独断場

やはりこの駅のスケールには圧倒される。高いところからコンコースを見下ろすと,利用者がとめどなく行き来する。人の流れのダイナミズムにたまらない魅力を感じる私は何時までもそれを眺めていた。

この京都駅の論点は幾つも発見できるだろう。景観問題は改築が計画された段階から激しい論争を呼んだ。当時、私は京都近郊に住んでいたから、よく知っている。駅の規模は、デザインは京都の町に相応しいのか、という議論もある。
一方、この駅が従来の駅の在り様に対し問いかける問題もある。
ここでは、特に以下の点について考えたい。
T.京都の景観と京都駅


『新しい京都駅は京都の町の姿と相容れない』
建設前から言われたことで今もって言われ続けているかもしれない。私は現在の京都市街において決して不似合いとは思わないし、逆にこのデザインで無ければどのようなものが相応しいのか?と思う(もう少し規模が小さくてもイイかな、とは感じるけど)。まさか、神社仏閣に倣って『古都』ならではの和風建築にせよというわけにもいかないだろう、ホテルやデパート、劇場まで取り込んだ大建築を和風デザインにしたら見れたものではない、きっと。
そもそも京都市街の景観は京都駅が新築される前から既にズタズタだったと私は思っている。それを、今更新しい建物の出現を阻止したところでどうなるものか。まだ計画段階の頃、一年間京都市内の予備校に通い詰た人間が町並みを眺めつづけたことを踏まえての感想である。
もし問題になるとすれば,それは駅舎の巨大さ故に京都市街を南北に分断するイメージを形成してしまった可能性があることではないか。駅舎新築と同時に新設された南北自由通路は、都市の分断を解消させるべく設置されたものだが、果たしてそのイメージを覆すだけの役割を果たしえているか? 確かに改札口を出入りする利用者は駅舎内の中央口より自由通路を経由する人々が圧倒的に多く、駅の混雑緩和には有効に作用しているようであるが。さすがにこのイメージの可否は、実際に普段から利用している方々に聞いてみないとわからない。
U.大階段

『日本の駅前広場は “poor” である』
建築家は度々この種の言葉を口にするようである。京都駅に対しても例外ではない。でも初めてこの種の発言を知ったとき、私は意味がよく判らなかった。京都駅の駅前広場は決して狭く無い。“poor” とは大げさではないか。
しかし、“poor” =広さ の問題ではなかった。
ヨーロッパでは、広場とは本来人間が自由に活動する場であった。町の教会の前にはたいてい広場があり,ここで人々は自由に行動する。自動車などは乗り入れできない場合も多い。つまり、広場の主役はあくまで人間でなくてはならない。
ところが日本の駅前広場はどうか。例えば京都駅の場合、半分はバスターミナルであり、もう半分はタクシー乗り場か駐車場になっている。人間は限られた歩道を歩くことしか出来ない。主役の場であるどころか移動ルートの一部としか捉えられていないわけである。
・・・そうであったか。こんなこと、私は今まで考えたことも無かった。
さて、であるならば駅前広場を人間に開放したい。とはいえ今更広場を広げることなど不可能で、バスやタクシーを排除できるわけも無い。そこで、原氏が考えた解決法が駅舎内部の空間を充実させることであった。
大階段はその「内部空間の充実」を象徴するものである。大階段は人間を主役にした「広場」なのだ。ここで利用者は階段に腰掛け、友達とお話に夢中になるべきである。アイスでもハンバーガーでもパクツクべきである。ここで歌ってもよい、ギターをかき鳴らしたって構わない(はずだが、そこまで管理者たるJRが認めるかどうか、私は知らない)。その姿は設計者はもっとも喜ばせるものに違いない。
広場としての役割を与えるため階段を造る。この発想に私は感嘆する。そして、バリアフリーを持ち出す以前に、駅が人間不在に陥っている場面を持っていることに今更ながら気づかされたのである。