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さすが権勢を誇った平家の公達だけあり、「見るべきほどのことは見つ」と格好良くキザな言葉を吐いて安徳帝に殉じ壇の浦に入水したのはの平知盛三十五歳の時だった。その倍も生きながらえた僕も見るべきほどのことは見ておかねば、知盛に「何ほどのことやある」と嘲笑されるばかり、「あな、くやし」と旅の賞味期限が切れかけている老齢の身としては一大決心をして有り金はたいて南極クルーズに出掛けたのである。
「ふらんすへ行きたしと思えども/ふらんすはあまりに遠し」とうたった朔太郎の時代とは全く異なり、現代ではマル金の独身OLがパリまででも買い物に出掛けるなど朝飯前の世の中だが、日本から真裏側にあたるアルゼンチンの、しかも南端まで距離は、並の遠さではない。関空より成田、ニューヨーク、ブエノスアイレスへと飛びここで一泊、まだまだ下って象の鼻のように伸びた南アメリカ大陸の先端に鼻糞団子のようにこびりついているフエゴ島にあるウスワイアまでは滞空時間だけで二十七時間の長丁場だ。齢七十に達し、高齢者という分類に属する僕はエコノミー・クラス症候群の餌食となるのを恐れ、珍しくウイスキーは薄い水割にして制限、利尿作用のあるビールは飲まず、サービスがそっけないので有名な某米系航空会社のフライトアテンダントに「ミネラルウオータ プリーズ」を連発してでどんどんと水分を補給し、脚の屈伸運動を狭い座席での繰り返しているうちに、極南の都会ウスワイヤに無事到着した。我々は南極大陸に行くといっても、勿論極点に近いところまで行く訳ではなく、ほぼ円形の大陸からおたまじゃくしの尻尾のように生えている南極半島にここから渡るのである。ウスワイヤは昨今出来た街ではないが、なんとなく、西部劇に出てくる新開地の匂いがする。人口が緻密でなく、高層建築もなく、後背地が真夏の現在でも雪山に囲まれているせいかもしれぬ。
ウスワイアの港で我々を待っていたのはリュボフ・オローワ号という4000トンの船である。この船名はロシアの名女優の名前からとったそうで、1978年建造というから船としてはかなりのお歳だ。近寄って見ればペンキが厚く重ね塗りされており黒い船腹にはごつごつとあちこちに凹みも見られ、婆の厚化粧的感じがしないでもない。船内ロビーには「People's
fates are the fates of ship」と書かれた下にこの船の歴史と、ともに若く美しかった時代のオーロアさんとこの船の写真が飾ってあった。船は船体すべてが白色に塗られ、今よりすっきりとスマートな感じだった。年月人を待たずで我々老残の夫婦には身に沁みるディスプレイである。 この船はユーゴスラビア製でマルタ船籍ではあるが、船長以下乗組員は南極大陸で上陸補助の役割を果たす現地採用の人達を除き殆どがロシア人だ。元来が極地向けに製造された船で、旧ソ連時代には、北極海などで人や物資を運んでいたらしいのだが、崩壊後どういう経緯でか運命が変って個人の所有となり南極その他に出掛けるクルーズ専用で活動している様子だ。この航海が終るとアマゾン河クルーズに就航の予定だそうでご老齢の身で今度は暑い熱帯とは御苦労さんと言いたい。
僕達の部屋はメインデッキ左舷中央の2人部屋で小さな丸窓がついていた。設備は旧ソ連のなにごとも大雑把で不完全な造作のホテルに較べれば結構整っていた。
荷物を整理する暇もなく夕食となる。夕食メニューはポタージュ・スープ、メインデッシュは肉、魚、或いは野菜料理のチョイス、それにデザートだったが、まあまあの味だった。初夕食が終わると乗客は全員集合させられ、救命具の着け方や、自分の乗るべき非常用ボートの位置確認など緊急時に備えての訓練があった。ウスワイアから南極半島に到着までがドレーク海峡という悪名高い難所で、ドレーク・レイクと呼ばれる湖面のような静かなことは珍しく、大抵はドレーク・シェイク、大揺れで有名な海峡なのだ。ホーン岬を超えたところから船はローリングにピッチングが加わり、船酔いに苦しむ船客が続出、食堂に2日間全く顔を見せぬ人もいれば、二段ベッドの上から転げ落ちた人もいた。食堂のテーブルには木枠が嵌め込まれ、荒天時にはテーブルクロスを湿らせて、食器雪崩れが起きぬ工夫がしてあった。
しかし、航海三日目、海峡を渡りきり南極半島の蔭に入ると、波は穏やかとなり、憧れの氷山をが出現した。船の真際に鯨のお出迎えがあり、「ニ時の方向に鯨」と船内放送で知らせてくれた。本船の舳先より一寸右側との意味である。鯨は少しの間、我々と並行して泳いでいたが、そのうち水煙をあげてフルーク・アップ・ダイヴ、Y字型の尾鰭を水上にぐっと持ち上げると同時に潜水したちまち視界から消えてしまった。鯨が大きな丸太のように浮いていて、潮を吹いている姿は珍しくもなく、大阪で万国博覧会があった頃は南国土佐で「おらんくのいけ」でも見られるぐらいで、僕も今までに何度か見たことがある。しかし、中々お目にかかれないと言われるフルーク・アップ・ダイブを、しかも間近に見たのは初めての経験、すっかり幸福気分に浸ることが出来た。
いよいよ明日は天気が良ければ待望の南極半島の先端近くにあるクーバービル島に上陸の予定とのことで、上陸用のゴムボート「ゾデアック」に本船のタラップから移乗の仕方などを習う。乗り移る際には上陸補助員が文字通り手助けしてくれるのだが、その場合は手と手を握り合うのではなく、前腕と前腕を握り合うセイラース・ハンドを用いよという。成る程、実際に移乗の際、セイラース・ハンドは船客がたとえ宙ぶらりんになっても兩脇の彼らが体重を支えてくれる確実な方法であることが判った。
世界南極条約によれば、南極には何物も持ち込まず、何物も残さずという大原則が決められているという。観光客の大小便も鳥居マークがあるなしにかかわらず「御無用」だそうだ。アムゼンによる犬ゾリを利用しての南極点到達や、日本の越冬隊帰国の際、やむを得ず置き去りにされ、一年後隊員達と聞くも涙の再会を果たした太郎などのワンワン物語もすでに過去の話で、今や野生動物に病原体が感染するのを防ぐため畜類の上陸は禁じられている。またペンギンには5メートル、アザラシには15メートル以上近寄ってはいけないとのお達しがあった。
翌日は幸い天気も良く、持参のゴアテック製の完全防水着にゴム長靴、その上に救命胴衣をつけ、手袋、眼だし帽、スキー用サングラスと物々しい格好である。今南極は真夏で、温度は2、3℃程度なのでオーバーとも思える服装だ。ゾデアックが水飛沫を上げて快走中、小さな流氷の上にはアザラシが一匹気持ちよさそうにのんびりと昼寝をしているのとすれ違う。
上陸地点は石ころだらけの海岸だった。陸に上がるにはどこでもゾデアックを波打際の浅瀬に乗り上げるかたちとなるので、体を濡らさぬためには長靴は必需品なのだ。ジェンツーペンギンが海辺まで群れをなしており、糞臭が鼻を刺す。動物園で見られるなんとなくうらびれ尾羽打ち枯らした連中と異なり毛の艶が良く仕立て上がりのタキシードを着ているようだ。純白の腹と頭部と背部の黒のコントラストがくっきりしており眼の上と周囲にも白い部分がある。嘴が赤いのも紅一点のアクセントとなってご愛嬌だ。ペンギンには5メートル以上近づくなといっても無理な話で、あっちもこっちもペンギンだらけ、向こうから無警戒に近寄って来るのだ。中には僕の靴先をつついてみる物好きもいた。海中では素晴らしい泳ぎ見せるペンギンも歩くのよちよちと極めてぶきっちょなのだ。雪上では腹這いになって自分の体をスノー・ボード代わりにして滑走することもあるそうだ。もう抱卵の時期は過ぎ、産毛のためか親と同じくらいの大きさに育った雛鳥がそれでもなお親から口移しにオキアミを貰っている。撮影の原則で、カメラの位置をペンギンと同じ高さに持っていくには、糞だらけの雪やごろ石の上に座ったり寝ころんだりせねばばならず、体中糞臭くなった。もし、人間がこのような過密状態で生活したら、夏のキャンプ場のキジ打ち場よりまだひどい状態になるなと想像する。人間ほど環境を悪化さす動物はいるまい。約一時間滞在し、再びゾデヤックで帰船する。
昼飯は後甲板でのバーベキューのサービスだ。アルゼンチン産の牛肉は有名だがここで供された肉は硬く、脂身がないのでビールで流し込む。
午後はいよいよ南極大陸の一部であるニコハーバーの土を踏んだ。アルゼンチンの避難小屋があり、近くに巨大なデビル氷河が海に向かって注ぎ込んでいる。相変わらずペンギンだらけである。
帰船後大満足で服装を改め、船内新聞で看板娘「ナターシャがお待ちしています」が謳い文句のバーでクルーが持ちかえった二万五千年前の南極氷でスコッチを引っ掛ける。氷の採取は南極条約にひっかからぬとみえる。グラスに耳を傾けるとニ万五千年間氷内に閉じ込められていた空気がスコッチに溶けて開放される音がかすかに、かすかに聞こえてきた。ナターシャは二十歳すぎでもスラブ系にしては珍しくまだスリムで、英語も喋れる。共産圏のシステムでは珍しく、バーで働く以外、船内の掃除、雑役もこなし、一人何役も兼ねている。彼女は食堂でテーブルをまわって酒のサービスをする時にはバーのカクンターで飲む場合と違って釣銭は返さない。これは、カウンターで飲めばチップ不用、テーブルでは有用との欧米流のシステムをちゃかりと学習したのか、ロシア人のルーズさで、釣銭を渡すのを忘れたのか、忘れたふりをしたのか最後まで判らずじまいであった。
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