廃墟のフラビイ カスバ

 地球は狭くなりました。日本から世界各地へ航空便の連絡さえよければ殆ど24時間以内に到着できます。日本から経由便でさえも24時間で到着できないのは、ロサンゼルス、サンパウロ経由のリオデジャネイロぐらいなもの、それでも24時間半ぐらいで到着可能です。最早「地の果て」という言葉の実感は薄らいでしまいました。
 しかし、第二次世界大戦以前は狭いジブラルタル海峡のすぐ向う側なのにモロッコはヨーロッパ人から見て、まさに「地の果て」的感覚地域だったのです。「外人部隊」、「カサブランカ」などの映画を観ても、そこには祖国を捨てた影のある人物が登場します。日本でも「カスバの女」という演歌がありました。
     ♪♪"どうせカスバの夜に咲く
        酒場の女の薄情け〜" ♪♪
とヤケクソで退廃的な歌でした。
 さすがにモロッコは日本から遠く、成田よりモスクワ経由マドリッドに一泊、ジブラルタル海峡を越えて目的地のモロッコに入国、マラケシュで旅装を解いたのは2日目の午後となりました。暑いのに当地の女性はベールを被ってご苦労なことです。
 マラケシュはモロッコ第二の古都だけあって城壁に囲まれたメヂナは広く、その臍にあたるところにスークとジャマ・エル・フナ広場があります。メヂナとは旧市街のことで、スークとは市場を指します。スークは抜け道あり、行き止まりありの四通しても八達せぬ文字通りの迷路で、一度入り込んでしまうと方向感覚を失い易い上、物凄い雑踏です。その雑踏の中を驢馬が大荷物を積んで強引に割り込んでくるのです。我々ツアー客が迷子にならぬよう、ビニールで作った玩具の白黒ぶち犬を括り付けた竹竿を高く掲げたガイドが案内してくれるのですが、これは昔お客をはぐれさせ、探しあぐねた苦い経験の賜物でしょう。両側に並ぶ店々の珍しい品を片目で眺め、もう一方の目で迷子除けの犬を人込みの中で追うのは相当の技術を要したことです。当地では殆ど英語が通じず、むしろ旧宗主国の仏語の方がポピュラーなのです。"I am not a guide, your friend!" など調子の良いことを言って近づいて来る連中は、後で法外なガイド料なるものを要求したり、無茶苦茶に高いレストランに連れ込んでぼったくる危険人物と見て差し支えありません。アラブ系のおっさんは皆目付きが物凄く鋭いのです。日本人のように目付きだけで、あれはヤーサン臭いとかフツーの人だとかの区別が付き難いのが困りものです。スークは陶器、香料、絨毯など場所により専門店が固まって軒を並べています。この習慣はお客にとっては値切ったりする上で便利な制度なのですが、値切られるお店側にとっては損な制度のように思われますが、損な制度が続くわけもなく、やはり利点もあるのでしょう。約1時間程刺すような視線の矢を浴びつつウスーク内をウロウロと歩き回るとかなり疲れ果て、ようやく陽の当たるジャマ・エル・フナ広場に辿りつき太陽を仰いだ時はホットしたものです。ジャマ・エル・フナ広場とは死者達の広場の意味で、昔ここで公開の処刑が行われていたことに由来します。今では食べ物の屋台と大道芸人の集まる名所です。  屋台がゴチャゴチャしており、何処から何処までが一軒だか良く分かりません。粒貝のような物は蝸牛でした。羊肉を焼く匂いも鼻腔をくすぐります。若い頃なら喜び勇み、端から試食したものですが、この歳になれば分別とかいう難儀なものが働きます。皿などを洗うのはバケツに溜められた真っ茶色な水なのです。東南アジアでは食い物好きの日本人はA型、女好きのドイツ人はB型肝炎に罹り易いというジンクスがあります。こんな所で肝炎でも貰ったら、好きな酒ともおさらばだと唾を流して我慢しました。医師であり友人である某君が何型だか肝炎を患い,彼の肝機能のデータを自分のものととは言わずに黙って同僚の医師に見せたところ、「あ、この患者はまず助からぬな。プログノーシス・アブソリュート・プアー(予後絶対不良)」と言われて青くなったという話があります。幸い彼は生き延びたものの、私はそんな目には死んでも会いたくありません。
 今日は大道芸人の定休日なのか,芸人達の数も少なく、やっている芸も噂ほどには大したことはなく、前置きばかり延々と続くので、もう一度一人でスークに潜り込んでみました。なるべく直線的で広い通りを選び曲がり角では目印の店を覚え、左右いずれに行くかを確認しつつ歩き一軒一軒店を冷やかしました。鋭い目付きも慣れれば平気で、ここでも「廉いよ,廉いよ」と日本語での呼び込みがあり、東南アジアの露天商と変わらぬ雰囲気です。
 翌日我々は雪を頂く雄大な大アトラス山脈を越えワルザザートで一泊、カスバが多く見られることからカスバ街道と名付けられたワルザザートからエルランデアに至り、さらに南下してサハラ砂漠の入口であるエルフードまでバスを飛ばしました。テイスカ峠には雪が積もっていました。
 我々は昔グラビイというマラケシュの司令官が住んでいたカスバに立ち寄りました。カスバとはもともとは軍隊の駐留する城砦や城砦を持つ都市の意味です。アルジェリアのカスバなどは迷路も多く犯罪人の隠れ場所的雰囲気が濃厚だそうですが、モロッコの現在のカスバはごくフツーの人が住んでいたり、殆ど無人だったりして決して恐ろしい場所ではありません。カスバの女も今は昔という話でした。アラブ人のお客はとことん値切る上にしつこくて身がもたないと厭がられるのが神世の昔からの商売を続けている女性達間での世界共通の評判だそうで、さすが同国人の女性も身がもたずどこか身のもつ国に移動したのかも知れません。しかし、金払いがよくて,淡白で速く終るので世界中で評判がよい日本人の本拠地にはアラブ人のそれらしい女性を見かけることは少ないように思いますが、私の勉強不足の所為かもしれません。
 砂漠に近い当地では水利が必須で小川が流れ少数の椰子の木など生えている場所に、周囲の赤茶けた風土に溶け込むように同色の煉瓦と土を塗り固めたカスバが周囲を威圧して鋭角的に屹立しています。城壁は相当な高さで最上層には四角な凹凸があり、凹の間から狙い撃ちしたり、凸で身を隠したりしたらしいのです。今は管理人を除いては無人の砦です。その昔、此処でどのような戦闘が行われたかは知りませんがそんな情緒的な感じは皆無で、ただ無機質な土の廃墟という感じだったのはやはり雲も生み出さぬ乾燥した空気、一面に広がる広漠とした大地の所為でしょう。半ば崩れた苔むした石垣、生い茂る夏草や白い雲の書き割りに虫のすだく声のバックミュージックなしには「つわものどもが夢の跡」などと言うものの哀れを感じる気分が出ないようです。矢張り,日本人の感受性には湿気の影響が大きいのでしょう。
 しかし、この街道のハイライトはカスバよりもこの街道の真ん中位にあるオアシスの街テイネリールより遡った処にあるトドラ谷でした。狭い河原を挟んで200メートル近くもある殆ど垂直に近い絶壁が延々と数キロに渡って続いているのです。我々のバスはその狭い空間を所々で川の浅瀬を水煙を立てて渡りながら道なき道を奥へ奥へと進んでいきます。
 途中でこの岸壁に挑んでいるクライマーを見付けました。学生時代岩登りに凝っていただけに、歳のせいでバランスもへったくれもなく、最早登れぬことが判っていても血が騒ぎ,目が自然と登攀ルートを辿ってしまうのは山男の劫というものでしょう。ザイルを結んだ二人パーティで、確保点となる程の広さのある岩棚も見当たらず相当な難場です。しかし、岩は固く確りとしていて、落石の恐れもなさそうです。身のこなし方からみてかなりのベテランです。日本ではこれほどの規模で垂直に近く一木一草も生えず岩も固い壁は少なく、谷川岳一の倉などのじめじめした岩場を草鞋で登って満足しているクライマーにとっては垂涎の的となる岩場に違いありません。そう言えば昔一の倉の中央壁を,草鞋なんぞ粋じやないと、鋲を打った登山靴で登ったことがありました。まだ登山靴かビブラム底に取って代わる以前のことです。当時山仲間では尖鋭的クライマーとして高名だった奥山章さんにひっぱり上げられて登ったようなものですが、今やつわものどもの夢のあと、彼も、一緒に登った山岳会で同期だった岡村君も最早この世の人ではありません。
 本日の宿泊地エルフードでは夕食に酒が出ないというので、慌ててワインを途中の売店で購入しました。こういう噂には老いて耳が遠くなっても早耳が利き,最早岩は登れずとも自然と体が機敏な動きをするものです。
 呼び物の砂漠見物はローバーに2、3人ずつ分乗して出かけたのですが、各ドライバーがお互いに競争心を起こすのか道なき道を猛スピードですっと飛ばすのです。この辺りの住人はベルベル人で、このベルベルがバーバリアン(野蛮人)の語源だけあって、闘争心が強いのでしょうか、乗っている我々はたまったものではなく、車内のあらゆる支持点にしがみついて車から転げ落ちぬよう身を守りました。やがて砂漠の果てに到着です。目の届くかぎり砂、砂の世界で、想像していたように平坦な平原ではなく、風によって吹き寄せられた砂の山並がはるか向こうまで続き、点景として駱駝までいます。駱駝使いの乗れ乗れと言う売り込みがまたしつこいのです。砂丘を登ろうとすると、これが以外に難しく、足が砂の中にめり込み、足下からは砂がサラサラとこぼれ落ちるのです。残念ながら天気が悪く期待した日の出は見られず、見られたのは何とか我々の手でも引いて、幾許かの金を稼ごうとしたり、ニセ化石を売りつけるおっさんの群れのみでした。
 帰国前,カサブランカに立ち寄りました。今やこの街は近代都市で名画「カサブランカ」当時の面影はかけらほどもありません。ただ、映画の中に出てくるカフェ・アメリカンのレプリカが某ホテル内にあるそうで、出掛けた人の話によると、ハンフリー・ボガードが10日ほど下痢を続けたようなウエイターにしつこくトレンチ・コートを売りつけられたそうです。ボガードのやや着崩したトレンチ姿はほんとに粋で渋く、映画を見ながらため息が出たものです。
 結局、モロッコの旅のコツは、鋭い目付きは天然自然のもので、ヤーサンには関係ないと思い、"My friend!"と呼びかけられれば、"You are not my friend."と答え、しつこい売り込みに"No money."と答える技術さえ身に付ければ愉快に過ごすことが出来るというのが私の得た結論でした。しかし、ジュラバを着た男性や、ベールと長衣で目だけを露出した女性に,東洋の旅では得られない異国情緒が感じられることは確かです。韓国の金大統領が北朝鮮の金総書記に色目を遣い、イソップ物語にちなんで「太陽政策」を行っているようですが、太陽がかんかん照りのこの国で全身を覆い隠す服装をしている住民達を見ると、彼の政策は誤りで、ピューピューと北風を吹かした方が両国の統一を促進するかもしれません。




マラケシュのスーク