デセプション島上陸                   海水温泉
 

 翌朝狭いルメール海峡を通過する。レナード岬の入り口近くには昔英国の越冬隊員が基地の巨乳秘書の名前にちなみ「ユナのおっぱい」と名付けた二つ並んで巨大な岩山がにょっきりと聳えていた。女気なしに悶々と過ごす越冬隊員たちが、愛情と尊敬と憧憬を込めてつけた名前に違いなく、男としてみれば国籍を越えてその気持ちはよく理解出来るのだが、世知辛い現代ではセクハラだと問題になりそうである。ユナさんは後ニュージランド人と結婚してかの地に移住、幸福な暮らしをしたとのことだ。
 この当たりには氷山が多い。海上に突出している部分は、全体の五分の一程度だから、氷山が正四面体をしていればともかく、凹凸不正極まりない水面下の見えない部分まもで考慮に入れて船を進める船長の気苦労は大変なものだろう。当時の科学の粋を集め、不沈と言われたタイタニック号すら、たった一瞬の氷山との接触で横腹をえぐられ御陀仏さんになったのだから。
 白い氷山が紺碧の海に沈む直下、海中の氷が透けて見える淡い水色の美しさはたとえ様もない。南国の熱い陽光を浴びて海底の珊瑚礁が透き通って見える無色の海水も綺麗には綺麗だが、こちらの方がより深みのある海っぽい色をしている。宝石アクア・マリーンは、この色をイメージして名付けられたに違いない。阿多多羅山の山の上の青い空が智恵子の「ほんとの空」の色なら、氷山直下の薄い青さこそ「ほんとの海」の色だ。
 午前中に流氷の漂う海を渡ってピーターマン島に上陸しまたまたペンギンと遊び、午後は捕鯨時代各国の船団の避難基地だったポート・ロックロイに上陸した。鯨骨が所々に散在しているのはその当時の名残だ。ここにはその昔通年気象観測を行った小屋が残っており、当時の台所、寝室、その他がそのまま保存され、その一部を利用して夏季には南極大陸唯一の郵便局と売店が開かれている。その売上は施設の維持費用に当てられているそうだ。買い物好きの妻も南極ではさすが買うものもあるまいと安心していたら、南極大陸上陸の証明書、ペンギンの絵付きボールペンなどを抜け目なく買いこんでいた。
 南極圏に入って三日目となり、三月一日となった。午前中にはこのクルーズでも特に呼び物、南極で温泉が湧いているデセプション島に上陸予定である。この島は海底火山の水面上の頂上部分が噴火によって吹っ飛んでしまい、火口に海水がなだれ込んだため、馬蹄型を呈している。狭い入り口を通過して本船を湾内に乗り入れ、我々は海面からもうもうと湯煙の立ち込めている地点近くに上陸した。乗客達は勢い込んで南極スタイルの衣装を脱ぎ、かねて持参の水着になって海に飛び込む。確かに南極での温泉浴は帰国後絶好の話の種に違いない。熱湯が海底のあちこちから噴出しており、海水との混ざり加減、すなわち湯加減が所により難しいらしく、あちこちでアッチッチと言ったりキャー冷たいと喚いたり、老いも若きも大はしゃぎだ。その騒ぎに巻き込まれ逃げ場を失った南極オキアミが熱湯の噴出口近くに押しやられたのか可哀相に茹であがって浮いてきた。オキアミは上下運動は得意だが、水平に動くのは不得手なのだ。もしオキアミ新聞が発行されていれば「またも人災により同胞多数死亡。環境保護も兼ねて人類の入浴制限を」と非難記事が掲載されるに違いない。     
 南極温泉の砂浜の奥には1967年と1969年に起こった火山噴火のため、鉄骨が無残に折れ曲がり、完膚なきまでに破壊されたチリとイギリスの南極研究施設の残骸があった。幸い滞在員は事前に退避して死傷者は無かったそうだ。
 午後はこのクルーズ最後の上陸地であるリビングストン島に出掛けた。ここでは今までと違い顎の下に髭のような黒いストライプがあるのでヒゲペンギンと呼ばれる種類が多い。ヒゲはジェンツーに較べてやや小柄で嘴も黒く人目を引く華やかさがない。身動きも少ないようだ。時々南極アジサシが我々を脅かすように身近に羽音を立てて飛来するのは彼らの巣が近くにあるためだろう。近くの小高い丘に登ると反対側は断崖絶壁で、その直下の海岸べりに5、6頭のアザラシがだらりと横になり腹を上向きにしてたまにお愛想のように胸鰭を動かしながら惰眠をむさぼっていた。と気が付かぬうちに別の丘蔭から3頭のアザラシがこちらに向かって移動を始めた。ごろごろ寝ているところをみると不器用そうだが、一旦歩き出すと相当な速さで、近くのペンギン達がこれは大変だとばかり小さな羽をせい一杯広げてバランスをとり腰を振り振りよちよちと退避していく。アザラシの海に降りる道をブロックすると、退路を断たれたと思い怒り心頭に発し、お尻をがぶりと噛まれた人もいたそうだ。南極でアザラシに尻を噛まれて重傷を負ったではトドのつまりみたいな話と笑い話にもならぬ。「そこのけそこのけアザラシ様のお通りだ」とばかりペンギンと同様急いで退避して道を空けてやる。
 穏やかに見えるこの辺りの海も潮の流れが激しいらしく、ゾデヤックは潮の流れと流氷を避け、ぐるっと海上を大回りして本船に辿り着いた。ゾデヤックはゴム性ながら、多くの隔壁を持ち非常に丈夫にできており、ちょっとやそっとのものにぶつかっても沈むことはない仕掛だというが、用心にこしたことはないのだろう。本船の舷側は結構波が高くボートは上下に大きく揺れる。波が盛り上がって頂点に達したチャンスを利用し、補助員のセイラース・ハンドの助けを借りてセーノーと掛け声と共にようやくタラップに飛び乗ることができた。山に凝っていた若い頃、雪渓からクレバスを飛び越えて岸壁に飛び移った面影今いずこである。情けないことだ。
 これで南極上陸はすべて終わりで、行き帰りの長旅を思うと、充分満足したものの一寸あっけない感じである。帰船して、デッキで長靴を脱いで暫くすると、上陸補助員の一人が、我々夫婦の長靴を譲ってくれぬかと相談にきた。我々夫婦の長靴は新品ではあるが他の人の物とさして変りがあるわけでもなく、我々夫婦を見て彼らは生い先短かく、賞味期限切れ近いので特価値段で譲ってもらえるかもと値踏みしたのかも知れぬ。我々ももう再び使用するチャンスはあるまいし、帰路の荷物も出来るだけ軽くしたいので、タダというのもなんだからと1足1ドルで譲ってやることにした。すると、総計2ドルと貯め込んだチップなのか袋一杯ロシア・ルーブルを含む世界各国のじゃら銭を渡してくれた。
 帰ってまたまたバーに飛びこみちびりちびりとナタシーャ相手に南極ロックで別れを惜しむ。ナターシャは大卒で、将来ジャーナリストとして、国外で働きたいらしい。僕はチェルノブィリ事故後甲状腺癌検診のため、ボランティア活動としてベラルーシやウクライナに数回出掛けており、共産圏特有の息詰まった雰囲気を知っているだけに、自由世界の味を知った彼女が、外国に憧れる気持ちも判らぬではない。いつかパソコンを開いてみたら、多数の日本人と結婚したいとうウクライナ女性の顔写真と経歴がどどっとならんでいて吃驚した経験がある。しかし、スラブ女を制御できるだけのスタミナのある日本男性はまずまず少なく、オトーサンは結婚後数ケ月を経ずして、青菜に塩状態に陥るいのではないか心配する。
 少し酔いが回ったので、デッキに出てみる。いろんな形の氷山が流れていく。南極の氷床が氷雪の圧力でゆっくりと流れて棚氷となり、それが壊れて氷山となって海に浮かぶまでの月日に較べると人の一生などはほんの一瞬だ。同時にスラブ女性特有の中年以後の超肥満体が頭に浮かび今はスリムなナターシャの十年先の姿を想像するとなんとなくうつせみの哀れさが夜風ととに身にしみるのであった。 
 寒い。もう一杯南極ロックをバーで引っ掛けてから、船長主催のディナーパーティに出席することにする。実は船長に逢うのはこれが始めてで、そしてこれが最後だったのだ。船長主催のパーティといっても、船長が入口で出迎えるわけでもなく、乗客に服装の指定があるわけでもない全く略式だ。わいわいがやがやと飲みながら船長の出席を待つ。そのうちそれでも船長は金四本筋の肩章がきらめいた制服に威儀を正し、金三本筋の一等航海士、それにこれも見始めで見納めのこの船のオーナーだというでっぷりとした紳士とその娘の御入場となった。皆が拍手で迎える。船長に対するウェイトレスの態度の恭しさは、お客である我々に対するなんとなくサービスは商売上これぐらいでよかんべと割り切った態度とは大違いだ。これでは、クルーズ船の習慣である下船時に纏めて払うチップもほどほどでよいと腹をくくる。船長はドイツ系で、代々船長を勤める家柄であると言う。オーナーについては、国籍、経歴、特にかっては国有であったに違いないこの船をどのような手段で我が物としたのか、なにもかも不明だが、遣り手で金持ち、スラブ系であることだけは間違いのない顔付をしていた。彼らも礼儀上出席しましたという態度で、ワインを一杯ずつ飲み、食事には殆ど手をつけず、殆ど会話もなく早々と席をたった。
 南極圏最後の夜だ。もう南極大陸の土を踏むことは我々夫婦にはまず二度とあるまい。寝るには惜しい晩だ。南極ロックを片手にもう一度デッキに出て氷山に別れをつげよう。
Farewell to the Antarctica for good!


    

ヒゲペンギン(左)とジェンツーペンギン(右)    そこのけそこのけのあざらし