



街道右側に本陣跡の石柱が二ヶ所続いて立っていた。一つはNTT前の小島本陣跡、もう一つは中南信金前の尾上本陣跡である。
右側に「杵新」という和菓子屋さんの古い店構えを見た後、左側の角に「大磯照ヶ崎海水浴場」の石柱碑があった。大磯は明治に鉄道が通じてから、明治の元勲や経済人たちの別荘が出来、避暑地として大変繁栄した。大磯の海水浴場はその時代からあって、日本で最初の海水浴場として賑ってきた。その先の道路に挟まれた緑地に「新島襄先生終焉之地」の碑があった。(右写真) 新島襄といえば同志社大学の創始者として理解していたが、大学になるのを見届けずになくなっていたのは初めて知った。
街道には、続いて、左側の緑地に「湘南発祥の地大磯の由来」の碑が建っていた。「湘南」名のナンバープレートが大変人気があると聞いたことがあるが、案内板によると、その人気の「湘南」が実は中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側の呼称で、大磯がその湘南に似ているところから呼ばれるようになったという。
「鴫立庵」の小さな門を潜ると、右側に藁屋根のこじんまりした庵があった。土間に入って入場料100円を払いパンフレットをもらう。庵を右回りに巻くように、それほど広くない庭を散策した。
街道に戻り先へ少し進んだ右側に、「島崎藤村邸」の標識に導かれて、狭い路地を奥へ進む。左へ右へ進むと、小公園の前に「島崎藤村邸」の看板があった。「どれが藤村邸なの」ときょろきょろしていると、公園前にいたお婆さんが、「看板がわかり難いのよねえ‥‥‥‥役場の係りに言ってやらないと」という。島崎藤村邸は公園のすぐ眼の前の竹垣に囲まれた平屋の木造家屋であった。(左写真)
旧島崎藤村邸から街道に戻って、その少し先から「大磯の松並木」が始まる。国道1号線は上り下りが分離帯を挟んで分かれ、下り側の路側と中央分離帯に、下り車線を挟んで松並木が続いている。この数百メートルほどの区間は松並木の太さと高さが揃っていて、今まで見たどの街道松並木よりも立派に見えた。樹種はクロマツ、最も太いもので胸高幹廻りが4m以上はありそうに見えた。高さも25mから30mはあろう。この「大磯の松並木」を大磯宿の巨木としよう。
10時30分、「大磯の松並木」の途中、左側に「伊藤公滄浪閣之舊蹟」の石碑があった。(左写真)「伊藤公」とは昔の千円札、夏目漱石の前の千円札の図柄のひげの人物で、明治の元勲、初代総理大臣の伊藤博文公のことである。左写真のバックに見えるのは大磯プリンスホテル別館「滄浪閣」の建物で現在中国料理レストランになっているが、その一部に博文邸当時のハイカラな建物も残っているという。
滄浪閣からすぐのところに道祖神を見つけた。(右写真) この後、街道には次々と道祖神が見つかった。道祖神のそばには決まって、石造りの球体や立方体や屋根型の、五輪の塔のパーツが集められ、祀られている。かっては道中で行き倒れた旅人の供養塔や墓として、街道の路傍に五輪の塔を祀った。その五輪の塔やそのパーツが度々の道路改修に行き場を失って、そういう場所に集められたものと思う。
和服を着て袴をつけた立ち姿で、右手でステッキを付き、左手には人差し指に太い葉巻が挟まれている。イメージ通りの吉田茂像である。
途中で国道1号線と並行して進む。分離帯に松並木の松も残っている。分離帯の向う側に先ほどの “鴫立庵の熟年夫婦” が歩く姿を見た。「吉田茂像」を見た後、そのまま国道1号線を歩いてきたのだろう。戻った分追いつかれてしまった。その分離帯に二ヶ所、また道祖神があった。(右写真) 自然石に「道祖神」と刻んだだけのもの、双体の道祖神、地神社の標石、そして五輪の塔のパーツの数々。
大磯町から二宮町に入り、葛川に架かる塩海橋を渡り、二宮交差点の陸橋を渡る。たむろする高校生の姿が多くなり、二宮駅も近いようだ。そして二宮駅の道路標識に従って右折し、200mほど進んで、12時20分、こじんまりした駅前広場に出た。中央緑地のクスノキのそばに「ガラスのうさぎ」の少女像があった。(左写真)防空頭巾にもんぺ姿の少女は手に「ガラスのうさぎ」をもち、前方に伸び上がるような立姿であった。過去の言い尽くせない不幸を感じさせない、少女の未来に対する積極的な姿勢が見えて気持ちの良い像である。
旧東海道に戻って、750mほど西へ進むと、旧東海道は再び国道1号線と右手に分かれて進むが、その分岐点にある吾妻神社の入口に神社名を刻んだ板碑と石の鳥居があった。(右写真) 鳥居の背後に見える緑が吾妻山で相模湾の眺望がすばらしいという。しかし今日は寄り道は止めよう。
国道1号線から分かれて旧東海道を300mほど進むと、右手に一段高く、藤の名所の梅澤山(藤巻寺)等覚院があった。境内に上がると左手に樹齢400年の藤としては割合こじんまりとした藤棚があった。(左写真)
国道1号線に再合流する角の火の見櫓の基に、また道祖神が集められていた。(右写真) 双体の道祖神が三つも並んでいる。
国道1号線を500mほど進むと旧東海道は左へ分かれていく。その角に「史蹟 東海道一里塚の跡」の石柱が立っていた。「江戸より十八里」と刻んであった。(左写真) 実は写真の石柱の背後の壁には赤いラッカースプレーで汚く落書きがされていた。それを画像処理で目立たなく消してみた。便利なものである。
道は緩やかな下り坂になって、左手に海(相模湾)が見えてきた。向かい風に帽子が飛ばされないか気になる。海には白い波が全面に細かくたっている。13時30分、右手の草の斜面に「車坂」の木柱を見つけた。
「車坂」案内板から少し進んだ山側の角をまわったところに、「従是大山道」の不動明王像を頂いた道標を先頭に、秋葉山の灯篭、地の神様の祠と、前へ習えをするように一列に並んでいるのが面白い。(左写真)街道で秋葉灯篭を見るのは初めてのように思う。静岡県では道祖神よりも秋葉灯篭の方が目立つのだが。
大山道道標を見てほどなく、右側歩道の人家の前に道祖神を見つけた。(右写真) 古い双体の道祖神と「交通安全」「家内安全」と書かれた現代の道祖神が並んでいるのが面白い。
小八幡の一里塚について、天保年中の相模国風土記稿に「東海道中の東にあり、左右相対せり、高二間、舗六七間、塚上に松樹あり上は小田原宿入口一里塚、下は淘綾郡山西村小名梅沢の一里塚に続けり」とある。
国道右側、林病院前に広い敷地を黒塀で囲んだ、立派な門構えの旧川辺本陣がある。(左写真) 現在は社会福祉法人に寄付され使用されている。中を覗いてみると、江戸時代のお城の御殿のような造りであった。
15時、酒匂川に架かる酒匂橋を帽子を飛ばされないように押さえて渡る。橋柱のそばに酒匂川の徒歩(かち)渡りの様子を描いた銅版がはめ込まれていた。(右写真) 江戸初期には渡し舟があったというが、後に徒歩渡りとなった。ただ冬場だけは仮橋を架けることを許されたという。
地図で確認した結果、やはり戻った道が旧東海道であった。かなりダメージの来た足を引きずりながら進む。八幡神社の参道に沿った大木の森を右に見て、左へカーブし、旧東海道は国道1号線を横切って南側に出る。地図によると「新田義貞の首塚」がこの裏側にあるはずである。標識や路地がないか、探しながら進むが、見出せないまま国道1号線との合流点まで出てしまう。これでは行き過ぎだと戻ろうとすると、自動車整備工場脇の人一人やっと通れる小道から女性が出てきた。路地を抜けてきたといった雰囲気が感じられたので、「この路地は抜けられそうだ」と女房を促し小道を進むと、車の入れる幅のある裏の道へ出た。しかしそこにも案内標識一つない。庭先で剪定作業する女性に、女房に聞きに行かせる。
15時50分、山王川に架かる山王橋を渡り、すぐ右側の山王神社に着く。説明板にあった「星月夜ノ井戸」は境内左手にあり、そばに林羅山の詩碑もあった。(右写真) しかしながら、小さい井戸の水面に月や星を映して楽しむ風雅を、日本人は何時から忘れたのであろうか。
山王神社の向かい側に渡り、「蛙石」なる珍石があるとかで北条稲荷を探す。左へ横道に逸れて探したところ、赤い鳥居が目印でほどなく見つかった。境内右端に「史跡 北条稲荷 蛙石」の看板の基に変哲もない石があった。言われてみれば蛙に似ていないこともない。その背中に小さい焼き物の蛙が一匹乗っているのがユーモラスであった。
旧東海道に戻ってすぐに歩道橋がある。14時16分、歩道橋を渡って右側に渡ろうと登った踊り場でふと下を見ると空き地に碑が立っていた。「江戸口見付並一里塚址」の碑であった。
一筋海側に付いた旧東海道を進む。辺りは蒲鉾屋さんが多く、今も、マイクロバスが一軒の蒲鉾屋さんに見学客らしい人たちを降ろしていた。
古清水旅館の隣に本陣の清水金左衛門宅跡があり、明治天皇が何度か宿泊されている。その跡地に「明治天皇小田原行在所趾」の石碑が立ち、緑地として整備されている。(右写真の右側)
16時55分、箱根口交差点で、今日の歩きを終る。角を右折して真っ直ぐ小田原城へ向かう。城へ入る門が箱根口御門である。(右写真)




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