



♪ 箱根の山は天下の険 凾谷関も物ならず 萬丈の山 千仭の谷 前に聳え 後(しりえ)にさヽふ 雲は山をめぐり 霧は谷をとざす 晝猶闇き 杉の並木 羊腸の小径は 苔滑か 一夫関(かん)に當るや 萬夫(ばんぷ)も開くなし 天下に旅する剛毅の武士 大刀(だいとう)腰に 足駄がけ 八里の岩ね 踏み鳴す 斯くこそありしか 往時の武士(もののふ) 作詞者 鳥居 忱 作曲者 滝 廉太郎 |
駅から小田原城は通らずに最短距離で東海道に出ようと進む。途中、小田原城の「幸田門趾紀念碑」を見つけた。(左写真) ここから大木の並び生える三の丸土塁上の小道を通り抜けて、広い道(国道)に出られた。途中、小田原城の石垣の一部も見られた。
しばらくは前回の終わりに歩いた広い道(国道1号線)である。前回、薬屋さん(調剤薬舗小西本店)の古い寄せ棟造りの建物を写真に撮ったが、上手に撮れなかったので道路の向かい側から撮り直した。(右写真)
案内地図に、近くに「早川口遺構」があるという記載があったので、箱根登山鉄道とJR東海道線のガードを潜り戻って探した。線路に沿って南へ進み、標識に沿って早川口遺構に至った。(右写真) 辺りは住宅地の中に残った起伏のある緑地である。南西の縁は道路との区切りに石垣が残っている。東の江戸口と同様、この早川口も大規模な小田原城の南西の外郭の一部であるという。
元に戻って進み、新幹線のガードの手前で国道1号線から右へ別れて旧東海道をたどった。再び国道1号線に戻る少し手前の右側に「板橋地蔵尊」があった。(左写真)
「板橋地蔵尊」を出ようとする我々の前を、境内に集まっていた人たちのうち数人の男たちが出て行き、我々の先を行った。国道1号線に出ると、道は早川の左岸に出る。先を行った男たちは国道の早川側で何やら作業をする様子。気になって立ち寄るとそこに案内板があった。
旧東海道は高架の小田原厚木道路を潜ってすぐに、国道一号線から再び右手に分かれて、箱根登山鉄道の踏切を渡る。渡ったすぐを右へ線路に沿って登る小道がある。木柱を二本立て、ぬきを渡しただけの門があった。そして「日蓮聖人思親の地」の看板があった。(左写真)
旧道を進み、風祭の集落に入って、右手脇道の入り口に「風祭の一里塚」があった。塚は残っていないが、案内板の前に石の祠と僧衣の石仏坐像があった。(右写真) 石仏の細部は摩滅して、特に頭部は何度も落ちたのだろう、ほとんど丸石に戻って(本当に丸石かもしれない)肩部に載せられてあったが、取り付け方で、石仏がうな垂れているようでユーモラスに見えた。標柱によると、この石仏は「小田原の道祖神」として小田原市の重要文化財に指定されていた。失礼しました。
再度国道1号線に出る緑地帯に「山崎の古戦場」の石碑(左写真)があった。江戸城無血開城の後に、東上する官軍幕府遊撃隊との激戦のあった地といわれる。あまり知られていない史実である。「板橋地蔵尊」にこの戦いの犠牲者の慰霊碑があったようだ。(見逃したが) 箱根振興会の石碑は箱根までの登りの街道筋に何面か見つけた。いつ頃建立されたものだろうか、カタカナ標示だから戦前には違いないが、いずれも楷書体で読み易い彫りであった。
三枚橋を渡って500mほど、道はやや登りになって、右側に早雲寺がある。(右写真) 境内には暗いほど大木・巨木が繁り、緑陰が涼しい。まずは参道のベンチで一休み、持参の甘夏を食べる。先に休んでいたおじさんが一人、我々と入れ替わりに出かけていく。おそらく箱根を目指して登っていくのであろう。周りには境内に居付いた猫が何匹かいて、人を見ると距離を保ちながら寄ってくる。いずれもトラ毛で一家族かもしれない。中にお腹に仔を持っている猫もいた。女房がお菓子を投げてやったが、匂いを嗅いで去る猫、ちょっとくわえてみる猫、そして若い猫が食べた。そこには静かな時間が流れていた。
県道に出て温泉街を緩やかに登っていく。湯本で賑やかなのは右側遥か下の早川と国道一号線沿いの辺りである。箱根登山鉄道の湯本駅もその辺りにある。300mほど進むと左側に正眼寺がある。裏手斜面に広がる墓地を標識に導かれて登っていくと、最高部に「曽我堂」(右写真)があった。また途中に「曽我五郎の槍突石」なる石も残っている。(右写真) 写真では判り難いが、確かに左から槍で刺したような痕が残っていた。
曽我堂右手に古い石仏や石塔が集められている一角があった。(左写真)不動明王像・観音像・地蔵像・五輪塔・宝筐印塔など路傍の石造物が一同に見られて大変貴重である。
街道に戻って進むと、路傍には道祖神(右写真)やら馬の飲み水桶(左下写真)など東海道路傍グッズが続いて現れる。地元自治会のちょっとした案内札があってありがたい。なければ見逃してしまうところであった。
箱根観音を登り返し、さらに登って県道に出る。200mほど進んだ右側に、岩を割っただけでほとんど加工をされていないように見える石碑に「觀音坂 登リ二町許」と刻まれていた。(右写真)一町とはどれくらいなのか。女房と話が出たが、はっきりしないまま旅を続けた。帰ってから広辞苑で調べると、「一町は六○間。約一○九メートル強」とあった。一間は1.8mで、一町が60間とすると、1.8×60=108で、ほぼ符合する。なお、「町」は「丁」とも書く。ともあれ、観音坂は200mほど続くというわけだ。
その先700mほど進んだ山側に道路に沿って鎖雲寺がある。入口に山側から小さな流れが勢いよく流れている。標柱には「霊泉の滝」とあった。手を洗ってみるがまあまあ冷たい水であった。寺名も正式には「霊泉山鎖雲禅寺」という。お寺の最も上流側に前述の勝五郎・初花夫婦を祀った「初花堂」と、その奥に寄り添った五輪塔二基の墓があった。(左写真)
14時27分、県道から右手山側の登り一町余りの「割石坂」の旧道に入る。(右写真) 道は杉林の中の山道になる。旧街道を示しているのは道に敷かれた石畳のみである。この辺りから下ってくるハイキングの人たちとよく会うようになる。
14時54分、畑宿の本陣跡に着く。日本式庭園が往時のまま残っていたようだが、注意して見なかった。また「明治天皇御駐蹄之趾」の石碑も建っていた。(右写真) 下ってきたハイキング客はここからバスに乗る人もいるらしく、本陣跡のバス停や宿内に目立つ寄木細工の店などにたむろしている人たちが目立った。
15時7分、箱根旧街道の後半のスタート地点に、「畑宿の一里塚」があった。(左写真) この一里塚は江戸から二十三里(約92キロメートル)、その間、道の両側に残る一里塚は、保土ケ谷の品濃一里塚だけである。畑宿の一里塚も、片側がかなり崩れていたので、平成10年、箱根町が発掘調査し、昔のままに復元した。
「畑宿の一里塚」の傍らに箱根八里記念碑があった。この箱根八里記念碑は三島青年会議所が八人の現代一流の文学者に揮毫してもらい、箱根八里の街道の要所に建てられたものという。
標高差60mほどを一気に登り、県道に出たところで見晴し茶屋に出た。ここが樫の木平である。現在も見晴し茶屋としてそばや甘酒を売っている。
県道と並行する旧街道の山道を少し歩き、16時16分、「甘酒茶屋」(左写真の左)に着いた。「甘酒茶屋」には「甘酒400円、力餅(あべ川・いそべ)各450円、みそおでん400円、ところてん450円、冷たい抹茶400円、しそジュース400円」のメニューが張り出されていた。しそジュースとあべ川を頼んだ。
甘酒茶屋が峠で後は下るだけと思っていた。気を抜いて進むと、県道を横切ってから、さらに登り二町半余りの於玉坂、白水坂、天ヶ石坂と次々に石標を見つけ、いつ尽きるかと思うほど登りが続いた。猿滑坂の近辺で訊ねた人の歯切れの悪い言葉をいまさらのように思い出していた。
それより一気の下りで、箱根旧街道の杉並木に降り着いた。その始まりに箱根旧街道案内図があった。ここより街道の両側に杉の巨木が立ち並ぶ。(左写真)
箱根東坂の略図とともに書かれた案内文は我々が今日歩いてきた道を簡潔に表わしたものである。長々と書き込んできた今回の旅記録が空しく思えるような案内文である。
元箱根の湖畔まで降りた国道一号線の山側に、「身替わり地蔵」があった。(左写真) 赤い涎掛けと帽子が夕日をまともに受けてよく目立った。



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