



9時40分、乗り換えた普通電車で鮫洲駅に降りた。駅のそばに自動車免許の試験場があるのであろう、いきなり駅頭で免許写真撮影の執拗な呼び込みにあい、面食らってしまった。ザックを背負っている我々に、自動車免許でもあるまいにと思う。駅からまっすぐ進むと、旧東海道との四つ角に、案内書にあった「網元の家」(写真左)があった。寄せ棟平屋の、一昔前ならどこにでもあったありふれた家であった。昔のヨーロッパ旅行の記録を探したところ、次のように記録していた。 午後はサンマルコ広場界隈の観光に徒歩で出かける。広場を横切り最初に長年ヴェニスの政治の中心であったドゥカーレ宮に入る。(中略) 大広間の隅から小さな『涙橋』とか『嘆き橋』とか呼ばれる、人一人通れるトンネルのようになった橋を渡り、昔の牢獄にも入る。その当時は行く人はあっても戻って来る人はなかったと言われる橋である。 |
広い第一京浜国道に合流して、国道の向こうの西側に渡る。寒さ対策をしてきたのに、この暖かさはどうしたことか。歩くと汗ばむほどである。並走する京浜急行の大森海岸駅の先にある小さな森が磐井神社である。10時32分、磐井神社に着く。境内前の歩道上の、車道と分ける植え込みの中に井戸があった。磐井の井戸(左写真)である。
今日は東京国際マラソンがある。第一京浜国道はそのコースになっており、係員が随所に見られ、給水所の準備も始まっていた。第一京浜国道から、旧東海道の美原通りにそれる角に、テレビ局各社がやぐらを組んでカメラの砲列を連ねていた。第一京浜国道から平和島に曲がる辺りを狙おうというのだろう。逆にカメラを向けてみた。(左写真)

女房が社務所で御朱印をもらっている間に境内を歩き回る。六郷神社の創建に深くかかわった「旗懸之杉」は、元は社殿の左側に立っていた。現在、その跡に「御神木旗懸之杉旧趾」の石碑が立っている。そして、「旗懸之杉」の根株が正面から境内に入ったすぐ左手に、鉄板の陣笠を被せて保存されていた。(右写真) 他にも境内には木造の旧六郷橋の橋柱、頼朝が奉献した手水石、梶原景時が寄進した太鼓橋などが点在していた。中でも、江戸時代に六郷中町の有志が奉納した一対の狛犬は沖縄のシーザーを見るような素朴なおかしみがあった。(右下写真) 多分、シーザーと狛犬はルーツが共通しているのだろう。
多摩川の河川敷には土手よりにテニスコートなどのスポーツ施設があり、一本の小道を境に、川側の草地には青いシートのホームレスの小屋が数軒のあった。それぞれが隣と干渉しないように距離をとって、家々にはよく踏み固められた小道がついている。洪水時さえ考えなければ、意外と優雅な小屋かもしれないと思った。
京浜急行八丁畷駅のすぐ手前の道路右側、京急の線路との間に芭蕉の句碑がある。(左写真) 「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」の句碑は小屋の中にあった。回りの空き地に「日進町芭蕉の碑保存会」の手で、句ゆかりの大麦の苗が植えられていた。春の日差しの下、高さ10数センチの緑の葉群を連ねていた。嬉しい心遣いである。

アーチ式の鶴見川橋を渡ると、左側に「鶴見橋関門旧跡」の石碑があった。生麦事件に驚いて川崎宿から保土ヶ谷宿の間に、20ヶ所以上の関門や番所を設けた幕府の慌てぶりがうかがえて興味深い。
鶴見神社へ立ち寄る。陸橋を渡るとき神社裏手に岩を積み上げた「小富士塚」が見えた。正面にまわって本殿脇を通り、「小富士塚」を見学しようと思ったが、柵があり、南京錠がかかっていて入れなかった。かっては自由に出入りが出来たはずなのに、参拝客をシャットアウトしている施設を見ることが多い。理由は色々あるのだろうが、宗教施設としては悲しい事実である。仕方なく参拝して帰ろうとして、社殿前の狛犬を載せた黒い岩の石組みが「小富士塚」と同じ材料で作られているような気がした。(左写真)



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