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首都ビエンチャンには見るべき所も少なくタイから夜行列車で入国の翌日にルアンパバーンに飛びました。旅行前にパソコンで御伺いをたててみると、ラオ航空は整備が不完全で、新規輸入の1機を除いては乗らないほうがよろしいとのお告げでした。陸路も山賊が出没し、フランス人殺害事件もあり危険だとのことです。しかし、最近当地で飛行機が墜ちたという話も聞かず、運を天に任せて空路を選んだのです。
ソ連製の飛行機は双発で、60席ほどの座席は運天の客で満席、珍しく日本人は僕一人でした。ラオ航空のスチュワーデスは皆平均的ラオ人に比べてものすごく体格の良い大女で、これは事故に備えて非常の場合、ドアや窓を叩き割れるだけの体力のある女性を選んだのではないかと邪推した程です。離陸して数分たつと、頭上の荷物棚からもうもうと白煙が流れ始めました。フツーなら直ぐ事故かと乗客の誰もが立ち騒ぐはずですが、運天客はボロッチイ飛行機に乗り慣れているので、このようなシーンはすでに何度も経験済み、白煙は単なる旧式エアコンのせいと判断して誰も驚きません。
眼下を見渡すと、耕地もほとんど見当たらず、原始林にも伐採の跡がなく、山また山の連続です。一昨日バンコックから夜行列車に乗って国境に近いノンカイで降り、メコン川に架かるフレンドシップブリッジ(フレンドだの、友誼だの、美辞麗句橋が国境に架かっている場合は、かって両国が仲が悪かった証拠みたいなものです)を渡ってラオスに入国したのですが、夢うつつの中ではあるものの、タイ国内で列車はほとんど平野を走っていたことを思い出しました。どうやらこの国はいにしえの都ルアンパバーンと首府ビエンチャン周辺以外にはほとんど平地と言える所がないらしいのです。
百万頭の象を意味する「ランサン」王国はルアンパバーンに首都を置き、三つ頭の象をシンボルとして近隣諸国に武威を張ったのも今は昔、周辺の国々、タイ、ベトナム、ビルマ(現在はミャンマー)、中国の国々に攻め立てられ、百万頭の象の国はインドシナ半島の中央山岳地帯にたった1頭の象の鼻に似た細長い地域のみを残して蚕食されてしまったのです。
平地もほとんど無いに近く海岸線を持たないとあっては、将来この国の発展は難しいのではないでしょうか。事実、ラオスの近代的産業と称すべきものは急峻な地形を利用した水力発電のみで、タイに余剰電力を輸出して外貨を稼いでいるそうです。
到着後空港で現地ガイドと落ち合い、まずはルアンパバーンを一望に見渡せるプー・シーの丘に案内される予定でしたが、ウィーンの森で足首を骨折したばかりの僕は丘の上まで三百数十段の階段があるという話におじけを振るい、その代わりに車で上れるサンティ・チエディという寺院が建っている丘に行くことにしました。ここは坊さんが瞑想を行う場所だということです。メコン川に沿い周辺を山で囲まれた盆地の中、椰子をはじめとする緑濃い熱帯樹の間に赤い屋根の寺院が点在しているルアンパバーンは、街全体が世界遺産に指定された珍しい例だそうです。はるか向こう街の外れには褐色の水量豊かなメコン川が、そして金色の塔を持つ丘が見えましたが、プー・シーの丘でしょう。この狭い街には40程の寺があるとのことです。
それから丘を下って2、3の寺を訪れました。すべて似たような建築で、どれがどの寺院やら今となっては記憶が定かではありません。ただ、1500年に王様によって建てられたワット・シエーンは前面から後方にかけて少しずつずらした三層の屋根を持ち、キリスト教会ならファサードとも言うべき正面は繊細な彫刻が施され、仏陀の一生を描いた金色の扉は、ミケランジェロが天国の扉と絶賛したギベルティ作、フレンチェのサン・ジョバンニ洗礼堂の扉に比べても引けを取らぬ美しさでした。セントラルマーケットにも立ち寄りました。他の東南アジアの国々に比べて喧騒さがありません。ガイジンである僕が通っても「コレヤスイヨ」「ミルダケネ」とかの呼び込みが全くないので、吹っかけと値切りの一大決戦場に臨むつもりでいた僕は拍子抜けがしたものです。
当地で宿泊したホテルは、周囲との調和を考えてか寺院風のムアン・ルアンホテルです。雨季のせいかこのホテルも宿泊客は僕一人でした。広いオープンエアのダイニング・ルームでたった一人、ウエイター、ウエイトレスに見守られながら飯を食うのは、王侯貴族ならいざ知らず、庶民の僕にとってはかなりしんどいシチュエーションです。照れ隠しにラオ・ビアを呷ります。スープにおかず三品それに普通米ともち米が別個に供され、果物のデザートが必ずついてきます。何もすることもなく、早々に床につきました。これでは血気、いや精気盛んなツーリストが「ラオスはなーんにもないところ」とぼやくのも無理はありません。
翌日5時に起きて托鉢を見にいくことにしました。ロビーを通り抜けようとすると、下着姿でソファに寝ていた従業員が飛び起きました。彼はアルバイト学生で、来年卒業すると教員になるそうです。
まだ薄暗い表に出てセントラルマーケットの方向に行ってみます。雨が降り始めましたが坊さんはまだ現れません。あまり濡れるのも嫌なので諦めかけて帰ろうとすると、先程のアルバイト君がスクータで追いかけて、わざわざ傘を届けてくれ、スクータに乗っけて見学に良い四辻まで案内をして、チップをねだる素振りもなくまた風のごとく去って行きました。6時前ぐらいでしょうか、そろそろ待ちくたびれた頃、突然とある小道から傘をさし、柿色の僧衣を着た裸足の10人程の坊さんの一団が姿を見せた、と思う間も無く、あちこちの小道という小道から同じような一団がぞろぞろと雲が湧くように現れ、メイン道路を左右に散って行きます。托鉢のテリトリーが決まっていると見えて、お互いに無言で、ぶつかることもなくそれぞれの方向にひたひたと歩き出すのでした。
ある一団の後にくっついて行くことにしました。人影もなかった道々にはいつの間にか雨の中、泥んこの道端に女性が座り込んで、前を通りすぎる僧侶達一人ひとりに米を布施していきます。婦人も坊さんも肩から下げた編み籠に入れた鉄鉢に喜捨を受けると頭を下げるでもなく、次々と立ち去っていきます。どうやら男性は座る必要がないようで、商店街のある店では、主人とおぼしきおっさんが路上にテーブルを置き、何か袋に入れた食物を一つずつ配っていました。いろんな種類の食物を一つの鉢に入れると、ごった煮あるいはカレーライスのごときものになるのではと心配したものですが、それは杞憂のようでした。
大体各々のテリトリーを一回りすると、あれだけたくさんいた坊さんたちはまた蜘蛛の子を撒き散らすように、さっと見事に消えていってしまいました。雨が降っても、風が吹いても、今日必要なだけの食物を集め、午前中に食べ終わって午後は絶食するという彼らの習慣は、冷蔵庫の無いアジアの国では、衛生上からも合理的なわけです。
ホテルの朝食は洋風で、やはりフランスの植民地だっただけにフランスパンは高品質でした なお、ホテル前の県立病院や熱帯医学研究所の看板なども、すべてラオ語とフランス語で掲示されていました。
朝食を済ませて王宮博物館に出掛けました。革命政府が政権を握る前は宮殿だった所です。さすが謁見の間などはきんきらきんで絢爛豪華ですが、プライベートの部分は結構質素でした。寝室も王様用とお妃用に2室あるのが贅沢といえば贅沢ぐらいで、ベッドも木製でそっけなく飾り気のないものです。もっとも、この湿度が高く、くそ暑い国では、ルイ王朝風の天蓋付でごてごてとした装飾のベッドに寝て、傍らにいつも美しい王妃がいて「ねー,王様。ウフーン」と言われた日に,いや夜には、
王様は体が持たず、翌日は執務中昼寝ばかりという醜態をさらすことになるでしょう。各国からの数多くの贈り物が飾ってありましたが、王様が他国から安く踏まれたのか、革命時どさくさ紛れにお値打ち品は誰かがポッポに入れたのか、特別高価と思われるものは少なく、まあそんじょそこらの骨董品屋の品に毛が生えている程度の感じでした。王様はかわいそうに王制廃止後、初期の頃は名目上、政治顧問とやらに祭り上げられていましたが、共産党が政権を奪った場合の定石通り、そのうち王様は王妃とともに再教育キャンプに送られてマラリアで2人とも亡くなられたそうです。
その後、郊外に滝を見に出掛け、ようやく百万頭の象の生き残りを3頭見ることができました。現在観光客を乗せるためにのみ飼われている象は、皮膚の艶も悪く、毛もほとんどなく、所在なさそうに近くの木の葉っぱを食べており、とてもその昔,雄叫びをあげて戦場を疾駆した面影はありません。
虎は死して皮を残し、ランサン王朝は滅びて寺院を残す。
ルアンパバーンに栄光あれ!
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