No105
●黄金崎 不老ふ死温泉(青森県)

旧館と新館があり、中間の海岸に噂の露天風呂がありました。
女性専用と、混浴にわかれており、女性専用は高い壁に囲まれていましたが、
この美しい日本海の波を間近に見ての入浴は、そんな不埒な考えがでてこない
くらい気持ちよく、みなさん実におおらかに入っていました。
さほど大きい浴槽ではありませんが、部屋から見て想像するのと実際に入る
のとでは雲泥の差がありました。この旅館の料理も近くに漁港がある関係で
食材が新鮮で非常においしかった。私のお薦め旅館の一つになりました。
金額も新館は12,000〜2,000円刻みで、私は、16,000円を
予約しましたが、食事がおいしかったけれど多すぎてとても食べきれず
もったいなかったです。部屋は和洋の部屋で清潔で大きく良かったですよ。
旧館はこちらの半額ほどで泊まれますので、情緒という点ではこちらの方が
良かったかもしれません。

住所:青森県西津軽郡深浦町大字舮作字下清滝15
電話:0173−74−3500(代)
No106
●鷹の巣(青森県)

 青森県弘前市から暗門の滝に行く途中の西目屋村にある川の対岸に一風
変わった岩が露出しており、次のような解説がありました。
 こんな看板を読んでみるのも、旅のおもしろさですね。
 その岩窟に住みついていた大鷹と村人の物語がまだ起こりそうな
そんな雰囲気の残る大岩でした。

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 いつのころからか岩窟に大鷹がすみつき、旧正月のころ、飛び来たり、春に
ヒナをかえし育てて、秋には何処へともなく飛び去り、それを年々くり返して
いた。この鷹の1つがいは人畜にも農作物にも一度として危害を加えたことも
ないところから、村人は神のように敬い、吉凶を知らせる鳥としてだれ一人弓
をひく者もなかった。何か国内に変事があると、いつでもそれ以前に姿を消す
ので”霊長”とといわれていたのである。
 また、下鷹の巣に巣を作る年は豊作とされ作柄を占う対象ともされていたが、
昭和に入ってその崖ぶちに林道が開通し、人馬の往来が激しくなってから、大
事な巣を捨てて何処かへ飛び去り、二度とその姿を見ることができなくなった。
村民の失望は限りなかったという。 西目屋村誌より
No107
●三ツ石神社(岩手県)

 岩手県盛岡市内に小さな神社ですが、興味深いところがありました。
 岩手県の名前の由来となったところが、こんな所にあったとは!
 事前の調べもしなくて立ち寄っただけだったのですが思わぬ収穫でした。

 以下その興味を誘った、現地の看板をご覧ください。
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三ツ石神社の由来
「岩手」の呼び名について大和物語りによれば「平城天皇」の御代に
みちのくの国から鷹が献上され帝はこれを岩手と名づけた」とある。
 俗説では「三ツ石と鬼の手形」の物語りが岩手の地名や不来方(こずかた)
の起源や地名であるといわれている。伝説によればむかしこの地方に羅刹
という鬼が住んでいて、付近の住民をなやまし旅人をおどしていた。
 そこで人々は三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕らえてもらい境内にある
巨大な三ツ石に縛りつけた。鬼は二度と悪事はしない、また二度とこの地方
にはやってこないことを誓ったので約束のしるしとして三ツ石に手形を押さ
せて逃がしてうやり、それからこの手形のあとには苔が生えないといわ
れている。
 しかし、長い年月がたっているので、今ははっきりしません。
この岩に手形を押したことが「岩手」の県名の起源だといわれる。また、
鬼が再び来ないことを誓ったことからこの地方を「不来方」と呼ぶように
なったと伝えられている。
 鬼の退散を喜んだ住民達は、幾日も幾日も踊り神さまに感謝のまごころを
捧げた。
 この踊りが名物「さんさ踊り」の起源だといわれている。
 「さんさ踊り」の名まえは「さしあげ踊り」つまり、お供え物をして
踊るというのが短くなったとか三十三も踊りの種類があるので「さんさ」
というのだとかいろいろの説がある。三ツ石はもと1個の大きな岩で
あったのである。
(以下省略)     三ツ石神社奉賛会
No108
●弘前城北門(青森県)

 観光に行くとちおついお城の天守閣に目がいって、周辺の文化財を素通り
していまいがちですが、ここも是非ゆっくり隅々まで見てみたいものです。

以下北門の説明看板を書き写して来ましたので、読んで見てください。
いつか行く日に違った目で見ることが出来るのではないでしょうか?

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重要文化財 北門(亀甲門)
移築年代  慶長16年(1611) 2代藩主津軽信枚
指定年月日 昭和12年7月29日
棟   高 12.7m

 弘前城には、現在5棟の城門が残されているが、この北門は、これらの
中でも特に規模が大きく、また形状も異なり、最古の形式を呈する城門である。
 北門は、もと大光寺城(現在の南津軽郡平賀町)の城門を慶長16年
2代藩主津軽信枚が築城にあたり弘前城追手門として移築再建したもので
昭和33年の保存修理に当たって、柱などから多数の矢傷跡が発見されている。
 弘前城は、築城以来実戦の経験がないため、この北門が城郭内で唯一の
実戦の痕跡をとどめる貴重な城門である。
 また、棟の両端にある鯱も他の門のものより古い形式のものである点、
矢狭間、鉄砲狭間のない点など見るべきところが多い門である。
                           弘前市
No109
●最勝院五重塔(青森県)

 弘前城の南方500mほどでしょうか?最勝院があります。
 ここの五重塔は、東北随一との評判で、均整のとれた五重で、色も鮮やか
で、じっくりと見たいです。
 と言いながら、私は、近くのうちわ餅をそこで食べてました。
 では、私の感想よりも、看板の縁起を読んでいただけるとその価値が
十分に分かっていただけるのではないでしょうか?
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重要文化財
最勝院五重塔1基 明治41年4月23日指定
 縁起によれば、藩祖津軽為信による津軽統一の●に戦死した敵味方を
供養するため三代藩主信●が明暦2年(1656)に着工したが中断、
寛文5年(1665)4代信政により再開され、7年に完成したといわ
れる。平成4年から6年の全面解体で寛文4年の銘が初重の部材で発見
、このころの建設開始と推定されている。また、当初の露盤や伏鉢など
の相輪部分は、鋳物師として有名な渡辺近江大掾源正次の作と伝えられ
ている。
 塔の総高は、31.2メートルを測り、総高に対して相輪部分が長く、
さらに5番目の柱間が初重の釣半分となっているなど、均整のとれた
美しい姿として有名である。また、塔の心柱は継ぎ目のない一本の杉材
であり、二重目で止まるほか、組物に和様三手先を置き、初重のカエル股
に12支の文字が書かれ、各層の窓の形が異なるなど細部にわたり優れた
意匠の建造物である。
 管理者 最勝院 弘前市教育委員会

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●は写真写りが不鮮明で分からなかったところです。すみません。