



八重洲口から降りて始点の日本橋橋詰まで歩く。日曜日でオフィス街は人通りが少ない。10日ほど経って新聞に以下のような記事を見つけた アーティストの日比野克彦さんがデザイン。100年に一度現れる日本橋の精霊、との設定で、地元町内会や商店会が主催する世紀越えイベントのシンボルになる。 緑の巨像には地域の悲願も込められた。日本橋の上を走る首都高速道路の地下化だ。企画を演出するマーケティングコンサルタント、西川りゅうじんさんが書いた物語の中で、「HONBA」は「日本橋の上に巨大な黒いヘビが覆いかぶさって空が無くなってしまった」と嘆き、「100年後に戻ってくる時には、きっと橋の上に空があるよね」と望みを託している。 |
![]() |
軽く腹を満たして歩きはじめる。10時20分、京橋に至る。明治8年建造の親柱(写真右)とその向かい側には「江戸歌舞伎発祥の地碑」(写真左)がある。
いよいよ銀座に入る。ザックを背負って行く “銀ぶら” も昨今の東海道ウォークブームで珍しいものではなく、恥ずかしさはない。銀座1丁目、2丁目と数え、銀座2丁目の歩道の植え込みの中に「銀座発祥の地碑」(写真左)がある。
10時40分、銀座も尽きる8丁目の郵便局前に柳の木を見つける。「銀座の柳二世」と立て札が立っていた(案内書では三代目だというが)。関東大震災前の銀座には柳の並木が植わっていて、煉瓦造りの町並みに良く似合っていたという。残念ながら大震災後に切られてしまった。三代目の銀座の柳の前に、昭和四年銀座の柳並木を懐かしんで創られた「銀座の柳」の歌碑があった。碑には、西条八十作、中山晋平曲の「銀座の柳」として、音符付きで「植えてうれしい銀座の柳 江戸の名残りのうすみどり 吹けよ春風紅傘日傘 けふもくるくる人通り」と刻まれていた。
旧新橋・汐留駅跡を左手に遠望し、1kmほど進んで、旧東海道の道筋からそれて右折し、増上寺大門をくぐって増上寺に向かう。
本堂の左を通って東京タワーに向かう。三解脱門に大きく結婚式の看板が出ていて、仏前の結婚式には参列したことがないと話しながらきたが、本堂下のガラス越しに結婚式の待合室の風景が見えた。
来た道を戻り、正午を過ぎて、12時3分、本堂裏手の徳川将軍墓所(写真右)に寄る。「鋳抜門」(写真右)というから鋳物製の門であろうか、10個の葵の紋と左右の昇り龍、降り龍が鋳出された門に閉ざされて、墓所の様子はうかがいしれなかった。
13時10分、東海道からそれて右折、泉岳寺(写真左)に道草する。泉岳寺といえば赤穂浪士の四十七士のお墓があることで有名である。黒い山門の右手に大石内蔵助良雄の銅像が立っている。前回道草したときは静かなお寺だと思ったが、今日は参拝者が妙に多い。12月は吉良邸への討ち入りの日を14日にひかえているから、すでにそのモードに切り替わっているのであろう。自分の故郷は内蔵助の妻 “りく” の出身地で、14日の夜には各家庭で “討ち入り蕎麦” を食べる慣わしがあった。
すでに14時近くになった。遅くなったが、品川駅構内に立ち寄り、カレーライスを食べる。14時28分、産業道路から分かれて八ツ山橋を渡る。前回歩いた時は八ツ山橋を渡ったすぐのところから、「八ツ山コミュニティー道路」として東海道五十三次をイメージした歩道沿いの小公園が整備されていた。たしか桜が咲いていたように記憶する。しかし、現在道路工事中で公園そのものがなくなっていた。
14時45分、聖蹟公園(品川本陣跡)に至る。間口は狭いが奥に進むと大きく膨らんで、本陣のあった全体が公園となり、児童遊具や木立やベンチなどが設備されている。聖蹟公園と呼ばれるのは明治天皇行幸時に行在所となったためだが、旧東海道には各地に明治天皇の足跡が残っている。
東海道の橋らしく、今風に架け替えられた品川橋。橋で出会って立ち話をしていたおばさんが上り下りに別れて立ち去ったあと、欄干に留まったカモメが3羽残された。強いて江戸時代の名残を探すなら、このカモメだけかもしれない。かっては海はすぐそばだったというから、往時は今とは比べ物にならないくらいたくさんの海鳥が見られたであろう。
| 東禅寺 | 台東区東浅草二丁目 |
| 太宗寺 | 新宿区新宿二丁目 |
| 真性寺 | 豊島区巣鴨三丁目 |
| 霊巌寺 | 江東区白川一丁目 |
| 永代寺 | 江東区・・・・・消滅 |




![]() |

![]() |
このページに関するご意見・ご感想は: |