岡山空港発の雲南航空チャ−タ−便のスチュワ−デスは皆美人で愛想が良かった。最近中国人接客業者の愛想良くなったことは30年程前の上海への初中国訪問時に比べるとまさに雲泥の差で、当時の中国でのサービスはすべての部門で酷かったものだ。スチュワ−デスはランチボックスを放り投げるようにして配り、職業的笑顔さえ見せぬ。空港免税店でも従業員同士がお互いにペチャクチャしゃべりまくり、後の棚にこちらが欲しい品物があろうとも振り返りもせず没有の一言という不愉快なものだった。共産主義下では働いても働かなくても同じ給料なら、働いては損というというのが勘定高い中国人のみならず全人類の心理というものだ。今では店に入ると店員が五月蠅いほど近寄ってくる。売上高によって歩合がつくからなのだろう。
 岡山空港から中国雲南航空のチャ−タ−便が昆明に飛び、昆明から石林、大理、麗江、シ−サンパンナ方面など各方面に行くツアーに分かれるという広告を地方新聞紙上偶然目にした。バックパッカ−の間で居心地のよい街として評判の大理にも興味があったが、ミャンマ−、ラオスの国境が目と鼻の先、少数民族の住むというシ−サンパンナという名前がなにかエキゾチックに響き、石林とシ−サンパンナ行ツアーに加わることにした。
 岡山空港は滑走路が延長され、上海、ソウル行など定期国際線が発着し、チャタ−便も頻繁に飛んでいるとのことだが、この空港から海外に出掛けるのは初めてである。ほぼ同じ行程のツア−が関空からも少し廉い値段で出ていたが、関空までの新幹線運賃やはるかへの乗り換えの面倒さを考えるとあながち損とも言えぬ。その上、岡山空港は駐車代が無料なのだ。早速「地球の歩き方」を買いに走る。「地球の歩き方」は隠れたベストセラ−である。この本は所々に誤った記載があり「地球の迷い方」と改題するべきだなどと悪口を云われながらも、このシリ−ズは若い自由旅行者、貧乏旅行者の聖書的存在で、彼等の殆どが黄色に赤のタイトルの背表紙、小口が水色に塗られたこの本を小脇に抱えている。余談だが「地球の迷い方」という単行本が発行されて、迷い方というダシャレは今や通じなくなってしまった。
この地域にはタイ族の他イ族、ペ−族などの民族が住んでいる。シ−サンパンナとは漢字では西双版納と書きタイ族自治州のことである。現地ガイドの説明によるとシ−サンは十二、パンナは千枚田圃という意味だという。なにしろ雲の果ての南にあるという辺地の省で、重畳たる山岳地帯に頂き近くまで耕された段々畑を指すと考えていたのだが「歩き方」によると版納は田圃に税をかけるの単位の意味だそうだ。
 ある外人に「ナゼヤマノテッペンニヒコウジョウツクリマシタカ」と素朴な質問をされた岡山空港を8月20日16:20雲南航空は定時に離陸した。スチュワ−デスの愛想のわりには機内食は不味かった。ライス?ラ−メン?と聞くのでラ−メンを択んだが、腰の弱い平麺に挽き肉入りのジャ−ジャ−麺様ソ−スがかけてあった。これならライス?ヌ−ドル?と聞くべきだ。アルコ−ルとして青島ビ−ルと銘柄不明の白ワインを頼んだ。青島ビールは美味かったが中国産らしいワインの甘いこと、食後酒としてセカンドラウンドサ−ビスで頼んだのは不幸中の幸だった。
 上海での給油時間を含めて約5時間のフライトで現地時間21:00に昆明飛行場に着陸した。このツア−では個人ビザではなく、団体ビザでの入国で、添乗員の呼ぶ名前のまま一列に並ばされ、共産圏特有の威張ってばかりいて非能率なイミグレを相当な時間をかけて通過した。
 昆明は一年中気候が温暖で別名春城と呼ばれている。近代的ビルディングも多く中国の10大都市の一つとされ辺境の街という雰囲気はない。来年は花の世界博覧会が開催予定で空港付近を含めてあちこちが増改修中で活気があった。
我々の年代の者は昆明というと援蒋ル−トという言葉を思い出す。支那事変のとき支那の沿岸が日本軍によって封鎖されていたため、英米が当時の中華民国総統蒋介石の軍にビルマから昆明経由で軍事援助物資を送っていたルートである。
 ホテルは五つ星の昆明飯店、ロビ−も豪華だ。どういう風の吹き回しか一人旅の私には二間続きのコ−ナ−ル−ムが割り当てられた。しかし、ドアを閉めると中は真っ暗で何処にスイッチがあるかも判らぬ。ロックチエ−ンが壊れているので、ドアを開け放しという治安上不安な状態でスイッチを探す。安全を第一とするホテルサ−ビスの意味が判っていない。翌日の朝食は私の好きな支那粥で、塩茹で卵とパクチ−をどっさりと入れて「馬鹿の三杯汁」をした。食堂を見渡すと日本人も多いが、中国人も多い。始め香港あたりの華僑かと思ったが、中国本土の人だそうだ。大体このような五つ星ホテルに、特にエリ−トとも思えぬ現地人が家族連れで泊まるのは東南アジアでは滅多と見られぬ風景で、中国経済発展の証拠だ。中国人の平均サラリ−に較べ、すべての物価がべらぼ−に高い外人向けホテルに彼等が何処から金を捻出して宿泊できるのか不思議な話だ。もう昔のように中国人と外人の値段が違う二重価格ではあるまい。
 石林見物にバスで出掛ける。約100キロの行程だ。途中の川沿いの道で先行車の対向車との衝突事故があり、ひどい渋滞となった。車が数珠繋ぎの上、事故を知ってか知らずか、後続車が続々と反対車線を走って割り込んでくるので車は団子状態で動きがとれぬ。駅の切符売場の混乱と同じで、彼等は行列を作ると言う観念が無いに等しいらしい。痺れを切らしたガイドが反対側の団子末端で立ち往生している空バスに交渉しUタ−ンさせて、現場を徒歩で通過し、やっとのことで石林に到着した。
 小高い岡の上にある石林賓舘から大石林区を望むと見渡す限り無数の大小様々な灰色の石柱が森林の間に聳立している。石柱にはみなリッジ状の鋭い縦の切れ込みが走り、日のあたる場所とあたらぬ場所とのコントラストが石柱の鋭さを増強している。当地のガイドは皆サニ族で民族衣装を着ていた。ピカピカナイロン製で、いかにも安っぽい。小数民族保護政策のため、ガイド仕事はサニ族のみの特権だそうだ。石柱の間を良く整備された通路が迷路のように繋がっている。下から見上げる石柱群は相当の圧迫感を持って頭上から迫ってくる。最近中国も公衆道徳が進歩したのか、観光客が多いわりには塵芥があまり落ちていないのに気がついた。
 昆明への帰路かなり急峻な山の中腹を横切って二本の鉄道がほぼ平行に走っているのが眺められた。山麓側を走る新しい広軌の国内線は尾根に挟まれた谷を高いコンクリ−ト製の鉄橋で効率よく繋いでいるのに比べ、山頂側を走っている旧線は昆明よりはるか国境を越えてハノイに達する国際線で清朝時代に多くの犠牲者を出して建設されたと言う。幅1メ−トルの狭軌、平均時速20キロとの話だった。建設当時、トンネルは掘れても高い鉄橋を造る技術はなく、尾根から谷間を等高線にそってぐるりぐるりと一つ一つ巡りながら走っている。一つの尾根を越えてから次ぎの尾根に達するまで愕くほどの時間が罹っていた。写真の山の中腹の深緑色の部分が旧線である。
 昆明市内で円通寺という有名な禅寺に立ち寄った。門前には天秤棒を担いで果物を売りに来る。まだ私の子供の頃には天秤棒は日常の生活用具だった。汲取り便所からの汚物運搬にも活用されていた。私も一度担いでみた経験があるが棒の揺れに躯を合わせて歩かぬと中身がこぼれ、非常に難しかったことを覚えている。
 私は郷愁を覚えて写真を撮ったのだが、連れの若者達は日本ではお目にかかれぬ珍奇な道具とし撮っていたようだ。
 20:00昆明空港から景洪郊外のシ−サンパンナ空港へ飛ぶ。空港待合室の出発時刻表を見ていると版納行は一時間おきぐらいに飛んでいる。空路なら約40分だが、陸路で山また山の中のガタガタ道を峠越しに行くとすれば恐らく車を使ってもとても一日では到着が無理かもしれぬ。
 景洪はシ−サンパンナタイ族自治州での大都市らしくここも雲の南の果て辺境の町的雰囲気ではない。すぐ東側をメコン河が流れている。まだこの辺では大河という趣はないがそれでも茶色の濁流がとうとうと流れていた。全長4350キロのこの河はチベットに発し、中国、ミヤンマ−、ラオス、タイ、カンボチャ、ベトナムを通り南支那海の河口に達する。一度「メコンの流れに身を任せ」チベットの源流からベトナムのメコンデルタまで下ってみたいものだ。
翌22日シ−サンパンナ観光だ。今日はシ−サンパンナの西半分、明日は東半分を見る予定らしい。初日チャーターバスに遠慮して最後に乗り込みと最後部の真ん中しか空席が残っておらず、その席が私の指定席となってしまい最後まで誰も代わってくれない。悪路を走り揺れが激しいのに身体の支持点がなくてこのツアーの最後まで苦労した。もう年寄りだからあまり無意味な遠慮はしない方が身のためのようだ。
 この辺りは、亜熱帯地方に属し、道に迫った急峻な山々の緑の影が濃い。車は急流に沿っ悪路を登って行く。やがて山間の川に吊り橋がかかっている所で停車した。向こう側はハニ族の部落で村の入り口に半ば壊れたコンクリ−ト製の土俗神らしい像が建っていた。ここでは汚れ切って元の色も定かでないがホンモノの民族衣装を着た婆さんが、しつこく刺繍を施した布切れなどを売りにくる。この辺りでは、唯一の現金収入だろう。部落の家々は骨董品的木造高床式ボロ屋で下が家畜小屋で二階が住居だ。部屋は天井が低く、電灯もなく、昼間でも目が馴れるまでは屋内は真っ暗だった。炊事は置き火でするらしい。部落内の道路は泥と水、豚などの排泄物でぬかるんでおり歩きにくいこと夥しい。ひどく毛深い猪風豚が放し飼いにされているが獰猛ではない。水牛も飼われている。広い耕地があるとは思えず物資運搬用に使うのだろうか。
 若い人達はいざ知らず、大部分の住民は滅多と街に出る機会も殆どなく、一生をこの部落とその周辺で終えるものと思われる。しかし、人の幸福、特に物質的幸福などというものは所詮他人との比較の上で生まれるもので、街に出ることも、テレビ、ラジオもなければここでの生活に充分満足して暮らしていけるのではないか。こんな山奥に少数民族が住むようになったの習慣ではなく、漢族に圧迫されての結果と思われる。辺境に住み、人口が少ないとなれば同族間の結婚はかなり難しい筈で、近親結婚が続くと民族滅亡の道に繋がりかねぬ。一人っ子政策は少数民族には適応外だが、その割にはどの村も子供の数が少ないような印象だった。
 帰路かなり設備の整ったレストランで昼食を取る。昨日まで食事時のビ−ルは飲み放題だったが、今日からは一テ−ブル6人で4、5本の割り当てとなった。現地ガイドの裁量かあるいはポッポに入れる額によって変化するらしい。食堂は奇麗だったが屋外にあるトイレは相当な汚さで、男厠、女厠に分かれてはいたものの、扉がなく大小便を一か所の穴に落し込む仕掛で床は汚物で汚れ放題で女性は随分と困られたようだ。もう現在の日本女性はさっと裾を捲って立ち小便をし、お尻を二、三べんふって、さっと歩き出すと言う、器用なことの出来る方は絶無だろう。中国が外貨獲得の目的で観光客を呼ぶならばトイレの改善は焦眉の急だ。我々には食事を共にする習慣はあっても排泄を共にする文化はない。インドではウンコすると一人が言えば俺も一緒にしょう、ついでのことあいつも誘ってやろうと輪になってすると何かの本で読んだが本当だろうか。
 そのあと自由市場に寄る。屋根付き市場があり、その周囲の広場にもパラソルを立てての屋台が並び大雑踏だ。このような場所でも頭の被りもの、髪の結い方、衣装、持ち物などのどこかに各民族特有なものを身につけているのが面白い。やはりこれは民族的プラウドのためか、ただ単に古きものへの田舎的固執精神なのかは不明である。日差しがきついため各民族の特徴的な被りものの上に安物のビニ−ル紐で編んつばひろ帽子を被ったりしている。どうしても民族独特の被りものを脱ぎ去る心境にはなれぬとみえる。
 ホテル近くの孔雀湖周辺に夜店が出るというので、面白くも美味くもない民族舞踊鑑賞付きのタイ料理を食べるのも早々に郵便局にお勤めで写真好きの方とリキシャに乗って出掛けてみる。リキシャ代二人で5元の約束で乗った。日本円で90円だが相当な乗りでがあった。時間が早過ぎた所為か湖周辺には夜店の影もなく、仕方なくホテルにぶらぶら歩いて帰る途中に公園のような広場が有り、ここに夜店がずらっとならんでいた。昔だったら喜んで焼き鳥などに手を出すところだが、歳のせいが眺めるだけに止めた。連れが公衆トイレに入るというので、金を払う必要があることを教えかたがた連れションする。一人3角だかを払うと落とし紙をくれた。トイレはタイル張りで清潔、大のほうには形ばかりの隔壁が取り付けられている。便槽は一本の溝となってトイレの端から端まで繋がっており、一方の端の天井近くに備え付けられた貯水槽が満杯になると水がザッと流れるシステムだった。中国ではなんでも金次第、ウンコ、オシッコを気持ち良くするのも金次第だ。
 23日は東半分の観光で大好きな自由市場に出掛ける。この辺りの市場ではミャンマ−独特のシャンバッグが幅を利かしていた。売り子も腰のくびれかたから見てミヤンマー人らしい。その後タイ族の部落に行く。タイ風の大きなワットを隣にしたこの部落では屋根は板葺だが、屋根から一寸凹んで造られた破風には孔雀の羽根を広げた立体正面像が取り付けられており文化の匂がある。やはり高床式二階建てのしっかりした造りだ。村長の家はどうやら旅行業者と契約して幾許かの見料を取ってオ−プンハウスにしているらしく、客扱いが手馴れたものだ。天井には大きくて旧式だがファンまでゆっくりと回っていた。タイ族なのに毛沢東の写真がタイ国王の代わりに飾ってあった。村の片隅では闘鶏が行われていた.円形の5メ−トル程の白布で囲まれた闘鶏場の中で、持ち主らしいおっさんが自慢の鶏を見物に見せている。しゃもだが、とても奇麗に羽根が磨かれくろぐろと光っている。けずめにナイフは付けていない。しかし、鶏は闘志満々でいきりたっているという感じではない。胴元が金を集めているものの中々双方の賭け金が釣り合わぬらしく勝負が始まらず、待ちくたびれて私が現場を離れた直後に勝負が始ったが意外と短期決戦で終わったと聞いた。一度負けた鶏は爾後闘志を失い使い物にならず、直ぐにしめて人間様に食われてしまうそうだ。
午後が国立の亜熱帯植物園に行く。広大な植物園だ。亜熱帯の植物を自然の侭なら自然で、系統的の見せるなら見せるで、せめて中国語と英語での説明板を取りつけるなどの工夫が欲しいところだ。やはり国立研究所付属なので人民に見せてつかわす式のお役所仕事なのだろう。
 夕食後昆明に飛ぶ。やはり満席だった。再び昆明飯店に宿泊、持参のウイスキ−がとうとう空になってミニバ−の小瓶スコッチに手を出す。一本30元で高い。今までに使用した小使いが1000円一寸ではあり、手元に42元3角あったのでこれぐらいの贅沢は仕方があるまいとケチな自分を自分で納得させた。
 24日、この旅行最後の朝食に行く。機内食は不味いと判ったので、ビュフェスタイルなのを幸い、好物の支那粥を腹一杯取ることにする。このような時に限り、何時もは呼んでも来ないウエイトレスが私のテ−ブルの傍らから動かず、皿が空になるや否や下げようと待ち構えているので落ちつかないこと夥しい。それでも予定通り油條をたっぷりと入れて粥を三杯貪り食う。なにも居候ではないので遠慮する必要はないのだが。
空港売店で12元のお菓子を購入する。残金6角、無駄のない金の使い方だった。
10:40昨日ご丁寧に予告があった通り、予定より30分遅れで分雲南航空のチャ−タ−便は離陸した。
 機中、向こう隣の席の小父さんが、飲み物サ−ビス中のスチュワ−デスに「その色のくれーえ、ちいせえー缶のジュ−スをくれんかのう」と岡山弁で注文した。えれーぞ、ああさん、よーゆうてつかーさった。おきゃーまからの便じゃけー、おねーさんがおきゃーま弁を勉強してこにゃーおえまーが。山の天辺を削ったぼっこうおかしげな空港が眼下に見え始めた。
注:倉敷居住時代の旅行だが原稿が出てきたので付け加えた次第です。アーサンは兄、オネ−サンは姉の意味だが、血縁関係がなくても若い男女に向って使う。オエマーはオエンの変化形で駄目の意味。