



一山の 桜吹雪ける 音なりけり 谷越えて までも我へと 花吹雪 落花止まず 将几のお茶にも おでんにも 追い掛けて 我が肩に散る 夕桜 蓑虫 |
今日は街道筋は桜が満開だろうと話しながら、前三回と同じ電車に乗る。8時57分、保土ヶ谷駅着。駅前ビル内の “Cafe de Crie” のモーニングサービスで朝食を摂り、9時27分、東海道歩きに入る。
前回の終りに、保土ヶ谷駅を通り過ぎ、帷子町商店街を進んで、「御所台の井戸」に道草しておいた。今日は勝手を知った帷子町商店街を歩く。左角に「金沢道道標」を見る交差点までが前回足を伸ばしたところである。その先、JR東海道線の踏み切りを渡り、広い国道1号線に突き当たる。国道1号線の横断歩道を渡った向い側に保土ヶ谷宿の苅部本陣跡(左写真)があった。
外川神社の先で旧東海道は国道一号線から右手に分かれ、街道の面影は何も無いまっすぐの道を700メートルほど進んだ。日差しは強くないのだが暑い。女房は今こんなに暑くては真夏にはとても歩けないという。広い道に突き当たり左折、100メートルほど進んで、最初の細い道を右折する。いきなり始まる坂道が有名な権太坂である。
1キロメートルほど行くと、東海道は境木中学校に突き当たって右折する。我々は「投込塚」に寄り道しようと左折する。そこで “外川神社の若者” とすれ違う。彼もまた「投込塚」に寄ったのであろう。探すまでも無く「投込塚」(右写真)は道路左手にあった。四坪ほどの敷地に「投込塚之跡」の石碑を中心に墓石、石仏、石地蔵、卒塔婆などが並んでいた。
旧東海道に戻り、境木中学校に並ぶ境木小学校の敷地の外れた先、右側に大きな屋敷が見える。黒板塀に囲まれた若林家(右写真)である。かっては立場として、名物の牡丹餅を売って賑わいを見せた峠の茶屋であった。今も子孫が住んでいるのであろう、家から出てきた娘さんが人待ち顔にたたずんでいた。
若林家の左隣が境木地蔵である。10時45分、境木地蔵の境内に上がる。「すごい!」 境内を覆った満開の桜から、花びらが黒土の境内を白くするほどに散り敷いて、一年で今日限りの絶景である。(右下写真) これを蓑虫氏なら何と表現するのであろうか。もっとも絶景は好みでないかもしれない。
11時、住宅地の中の「品濃一里塚」に着く。珍しく両側に迫った小山に一里塚が残っている。この辺りの東海道は品濃村と平戸村の村境を通っている。この一里塚も西側が品濃村、東側が平戸村に入っている。西の塚は上に登れて一里塚公園(右写真)になっている。
東海道は住宅地の中を小さくカーブしながら下って行き、最後に大きく下って歩道橋で環状2号線を渡って降りる。この下り坂を「品濃坂」(左写真歩道橋)と呼ぶ。
坂下のバス停の先で東海道は小さな川沿いの道となった。対岸に植えられた桜並木がこちら側へ手の触れそうなところまで枝を述べて、今満開(右写真)である。それが延々と続いた。水量の少ない水面に花びらが列になって流れている。その水面に番いのコガモが流れに逆らって浮いていた。散る花びらを手のひらに受けるのは意外と難しい。夫婦でそんな遊びをしながら歩く。
12時17分、歩きを再開。まもなく、不動坂の手前で、国道から右へ逸れる小道を50メートルほど入った右手に、赤い屋根のお堂があった。このお堂の回りには近在の大山道の道標が集められている(右下写真)。
国道は不動坂で3本に別れる。左側の1段高い旧東海道、真中の旧国道1号線、右側の国道1号線バイパスである。数本の満開の桜に導かれるように左側の旧東海道を進んだ。旧道は300メートルで川に突き当たり、右折して再び旧国道に出た。旧国道を400メートルほど南下した右側のファミリーレストランの前に「江戸方見付跡」の石碑(左写真)があった。ここが戸塚宿の東の入口である。
吉田大橋を渡って藤沢の中心街に入ってきた。左に藤沢駅のホームがすぐそばに見える踏切を渡り、100メートル行った右側の横丁を入り、コンクリートの坂道を登り、13時12分、清源院長林寺にいたる。境内の右手には芭蕉句碑(右写真)がある。栗といふ文字は西の木と書きて西方浄土に便りありと、行基菩薩の、一生、杖にも柱にもこの木を用ひ給ふとかやの前書のあと、世の人の見付けぬ花や軒の栗という句が石碑に刻まれていた。世の中を避けてひっそりと暮らす主の奥ゆかしさを軒端の栗の花に託して詠んだ挨拶句だという。境内左手には「心中句碑」がぽつんとあった。井にうかふ番いの果や秋の蝶 井戸に飛び込んで果てた若い心中者を詠んだ句で、御法度の心中を呼んだ句碑は珍しいという。

富塚神社から200メートル進んだ左側に、小さな松が植えられたスペースに「上方見付跡」の標柱がある。(左写真) 「江戸方見付跡」と対になって、ここが戸塚宿の西の入口である。
この辺りは往時は山の中で昼なお暗いさびしいところであったという。行っても戻っても次の宿場には遠い山の中である。今はその面影もないが、左側歩道の脇に石柵で囲われた「お軽勘平、戸塚山中道行の場の石碑」があった。
一里塚跡の向かい側に浅間神社の小山がある。渡りたいけれども広い国道1号線が阻む。それで100メートルほど進んだ信号を渡り、参道を登った。参道にはシイの古木が数本並んでいた。(左写真) 長い道のりを歩いてきて、木陰でゆっくり休もうと思い、女房と石段に座ってお茶をリュックから出した。しかし、お茶は一口しか残っていなかった。地図を見て今日のゴールは遊行寺とし、藤沢駅から電車に乗ろうと話し、お茶を求めて歩き始めた。
浅間神社から出て、コンビニで冷たいお茶を購入し、喉を潤して、さてもう一がんばりと歩き始める。国道の歩道を1キロメートルほど歩き、松並木の中央緑地帯のある国道を横切って左側に出る。まもなく石柵に囲まれた「道祖神」や「馬頭観世音」(右写真)があった。いまや顧みる人もいないのだろう、見捨てられたように感じたのは感情移入のし過ぎであろうか。
道は国道から左へ逸れていよいよゴールの遊行寺へ1.5キロメートル余り、断続的に左右の歩道に並木が続く道を進む。途中で女房が満開の桜の木の下の立て札を見つけた。道路改修時に切られるところを移植されて残された桜(左写真)である。運動しそれに答えた人たちの気持がうれしい。
向かい側に石碑を見つけて、信号を渡り少し戻って行ってみると「旧東海道松並木跡」の石碑(右写真)であった。どの松並木も多くの松が枯れている。枯れた跡には別種の木を植えてしまわないで、品種改良で公害と松食い虫に強い松を作って松の木を補植してほしいと思う。松は割合枯れやすい木だと思う。立派に残っている松並木も太さはまちまちで、昔から枯れては補植し、また枯れるという繰り返しで現在の松並木が残っているのだと思う。
遊行寺に近づくとバンドの演奏が聞こえてくる。何事かと脇より境内に入るとお寺には似合わない風体の若者たちが集まり、本堂前で “どんと院祭り” と銘うったロックコンサートが行われていた。“どんと院(呑音院)”とは滞在先のハワイ島で脳内出血で37才という若さで急逝したミュージシャンの法名だという。遊行寺は踊り念仏の一遍上人の開いた時宗(じしゅう)の総本山で正式名を清浄光寺という。往時の踊り念仏は現代のロックバンドの比ではないインパクトがあっただろうから、お寺とロックバンドは決して違和感のあるものではないのかもしれない。
境内の中央にイチョウの巨木がある。いつもは静かな周囲を、今日は異形な若者たちに囲まれて、大イチョウが何やら落ち着かなく見えるのは気の所為であろうか。
左手の庭園の奥に寺務所があり、朱印を貰うべく案内を乞う。ところが案内を乞う前に若い修行僧が出てきて、玄関口に膝を突き合掌して挨拶をされた。こんな丁寧な対応を受けるのは初めてである。今の言葉で言えばマニュアルになっているのかもしれないが、大変気持がいい。朱印が出来る間にそばの放生の池を散策する。枝垂桜が満開であった。(右写真)



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