、歳をとってから再び関西に移り住んで初めて判ったことだが、私が子供の頃芦屋で育ったと言うと、ある種の反応を示す人がいることに気がついた。「はー、ええしのボン育ちやと言いたいのやなー」との感情を顔に出るのである。中学1年まで芦屋に住んでいた僕が、当時は全く気付きもしなかったことであった。
芦屋は昔、大阪船場あたりのお金持ち が別宅を構え、神戸のお金持ちは西の須磨舞子に別宅を持った歴史がある。したがって芦屋は今でも高級住宅地とされ、地値も高いと聞く。婦人物の広告などに「芦屋夫人御愛用」との広告がよく見受けられることは読者もご存知であろう。
 僕がガキの頃の芦屋は確かに山の手には1000坪単位の敷地を持つ関西財界人の豪壮な大邸宅があるにはあった。その反面、テトラポットだらけの現在、想像もつかぬことだが花崗岩が砕けて砂となった白砂青松の浜があり、そこに建てられていた今や死語と化した苫屋から褌一つ、勇ましいのは全くのフリチンの漁師が毎朝地引網を引いて鰯などをとっており、おっぱい丸出し、お腰一枚の女房達が獲物の仕分けをしていた。見物していた子供に、ポいと鰯を一掴みくれたりしたものだった。僕もその鰯を貰って母親を喜ばそうと勇んで帰宅したのだが、母親から知らないお方から只で物を貰っていけません。それは乞食のすることです。お返しするか、いくらかでもお払いしていらっしゃいと怒られ、小銭をポチ袋に包んで渡されたが、その漁師の顔など覚えておらず、丁度僕の眼の前にぶら下がった股間の巨大な潮焼けだか何焼けだか真っ黒な一物しか記憶になく、往生した覚えがある。
その頃芦屋には小学校が四校あり、私が卒業したのは山の手の六麓荘にあった岩園小学校であった。学校前の畠には同級生の母親が苺などを栽培しており、親切に摘みたて苺を食べさせてくれたりした。その同級生はなにしろ芦屋のこと、バルブ時代に土地が大幅に値上がりし、浮かれて大酒を呑んでアル中で若くして亡くなったということである。また学校から六麓荘に通じる道路を隔てた湿地の一郭には半島人(朝鮮民族)部落があった。半島で職を得られなかった人達が流れついたらしく、窓ガラスも無く、木切れで作った窓を支え棒で明け立てすると言う掘建て小屋が並んでおり白い朝鮮服を着たオンマ達が、水道も引かれていないのできれいとは言えぬ傍らの小川で洗濯をしたりしていた。ここには同級生で仲の良かった金君の家があった。我が家の祖父は合併後の半島でも大きな仕事を持ち、頭脳明晰な半島人青年を連れ帰り我が家に止宿させて上級学校に行かせル準備をさせたりしており、両親も同じ日本人であるのに人種差別的待遇をすることは教育上良くないとの考えで、金君とはよく遊んだ。一度他の友達と一緒に家に呼んだことがあり、何処かで嫌な思いをした経験があったのか玄関前でぐずぐずして中々家に上がろうとはしなかった。二偕の僕の部屋に入ってすぐ、誰かが差別的言辞を吐いたのか「チョウセン、チョウセンと馬鹿にすな。殺したる!」と大喧嘩を始め、その友人を出窓から突落そうとして大騒ぎになり「頼むから喧嘩やめてえや。御願いや」と仲裁に苦労した記憶がある。     
 なにはともあれ、当時は地道な地元の人と一部上場会社勤務らしい高、中級サラリーマンを中心とする移住者とが渾然と交ざって暮していたのが芦屋だった。確かに一部には谷埼の「細雪」に出てくるような雰囲気の家庭もあったが、あのような上品な関西辯と生活環境の家庭は芦屋でもピンに属する。躾の良い家庭に育った女性は、路上で落合った時も、一寸片手を前膝に当てて、身を屈めて挨拶されたものだった。当時、既に帽子に家紋をつけた運転手付きの自家用車も走っていた。私の祖父は多額納税者ではあったが、金持ちの常としての始末家であり、祖父からの仕送りで家庭を切り盛りしていた母は、祖父が我が家を訪れるたびにご馳走を出しては贅沢すぎる思われ、と言ってあまり粗末な料理を出しても失礼にあたるしていつも困った顔をしていた。芦屋にいる限り家は借家だった。父は毎日新聞の運動部嘱託記者として、また三越からもどのような名目でか各々100円程度の給料が出ていたようで、それを全部自分一人で使って北の新地などで豪快に遊んでいたようだ。父は戦前でも夏ともなれば白半ズボンにハイソックス、ヘルメットを被って、まるで南洋探検家風の服装で昼前に家を後にし、その格好で毎日新聞や三越に一寸顔を出し、あとは堂島にあった慶応倶楽部などで時間を潰し、夜になるのを待ってお茶屋などに出掛けていたらしい。テニスで鍛えた肉体を芸者に見せてもてたかったのかも知れぬ。酔っ払って阪急電車での帰途ゲロを吐いて入れ歯を落とし、翌朝酔いが醒めてから線路伝いに拾いに出掛け、無事発見して大喜びで帰ってきたこともある。いつか素面の時、芸者と遊んでから、家で女房にサービスするのはしんどいもんやと息子の僕に教えてくれた。なぜ子供にこんな話を聴かせたのか真意は不明のままである。僕が川崎医科大學に赴任する時、伊藤病院院長から、おさすり原田との渾名があった僕に、もう君も一人前だから、看護婦のお尻をさすったりなどしてはいけないと京都祇園の一流のお茶屋を紹介して下さった。早速訪ねてみたところ、その娘分の芸者から「まあ、武さんの息子さんどすか、お父さんは裸踊りが上手かったもんどすえ」言われて尻尾を巻いて退散した。当時国鉄は1等、2等、3等に判れていて、それぞれ白、青、赤と切符の色が違い、祖父は到着時間に変わりはないと云って、亡くなるまで赤切符、父は一人のときは白切符、母は僕を連れて岡山に帰郷するときなどは青切符だったのだからヘンな家だった。もっとも大金持でも、関西のことで、ケジメというものがあり、僕の遠戚で、恐れ多くも大元帥陛下、即ち天皇が統監される陸軍大演習の際に宮様をお泊めする程の大邸宅を構えていた家庭でも家族旅行では、両親と娘は白切符、息子は書生の身分であるとて赤切符に乗せられていた。白切符の娘は船場の旧家に嫁に行ってからも、当分の間は台所で女中と一緒に飯を食わされていたそうだ。
 戦後父の代となって、敗戦となり半島にあった財産は没収、日本の農地も開放、今までサラリーマン生活をした事のない親父をもつ我が家は途端に貧乏となり、僕も学生時代授業料納入の時期ぎりぎりまで送金がなかったりして気を揉んだこともあった。飲むのも1杯100円の女気なしのトリスバーが多かった。
 その頃の芦屋はまた自然も多く残っていて、一寸奥池方面に足を伸ばすと、鍬形虫その他の昆虫が林の中で樹液を吸っていたり、小さな池の周囲には毛氈苔が生え、我が家の前の小川でも翡翠を時折見掛けたり、鬼やんまは沢山青空につがいになって飛んでいた。 
 私が虚弱体質であると信じこんだ母親のお陰で、御所の内という芦屋の中心部から、空気の良い濱芦屋に引っ越したり、また海風は僕にはきつ過ぎると言うので、山手の六麓荘に移ったりした。その為小学校も精道小学校から岩園小学校に2年の時転校し、そこを卒業したのが昭和17年の事で、小学校が当時ナチ独逸のフォルクスシューレ直訳の国民学校と名を変えた時代の話である。
 岩園の同級生の殆どは旧制中学に進学した。旧制の商業、工業などの実業学校を択んだ生徒は一人もいなかった。小学校に付属した授業料無料の2年制の高等小学校に進んだ生徒は地元の子供達で、ほんの数人だった。そう言えば若い頃家族で熱海に旅行し、その高等小学校に進学した同級生の一人が旅館で布団を敷きに来、私も何処で見た顔だと思ったのだが、相手は私の顔よりも若い頃美人ではないが着物を着せると一寸姿見がよく、当時「鶴みたいなお方や」と言われた母親を覚えていて「原田君とちゃいますか」と問われどう挨拶してよいものやら、チップの顎にも気を使った覚えがある。
 男子同級生の1、2番は名門旧制神戸一中、3番は灘中学、4番以下は僕を含めて十数名はいっぱからげで新設されたばかりの芦屋中学を受験するように受け持ち教師があんばいをした。どうやら出来る生徒が欲しい新設したばかりの中学の教師と受け持ち教師との間でまあまあ出来る生徒も入れるからあまり出来ない生徒も入学させてくれという密約が交わされたという噂があった。女子の方も旧制女学校に大部分が進学した。卒業後、当時は女子を受け入れる大学は殆ど無く、女子専門学校に進学した方も多かったという。まあ、このような傾向が、上流家庭向きと思われた芦屋の理由の一つだったのだろう。 
 僕のクラスにはじいちゃんと呼ばれた生徒がいて、じいちゃんの母親は当時全国的に有名だった足袋製造業の老舗の娘で、養子然とした銀行勤めの大人しい御主人と瓦を乗せた塀で囲まれた広大な屋敷に住んでおり、家族の身の回りの世話をする上女中、台所で働く下女中、それに外回りの仕事をする爺や婆やと呼ばれる年寄夫婦が住みこんでいた。昔は本当に奥様と呼ばれる資格のあるのは最低この三点セットが揃っていることが必須条件で、この家庭が僕らのクラスで唯一それに該当したぐらいで、それほど多くの金持ちが住んでいた訳ではない。
 芦屋は昔から娯楽施設−戦前は映画館、戦後はパチンコ屋−もない街として有名で住み良い街とされている。しかし、僕が住んでいた間に二度風水害に遭遇した。年代は忘れたが昭和1桁時代、暴風雨のため浜から高潮が襲い、濱芦屋一帯は床上浸水となり、昭和13年には山からの鉄砲水による大水害があった。その上誰も想像さえもしなかった15年前の阪神淡路大震災でも被害を蒙っている。
 私の母親は私を私立の甲南小学校に入れたかったのだが、祖父が普通の小学校で教育を受けるべきだと反対して取止めになった。運と言うものは判らぬもので、甲南に通っていた芦屋のボン達は丁度台風の目に入り、風雨が弱まった時に校長の判断で下校中、おりから発生した芦屋川の鉄砲水に打たれて一人を残し全員遭難死亡した。当時甲南は旧制中学第4学年から進学する所謂7年生の旧制私立高校だった。
 先日、暇に任せて芦屋を尋ねた。僕の住んでいた頃の国鉄、今のJR芦屋駅は駅前周辺もがらんとしたものだったが、今や大丸百貨店、ブティック、飲食店を含む一大シショッピングセンターと連結し、昔の面影はない。僕の学んだ岩園小学校の校舎は木造建築から近代的コンクリート建築に変わったものの同じ場所,敷地にあり、運動場で遊ぶ生徒達の元気な姿と歓声は昔と同じだった。しかし、すぐ近くの道路より一段高くなっていた我が家も校門直ぐ下の窪地にあった苺畑もすべてなくなり、すっかり平坦化され銀行や商店が立ち並び昔の面影は全く消え失せていた。まさに桑海の変である。大きなお屋敷も相続の時、遺族で分け合ったり、物納したりして、敷地が狭くゴチャゴチャした感じとなり、わずかこの当たりのお屋敷の特徴であった御影石の積み石のみが昔の面影を残している所も多かった。深窓の令嬢のピアノを弾く音が広い庭と高い塀を隔ててかすかに聞えると言った優雅な風情はすでて過去のものとなってしまったようだ。
 僕も今回のセンチメンタルジャーニーの帰途、「いかりや」という東京青山通りの紀の国屋に相当する輸入食品の多いスーパーにも立寄って見たが、広告でイメージされるたような上品でシックな上流芦屋夫人、令嬢の典型とはついに出会うことがなかった。まあ出会ったところで、こっちがよぼよぼ爺さんではどうちゅうこともあれしませんけどな。

後記:文中差別語が出てきますが,当時の雰囲気を出すために使用したまでで,他意はありません。ご了承下さい。