戦時犠牲者記念碑        独立記念日のお祭り

 チェルノブイリ支援・九州の小児甲状腺癌検診に参加し、ベラルーシに行く機会がありました。べラとは白、ルーシとはロシアのことです。この語源については、当地まではタタールの侵略が及ばず純粋白人系の国であるという説と、ヨーロッパの辺境であったため地図上長い間空白のままであったいう両説があるのです。私はわざとこの国の某医師に由来を聞いてみたところ、彼は純粋白人説を滔々(とうとう)と述べたものです。
 この国の人々は白人であるというプライドが相当に強いようで、他民族に対しては排他的感情を持っている印象も時に感じたことでした。革命前、ロシアの宮廷ではフランス語が常用されたという事実もあり、ヨーロッパの辺境に住むスラブ系の人たちの西欧に対するインフェリオリティコンプレックスの裏返しなのかも知れません。
 この国の首都ミンスクの名前がメニャーチ、交易に由来し、ヨーロッパとロシアとの交通路に当たっているのが仇になり、この街は北方戦争、ナポレオン戦争、第二次世界大戦など、ほぼ一世紀に一度の割合で両者間に争いが起こるたびに押しては返す双方の軍隊に蹂躙された悲しい歴史を持っているのです。
 われわれを態々(わざわざ)空港まで出迎えに来られたこの国の赤十字総裁の話によると、第二次世界大戦中の独露の戦いによりベラルーシ国民四人のうち一人は殺され、犠牲者の出なかった家族はほとんどないとのことでした。ミンスクは徹底的に跡形もないまでドイツ軍とソ連軍との戦闘によって破壊され、瓦礫(がれき)の山と化し、今ある建物は全て戦後に再建築されたものなのです。
 その上、ウクライナのチェルノブイリ発電所はこの国との国境からわずか10キロの地点にあり、今度は隣国の原発事故に巻き込まれ国の3/4が放射能によって汚染されました。いつも受身の不幸を背負うのですが、国は手軽に引っ越しする訳にはいかず、「悲運の国」というべきでしょう。首都ミンスクに到着した日は、ちょうどこの国からドイツ軍が撤退した日、独立記念日に当たり、ホテル前の公園では記念行事が行われ、たくさんの露店が軒を並べ大賑わいでした。お祭の露店で売っているものは、流通機構の発達した現在どこの国でもあまり変化はなく、当地では子豚の丸焼きが目についた程度でした。もっとも高価なのか、最後まで売れ残っていました。
 ミンスクの住民が総出したのではないかと思われるほどの混雑で、どの店も行列ができています。「食べ物屋の前で並んで待つのは男のすることではない」「女性を食事に誘う時は、自分の懐と相談し、フルコース、デザートまでオーダーできる程度の店を選べ」というのがダンディだった亡父の遺言だったものの、ここでは遺言に従う訳にはいかず、われわれも二手に分かれて長い行列の尻尾について生ビールと羊のプロシェットを買いました。日常の酒がウォッカの国だけありビールのアルコール濃度は相当高く、羊もガーリック風味の浸け汁の味がしっかりとしみて「美味い」の一言です。他の店でデザートのアイスクリームを取るにも行列です。しかし、アイスクリームの味はたっぷりと濃厚、寄せ集めながら遺言どおりフルコースを取った気分に浸ることができました。
 検診はミンスクから車で約4時間半、ウクライナとの国境に近いストーリン地区病院で行いました。ストーリン市は最近まで非汚染地区と見なされていたものの、汚染が原因と思われる疾患が多発したため、改めて汚染地区と認定された区域です。このことからも政府の調査、行政が相当いい加減なものであることが分かります。この付近では馬車も未だ実用的な乗り物で、車と馬車が交互に止められている牧歌的風景も見られる田舎町でした。
 われわれの宿泊したホテルは当地では最高級クラスながら、エレベータは動かず、コンクリートの階段にペンキで絨毯の模様が描かれていたのはお笑いで、少しでも高級ホテルに見せる苦心の策でしょう。最年長の私には5階のスィートルームが割り当てられたのですが、5階まで重いバゲッジを担ぎ上げるのに汗みどろです。バスルームの洗面台の棚は固定が悪い上、一方に傾いているので洗面道具を置くとスーと滑って床になだれ落ちる始末です。バスタブを使おうとすると生暖かい褐色の湯がチョロチョロと出るばかり、その上、排水口の蓋がなく仕方なく踵を排水口に突っ込んで蓋をしました。その癖、スィートルームと称するだけあって、控えの間にはクリスタル様グラスなどが仰々しく揃えてあるにもかかわらず肝心の冷蔵庫は故障です。このようなアンバランスは旧ソ連圏でよく見られる現象なのです。水に近い湯に入って風邪を引きそうになった体を持参のウィスキーで中から暖めました。
 キエフの内分泌研究所内分泌内科のターニャ部長が、若手の医師たちを率いて同行してくれました。いつの日にか、彼ら自身のみで検診が行えるように指導するという方針に従い、同行の前川崎医大講師の片桐医師が超音波断層診断装置の使い方や、穿刺吸引細胞針の実際を手に取って教えていました。彼らは積極的に学び取ろうとする意欲が明らかで、片桐医師がする超音波装置や細胞吸引の操作方法をじっくりと観察し、実習する機会を与えると、皆先を争って試みようとするのです。また、検査技師の方々も非常に好意的でスムースに検診が進みました。
 面白かったのは、医師、看護婦、技師が皆ヨレヨレの白衣を着ているにもかかわらず被っているコック帽そっくりな背の高い帽子だけは糊が利いてバリットしていたことです。一点豪華主義というところでしょうか。帽子の高さは随分まちまちですが、コックとは違い高さは自分の好みであり地位や職業の象徴ではないということでした。
 今回の検診対象者89名の小児はどのような基準で選ばれたのかは不明のままなのですが、そのうち3名が癌の疑いを受け、ミンスクの中央病院に送られ、再検査の上、手術を受けるか否かが決定されることになりました。しかし、果たして泊り掛けで患者の両親も付き添って遠いミンスクの病院まで行く、経済的、時間的余裕があるのか否かについては残された問題です。現在、日本では悪性以外の甲状腺腫瘍は手術をしない方針ですが、当地では良性、悪性にかかわらず結節があれば切るという、超音波診断や細胞診が行われる以前の診断が不十分であった頃の方針をいまだに踏襲しているようです。ターニャ医師もわれわれの手術適応の方が合理的であると理解はしてくれたものの、内科医である彼女は口を挟めぬことだそうです。
 ミンスクに滞在し、ボランティアとして活躍中の元信州大学医学部助教授菅谷医師によると、当地外科医は自負心が高く、着任当時には彼ら自身の旧式な手術方式に固執し、より合理的な菅家方式というより現代世界で常識となっている術式を行っても無視していたそうです。彼が黙々と彼の術式を続けているうちに、最近少しずつ真似をするようになって改良されてきたとのことでした。菅家医師は自分がここに来たのは手術を教えに来たのではなく、手術の「助っ人」として来たのだとボランティアの立場をわきまえ、無用なトラブルを避け無言のうちに実力で彼らを説得したのです。真のボランティア精神の理解と、余程の忍耐力がなければできぬことです。
 尾籠(びろう)な話で恐縮ですが、この病院のトイレも清潔を旨とする医療施設としては考えられぬほど汚いのです。例によって、床は汚れ、便座が紛失しているにもかかわらず、不思議なことに便器の上に足を乗せてしゃがんで用をたした靴跡の泥がありません。これはどこのトイレットでも同じ現象で、もともと自分の靴跡を紙で拭って綺麗にするというようなデリカシーがある国民とは諸般の事情から到底思えず、男女とも「立ちション」「立ちウン(可能でしょうか?)」をしていると断定せざるを得ません。この検診で女子の小児たちでさえ大きくもない検査用のコップに「立ちション」で尿を立派に注入することができるのですから、ロングドレスを着る妙齢の域に達するとともに立ち技テクニックも完璧の域に達することでしょう。「必要は発明の母なり」という言葉がありますが、「必要は習熟の母」なのかもしれません。
 なお、当地の赤十字社のマークはレッドクロスと並行してイスラム教のシンボルである三日月が赤く描かれています。多宗教国の難しさの現れでしょう。日本でも明治時代赤十字社の印としてこのマークを用いることについてはなぜ神道国家がキリスト教の印を使用する必要ありやともめたこともあったそうで,日本も鳥居と並べて使用したほう利口だったかもしれません


  
ストーリン地区病院での検診              馬車も交通手段