病気で亡くなる1936年までの間に、画像石収集依頼の手紙を何本も書いています。魯迅は死の間際まで画像石の本を出そうとしていたのです。しかし、それは終にかないませんでした。魯迅のこの願いは彼の没後50年経った1986年にようやくかなえられることになりました。北京魯迅博物館と上海記念館が共同で『魯迅蔵漢画像』がそれです。1987年には第二巻も出版されました。しかし、この二冊の本は魯迅の収集した画像石を地域ごとに分類して紹介しているのですが、それは魯迅が考えた本の内容と同じではありませんでした。
 1999年に出版された『従魯迅遺物認識魯迅』という本に『漢画像考』の目次と思われる草稿が載っています。それを引用してみましょう。
 

第一篇 闕(けつ)  二巻

第二編 門      一巻

第三編 石室     三巻

第四  食堂     一巻

第五  闕室画像残石 四巻

第七  摩崖     一巻

第八  瓦甓     三巻
 

 これを見てわかるとおり、魯迅は画像石の性質ごとに分類したのでした。
 「闕(けつ)」とは門柱のようなもので、墓の前に立てられていました。
 「門」はそのまんま、門でしょう。お墓の入り口だと思います。
 「石室」とはいわずとしれた墓室のことです。
 「食堂」というのはご飯を食べる食堂ではなく、祭壇のようなところだと考えられています。漢代の墓は、ただ棺を収める場所というだけではありませんでした。ひとつの墓の中に一家族、時には数家族の何世代にも渡っての棺が納められ、生きている人間が祖先を祭る儀式をとり行う場所まで設けられていました。その儀式を行う場所が「食堂」というわけです。現代の墓とはかなり違いますね。でも、いまでもお盆にお墓参りに行ったときなどは親戚の人たちと宴会とまではいかなくとも、一緒にご飯を食べてお酒を飲んだりしますよね。漢代の人々も故人をしのんで親戚一同でご飯を食べていたらしいのです。みんなで食事をとるのも、重要な儀式のひとつだったんですね。だからそういう儀式をとり行う場所を「食堂」といったらしいのですが、もし間違っていたら、ゴメンナサイ。
 「闕室画像残石」は闕や石室の画像石のうち、ばらばらになってしまった物の事のようです。
 「摩崖」は崖面などに刻まれた画像のこと。
 「瓦甓」は、日本語でなんと読むべきかわかりませんでした。(知ってる方がいましたら、教えてください。)意味は軒丸瓦(瓦当)と敷き瓦の事です。

 この本におさめられるはずだった画像石は主に山東省と四川省のもので、他にも甘肅省や江蘇省のものもありました。『魯迅蔵漢画像』によれば、現在ではもとの画像石が失われている物もあるということで、とても貴重な資料になっています。魯迅は1915年から1922年にかけて多くの画像石資料を集め、1926年までには『漢画像考』の草稿を書き上げていたらしいです。しかしその草稿はすでに散逸してしまっていて、現在は50ページほどが残るのみ。しかもページがばらばらになっていて、もとはどのような体裁だったのかはわからないようです。
 1926年に廈門での『漢画像考』の出版をあきらめた後も、魯迅は画像石の収集を続けています。1934年ごろからは、河南省の南陽にある画像石を集中的に集めたりもしていました。何故、魯迅は漢代画像石にこだわったのでしょうか?『吶喊自序』で言っているような「自分の魂を麻痺させる」ため、「自分を古代に回帰させる」ためではなかったことは間違いないでしょう。
  魯迅は画像石に何を見ていたのか。次はこの問題について考えていきたいと思います。


 

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