|
日露戦争は今から数えると100年を過ぎる。子供心には随分と昔の戦争だったような気がしていたが、実は僕の生まれた歳から数えると24年程前に過ぎない。
日露戦争は、初めて非白人が白人を破った戦争として、非白人には自信を、白人には衝撃を与えた画期的な戦いであった。しかし、日本の財力も兵力も殆ど底を尽き、米国の仲介がなければ敗北の可能性があったかも知れぬというぎりぎりの戦いであったのだ。その戦争のやま場であった旅順攻撃については多くの物語が生まれたのだが、実態はどのような戦いであったのかを知りたく思っていたところ、たまたまその戦跡を訪ねるツアーを発見、早速参加したことだった。
ツアー仲間はやはり行く先のゆえか老人が多く、86歳を始めとして、26名中8名以上が後期高齢者に属していたようだ。関空から大連までは2時間とちょっとの短い空の旅で大陸の海岸線は見えず仕舞いだった。
大連、旅順ともに40階、50偕の高層建築が建ち並び、建築中のものもまた数多く、再開発規模の壮大なこと日本の中都市の比ではない。大連のヤマトホテルや満鉄本社などの過去豪華で有名だった建築物は見る影もなく霞んでいた。しかし,建物が他の都市に較べ,何となくエキゾチックな気がする。車もベンツ,トヨタを始めとしてあらゆる種類の輸入車が見られ、ポルシェまで走っている。もっと愕いたのは道路や公園でごみが落ちていないことだった。
到着後まずこのツアーの目玉である旅順203高地に向う。日露戦争の頃はこの当たりの高地は皆禿山だったらしい。もし樹木が生えていれば格好の攻撃軍の遮蔽物となるので、すべて露軍により事前に伐採されていたに違いない。
すり鉢状の禿山だった二百三高地も今はすっかり樹木に欝蒼と覆われていた。バスで中腹の駐車場まで登り、あとは徒歩か往復100元を奮発してタクシーで登るようになっている。それほどの急坂ではないが相当登り出がある。頂上には何度も写真で見た乃木大将の筆になる爾霊山記念碑が屹立していた。.この戦いで使用された毀損武器や薬莢を拾い集め、日本で鋳造された碑だそうだ。
生憎天気が悪く、旅順港はかすかに見える程度であったのは残念だ。しかし、ここに観測所を置き、旅順港内のロシア極東艦隊に28サンチ榴弾砲を正確に撃ち込めばその効果は絶大で、旅順要塞はその存在意義の大半を失い、残存兵力の減少の故もあり戦意喪失、降伏に繋がったことは容易に想像できた。
また頂上の片隅には
銘記歴史 勿忘国恥
と中国式略字で書かれた標識が建てられていた。
日清戦争時には劣悪な装備の清軍が粗末な防砦で守っており、日本軍は1日で陥落させた記憶が頭にあり、露軍がその後コンクリート製の防砦を強固に構築し、機関銃という最新式大量殺戮兵器を備えていた事実を無視したのだった。日本軍の宿痾であった情報の軽視がこの時既にあったのだ。バルチック艦隊の東洋到着までに旅順要塞を陥落させる必要ありとして大本営が焦って督促したとは言え、何の遮蔽物もない禿山上にある堅固な要塞を、ただ我武者羅に銃と剣だけの肉弾攻撃で駆け上らせるとは素人が考えても無謀な作戦だ。機関銃で一掃射を受ければひとたまりもなく、死屍累々の惨状となったのも無理はない。また第3回攻撃には決死の白襷隊を編成し夜間攻撃を行ったのだが、その白襷が露軍のサーチライトで照らされて掃射する目標にされたなどはどう考えても馬鹿な話である。旅順陥落までに日本軍の死傷者は五万九千人に及んだ。
乃木を愚将とした説は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」以来のことではなく、旅順攻撃のさなかからすでにあった。切腹せよ、辞任せよとの手紙が数千通届けられたと言う。
やはり乃木という旧弊で融通の利かぬ男を近代的装備を誇る旅順攻防賎の司令官に、そしてこれまた頑固で無知無能な伊地知を参謀長に任命したのが間違いであったことは確かである。乃木が長州なので薩摩の伊地知を配して派閥のバランスを取ったとすれば論外である。
乃木は少年時代、幼名無人〈なきと〉から泣き人と言われたほど弱い性格で、文人として身を立てたかったようである。しかし、長府藩の人間でありながら先輩の紹介で薩摩閥の長老黒田清隆中将の知遇を得、弱冠二十二歳で陸軍少佐に任命され、軍人としての一生を送ることになる。秋月の乱、萩の乱にも従軍した。この少佐任官以後、彼の乱酒荒淫がはじまるのだが、彼が戸主となって一家を支えるようになると彼を厳しく鍛えた父稀次も口が挟めぬうようになり、古武士的精神の持主で彼の叔父でもあり師でもあった玉木分之進も、自分の養子で、稀典の実弟正誼や門下が秋月の乱に与したことの責任をとって自刃したため、心の重しが取れたためか、あるいは突然高級将校になったので、タガがはずれたかのどちらかであろう。西南戦争の際、陛下に下賜された大事な軍旗を捧持した士官が戦死、薩摩兵に軍旗を奪われると言う失態をおかし、それを忘れるために以後彼の連日の乱杯狼藉はさらに激しくなったという。この軍旗喪失事件により、今風で言えば彼はPTSDに陥り、生涯を通じて自責の念に駆られて過ごしたことは事実らしい。しかし、そのためにさらに激しく遊蕩したとはどう考えても筋の通らぬ話で少なくとも誉められた話ではあるまい。
ただ不思議なことに、彼が一年半のドイツ留学して帰国後、生活態度が一変し、芸妓の出る宴席に出席するのすらも拒否するという謹厳きわまる窮屈な生活を送るようになったことである。聖将乃木の誕生である。この大転身については、どの伝記にも真相と思われる記述がない。当時のドイツ陸軍将校は貴族かブルジョワジーの子弟たちであり、相当の遊び人が揃っていたに違いないが、ゲルマン民族の制服の形式美とそれに対する一般人の敬意は並外れたものがあり−往年のナチスの制服及びドイツ国民の熱狂振りを見よ−目くらましされ影響を受けたのではないだろうか。
乃木が帰国後、行住坐臥制服を着用し所謂「制服フェチ」になったことは有名な事実である。帰国後の打って変った謹厳さは、軍人らしくない自分の性質を1882年発布された「軍人に賜りたる勅諭」を鑑として軍人はかくあらねばならぬという鋳型に無理やり自分を填め込もうとした結果と解釈すれば、その後の彼の奇矯とも思える質実剛健の生活が理解出来るのではないか。
次いで水師営の会見所に向う。
旅順開城約なりて
敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の
所はいずこ、水師営
この会見所は主として日本人観光客のために再現されたコピーである。金儲けの為なら国の恥を忘れてもなんでもする中国人魂の発露だ。両将軍の会見時に机として使用した日本陸軍衛生隊の手術台のみが本物だという。それには墨痕鮮やかにその由来が軍医により記されていた。ステッセル将軍が馬を繋いだ「弾丸跡もいちじるき」なつめの木は四代目だそうだ。
会見時乃木将軍は敗軍将校の面目を考えて帯剣を許し、勝者、敗者の隔てなく両軍将校のうち揃って並んだ写真のみを撮らしめたのは、新渡戸稲造のBushidoとともに欧米諸国に大いなる感銘を与えたと言う。
会見所内に飾られた当時の白黒写真の中にただ一つ気になる写真があった。それは日本兵が後手に縛られて頭を垂れて座っている支那人をまさに斬首せんとする写真である。この写真は日本兵の残虐さを示すものとしてあちこちで見た記憶がある。ところがその日本兵の服装が日露戦争当時のものではないことである。銘記歴史と叫ぶのなら、このようなインチキは止めて欲しいものだ。大体中国の歴史は歴代王朝が滅亡した後、王位を簒奪した次ぎの王朝の歴史家が記したものである。正しい歴史が伝わる訳はあるまい。
翌日は8時発の特急列車で藩陽、昔の奉天に出掛ける。大連の駅は満鉄当時上野駅そっくりに建てられた建物だ。路線は広軌である。藩陽から帰って後、その昔日本人に満蒙開拓のシンボルであったアジア号を見学したが、老いたりといえどもその勇姿、特に車輪の大きさには愕いた。満鉄のマークはレールの切断面にMのマークを丸く囲んで図案化してものだったが、現在のマークも殆ど同じく丸く囲んだMの凹み部分が凸になっているだけの違いである。なんでも日本の占領時代のことを否定する国にしては珍しいことだ。
大連藩陽間約400キロを4時間強で走った。定時に発車し、途中製鉄所の鞍山、石炭の撫順など中学校で習い覚えた駅を通
り、定時に藩陽に到着した。
鉄道服務員の態度厳正で親切なこと、昔のように服務員がアルバイトで掛軸その他、下らぬ物を売りつけに来ることも勿論ない。その代り恒例だったお茶の無料サービスは無くなり、日本と同じく車内販売制度に代わり、ビールも売っている。路線上には保線要員も多く見られ熱心に作業していた。
ここはお国の何百理
離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて
友は野末の石の下
早朝出発だったから大陸の大きな夕日は勿論期待していなかったが、見渡す限り荒涼たる無人の大平原が見られるものと思っていた。しかし高粱畑や水田、果樹園が果てなく続き曠野と呼べる土地を見ることは皆無であった。多くの一家らしい農夫達がすべて手作業で水田や畑の手入れをしていた。のどかなそして平和な風景だ。戦争は嫌だ。しかし平和、平和と叫んでおれば平穏無事に暮せると思うのは幻想に過ぎないことは歴史を顧れば判る事だ。尖閣列島や竹島を見よ。国防を真面目に考えるべき時期が来たようだ。
後記:我々の現地ガイドは満州族だった。彼の話によれば愛新覚羅の一族は今や中国には残っていないという。真偽の程は明らかでない。
戦争については当時の名称を使用した。支那事変を日中戦争と言うのはおかしい。何故ならば両者は宜戦布告をしていないからだ。
支那は蔑称であるから使用するなとの説もあるが、それなら英語のチャイナやラテン諸国のシーナという言葉も使用禁止にするべきある。
|
|