1区ー28 Rue de la Ferronnerie フェロネリー通り
C'est ici que Ravaillac assassina Henri 4, le vendredi 14 mai 1610.
Afin d'observer, rue Saint-Dinis, les preparatifs de l'entree de la reine Marie de Medicis, couronee a Saint-Denis le dimanche, le roi quitta le Louvre dans son carrosse aux rideaux de cuir releves.  Dans un encombrement cree par l'accrochange de
deux charrettes chargees de foin et de
tonneaux de vin. Ravaillac profita de l'arret de la voiture pour poignarder le souverain. Retrecie par les echoppes adossees au mur du cimetiere des Innocents du cote pair, la rue de la Ferronnerie ne depassait guere 4 metres de large.  Henri 2 avait, en vain, ordonne son elargissement en 1554: sa largeur ne fut portee a onze metres qu'en 1669.
   ここが1610年5月14日、ラベラックがアンリ4世を暗殺した場である。日曜日にサンドニで戴冠したメディチ家のマリー王女を迎える為に、王はルーブルを出、革のカーテンを上げ4輪馬車に乗りサン・ドニ通りを見回っていた。干し草を積んだ馬車と、ワインの樽を積んだ馬車の接触事故の為に通りは交通渋滞となっていた。ラベラックは短剣で突き刺す為にこの機会を大いに利用した。「無実の人の墓」の壁を背にした板張りの小屋に狭まれてフェロネリー通りは4メートルの幅しかなかった。1554年、アンリ2世がむなしくも拡張を試みたこの通りは1669年に漸く11メートルとなったのであった。
   【miwa】アンリ4世大好きのhiromiがここを見つけた時は、ひどく興奮してました。「ここね!ここで彼が殺害されたのね!」と息巻いているので、彼女に代わって冷静な私が報告致します。
   アンリ4世はフランス人にもいまだに人気のある王です。彼の偉業で高名なのは「ナントの勅令」ではないでしょうか。これはプロテスタントの信徒にも信仰の権利を認めたもので、寛容な政策で和平をはかったとされています。(因みにこの時の条約は一般的な内容をもつ本文93条と、53条の秘密条項からなっていると言いますがなんでしょうね?この「秘密条項」って・・・)彼は近代ヨーロッパで最初の個人の信仰の自由を認め、それがフランス国家統一の出発点となってゆくのでした。農民の税の軽減も行い、映画にもなったパリで最初の石橋「ポンヌフ」は彼が作らせたものです。偉大な王であったにも関わらず過激なカトリック教徒に殺害されたというのですから、宗教というものは何時の世も複雑でそして、思った以上に身近なものですね。
   (現在パリのマレ地区にあるフランス歴史博物館には、ナントの勅令の原本が保存されています。)
   5世紀を経た今ではバーやレストランの建ち並ぶ地域となっています。ゲイバーで有名な「バナナカフェ」がすぐ近くにあるので画像を載せてみます。(おまけ↓)