ピーマイ・ラオ  ラオス再訪

         
     
ワット・シエンートン                 レリーフ
 
「行ってはみたが、見る所も、遊ぶ所も何もない国、それがラオス」とは東南アジアを遍歴した果てにラオスを訪れた旅行者からよく聞くセリフです。ビエンチャンを訪れ、すべてがキンキラキン成金趣味のタート・ルアンとコンクリートの無駄使いとしか言いようのない凱旋門やブッダ・パークに案内され、早々に寝静まる夜を迎えては、血気盛んな旅行者は「なんじゃ。この国は」これならパッポン通りで、鏡の上で踊るスッポンポン娘を見ていたほうが余程ましとベッドの中で悶々としながら後悔するかもしれません。
 しかしスケベー一辺倒の男でない限り、ルアンパバーンまで足を伸ばすと印象はがらりと変ります。数多くの旧いワットとフランス植民地時代の面影を残す街並みが奇妙に調和し、ヤスイヨー、ミルダケヨーの呼込みも無ければ、小遣い稼ぎのガキにうるさく付き纏われる煩わしさも無く、奇妙なタワーや、モダンぶったJR駅が出現する前のゆかしき京都の趣があり、これぞアジアの文化と歴史を物語る伝統の街であり、騒がしい現代生活に疲れた心には「癒しの町」であると納得するのです。
 私はなんとなく「メコンの流れに身を任せ」旅路の果てに辿り着いたルアンパバーンにすっかり魅せられて、ピーマイラオと呼ばれる当地のお正月に再訪することにしたのでした。
 お正月は南方上座部仏教の月暦に従うので年ごとに少しずれるのですが今年、2002年は4月の13、14,15日の3日間が正月の祝日にあたりました。13日は大晦日で、大掃除の日だそうです。一般庶民の家は家具も少なく、いたって簡素ですから、ばばっばと家具をはたいて、ざざっと床を掃けばそれでお仕舞い、雑巾掛けなど面倒なことはしない様子で街の人達はその後大挙してメコン河を対岸、即ち彼岸の砂地に渡り、濁水が遥かに遠く雲南省あたりからも運んでくる細かい砂を利用して円錐形のストゥーパ(本来は仏舎利を祭る塔で、日本の卒塔婆の語源)を造って来る年の仕合せを祈るのです。子供の背丈を越える巨大なものや、粉を振りまき白色に塗ったったものなどゲイジュツ作品がずらりと並び、各々その周囲に小旗などを林立させて中々の壮観でした。その背後の台地には屋台が軒を連ね、ビールを飲む者、やきそばを食らう者、果ては輪になってツイスト踊りを始める者とお祭り気分が満点です。うちのばーさんまで、浮かれ始めて若者に混じって踊りだしたには驚きでした。結婚後何十経っても新しい発見があるものです。 
 タイなどと同様、当地でも水かけ祭の別名がある通り、これは頭の頂に水を潅ぐ仏教の神聖な「潅頂」の儀式に源を発したのだと思いますが、お祭中は通行人がいくら水を掛けられても怒ってはいけないという習慣あり、現在では天下御免の暴力的な遊びに変化し、馬穴などで大量の水を、通行人がずぶぬれになろうとも平気で、相手の迷惑など考えることも無くぶっかけるのです。平生はおとなしい子供達も、どこで製造されたのか巨大な男性性器を思わせるプラスチック製の特殊兵器を抱え、悪戯するのはこの時とばかり誰彼にお構いなく、ビュッツビュッツと水を射精スタイルで飛ばしてきます。ご丁寧に背嚢型の水補給バッグに接続されている最新式もあり、水弾丸の欠乏を心配することもなく、誰彼構わず人を見かけ次第発射するのです。特にガイジンは好目標になりがちでした。 今日はその悪戯が許される初日なのですが、街中と違い、ここでは大河メコンの流れを目の前にしては水を掛けてもあまり迫力がないと思うのか、水掛よりも白いメリケン粉のような粉掛けが主力で、踊っているラオ人も白人も粉だらけにされた人が沢山いました。やはりこれも私が若い頃、女の子をナンパするのを粉を掛けるといったものですが、その原点はここから来たのかも知れません。それでも彼岸には灯火の設備がありませんから、日が暮れかかると人々はさっと街へと引き上げて行きます。酔っ払ってクダを巻く人も見当たりませんでした。
 翌日が1月1日、年の初めに当たるわけで、家の中ではどのような行事が行なわれているか旅行者には深くは伺い知れませんが、早朝まだ薄暗い6時を過ぎる頃、いつものように、しかし女性は左肩から右に掛ける帯状のパービアンを着用するなど一寸洒落服装をして茣蓙の上に座り、男性は普段と変り映えはせぬものの、洗濯したばかりらしいこざっぱりと見える服装で立ったまま僧侶の托鉢廻りを待ち受けます。僧侶もまたいつものように黄褐色の袈裟で自分のテレトリーを巡回して喜捨を受けていました。僧侶は出家するときには、袈裟、鉄鉢、コップ、剃刀、こうもり傘、それに飲料水中に含まれる虫を飲込んで知らずに殺生戒を犯さぬためのフィルター以外は私物を持てないしきたりなので、特に正月用の晴れ着などある筈もありません。
 住むお寺、ワットには冷蔵庫などしゃれたものはなく、その日に集めた糧は、その日のうちに消費しないと腐ってしまうので、暮も正月も平生通り托鉢を行なわなければおまんまの食い上げとなります。東南アジアのお坊さんたちが一切午後は食事を摂らない習慣も、釈迦が食中毒で涅槃に入った前例からヒントを得た合理的な生活の知恵から発したのかも知れません。
 この日の呼び物はなんと言っても、ワット・タイノイからワット・シェトンまでのメインストリートを練り歩く一大パレードです。
 くそ暑い真夏の盛りにも拘わらず水掛被害防止のため薄手のビニール製レインコートをはおり、大切なカメラには同じくビニールの覆いを被せて、ホテル裏のメインストリートで汗だくになりながら今か今かと待ちうけていると、なんとなくざわざわした雰囲気になると同時にパレードが近づいて来ました。共産圏好みのヤケに大きな肩章を附けた二人の軍人だか警察官が露払いで、横断幕を持った美女3人がパレードの先頭です。そして街のお偉方達、仏像、大太鼓や、それを叩く坊さん、高僧と見えるオジン坊主などを乗せた自動車がそれに続きます。それからフツーの坊さんの一団、気の利いた坊さんは暑気当たり防止に黒いこうもりがさ傘をさして歩いてきます。彼らには流石に遠慮して水攻撃はあまり行なわれないようでした。それから、衰えたりといえどもランサン王国、百万頭の象の国の名に恥じず、たったの3頭ながら日除けの籠座席と赤い衣装をつけた像使いを乗せ、威風堂々、美々しく頭に飾りをつけられた象の登場です。象使いは象の首に乗って手鍵をハンドル代わりに使用して運転せねばならず、折角の籠座席の中は暗くてよく見えないのですがどうやら空席のようでした。象に乗ったことは2、3度ありますが、大揺れに揺れて決して快適な乗り物ではありません。
 象に水を掛ける人はなく、見物人の誰かがバナナを与えると象はヒョイと鼻で受け取りむしゃむしゃと食べながら列を乱すことなく歩み続けます。ついで年に一度この日しか拝顔の栄に浴することが出来ぬプーニューとニャーニューが少しばかり愛想を振り撒きながら歩いてきます。彼らは細い紐状の足まで隠す衣装を着、太い眉毛、ぎょろりとした大きな目、そして真っ白な歯をむき出している赤く塗られた木製の面を被っています。面の口の中ら前方を見ているせいか、厚い衣装の中で蒸れて弱ってしまったせいか登山者仲間でへばった状態を表現する「顎を出した」姿勢で歩いていました。彼らは低地ラオ族に駆逐された先住民族である高地ラオ族の先祖の魂を具現し、そして、彼らの後に従うシンカップ・シンコーンと呼ばれる同じ衣装を着けた金色の獅子頭は高地ラオ族の王様を意味するのだそうです。彼らの姿は日本の東北地方のなまはげと昔は正月に各家庭にを訪問した獅子舞と非常によく似ていますが、子供に恐怖感を与えるような面構えでななく、むしろユーモラスな感じです。
 そのあとがいよいよ、呼び物の「ミス・サンカーン」で選ばれた美人コンテストの優勝者を乗せた山車のお通りです。山車は相当な背丈があるので、道を横切るたるんだ電線にひっからぬ様、用意よく先端が逆三角形をした長い棒を持ったおっさんを左右に従えています。山車はしっぽの羽根を大きく広げた孔雀で、その背中にミス・サンカーンが嫣然と微笑みながら横坐りをしており、左右に準ミス6人が居並ぶという構図です。美女達は皆アップにした髪を後頭部で高く束ね上げ色とりどりの綺麗な紐で纏めています。しかし、本当のことを言うとラオスは美人が少ない国です。ミス達を見ても、はたまたスチュワーデス、もとえ、女性フライトアテンダントを見ても(どーしてスチュワーデスが差別語で、女性のフライトアテンダントなら差別語でないのか私には判りませんが)オジンをもぐぐぐっと奮い立たせるような美人には滅多にお目に掛かりませんでした。目鼻バッチリで彫りの深い鋭的なユーラシア系の顔が今や世界的な美人の標準となっているのですが、彼女等の顔はそのタイプからは縁遠く、と言ってやや鼻べちゃであっても何となくセクシーでキュートなアジア系美人の範疇から眺めても、やはり美人が少ないことは確かです。ベトナムや、タイの女性に見られるような出る所は出、へっこむところはぐっと締まった細身の体型にもあまりお目に掛かれませんでした。まあ良く言えば健康優良児的タイプの美人なのです
 その後、着飾った少女や、一般の参加者がぞろぞろと続き、最後尾は救急車で締めくくっているのですが、順番の記憶に間違いがあるかもしれません。しかし、日本の祭に比べると、一杯飲んで景気をつけ、若き日の気力を取り戻した年寄り衆の団扇や扇子にあふられて大声でわっしょいわっしょいと掛け声を掛けて神輿を担ぐ若い衆の威勢のよさなどがかもし出すハレの日特有の非日常的熱気はあまり感じられず、かなり落ち着いたお祭りで、水掛けばかりがハレの日としてお祭り騒ぎという感じでした。やはり日本人とは国民性が違うのでしょうか。
 多数のガイジンが参加していましたが、日本人は我々のグループ以外殆ど見かけず、大部分は欧米からの白人なのです。地元の住民よりも調子を上げて気勢を上げているのは、若いアメリカ人達でした。一昔前、アメリカ空軍が当時の政府軍と組んで、すぐお隣のジャール平原に多数の爆弾を落して政治に関係の無い無辜のラオス人民を殺戮したこともあり、当時はラオ人同士もまた政府軍と、反政府派、即ち現在政権を握っているラオス愛国戦線と二派に分かれて激しく戦った歴史があり、三つ巴、四つ巴の敵味方が今は仲良く恩讐を越えてお祭り騒ぎをしているのですから奇妙な気がしなでもありません。イスラエルとパレスチナとの終わり無き不毛な復讐劇を見ていると、やはり、これは仏教の影響かもしれませんが、人間の美徳の一つである寛容と愛の精神は、アジア民族の方が他民族より余計に持っていると考えざるを得ません。   ただラオ人が大人しくアヤをつけぬのを幸いとばかり、客人としての分を弁えぬアメリカ人達のノー天気な傍若無人ぶりには礼節を重んじる同じアジア人である我々にはあまり愉快にうつらなかったことは事実です。当地で見られる彼らの騒ぎぶりは、アメリカ人らしい天真爛漫さととれぬこともありませんが、アジア人蔑視の現われと見られないこともありません。
 最後の三日目は、1200年代後半にファーグム王がカンボチヤから持ち帰ったと言われ、平常は旧王宮の王室博物館の奥深くにしまわれ一般には公開されていない秘仏であるパバーン佛が、ワット・マイの本堂前に造られた仮御殿に移動するパレードがありました。我々は同じツアー・グループの写真家、Y氏の示唆に従い、博物館の真正面の道路を隔てた小高い丘の中腹のベンチから俯瞰する場所を占拠して出発を待ちました。やはり玄人の写真家は撮る場所の選択からして上手いものです。しかも彼自身は目障りになる白人の写真家と違ってさながら忍者の如く目立つことなくポイントを押さえた写真を撮っているのです。
 王宮の前庭には、普通の日では見かけぬ民族衣装の白い上着にもんぺ風のズボンを穿いた男性、きらびやかなパービアン着用の女性が見られましたが、彼らは王族の生き残りなのか、王族を殺した側である政府のお偉方なのかはさだかでありませんがいずれにせよ偉いさんなのでしょう。 高僧らしき人は一般人には禁止されている門内まで自動車を乗り入れてのご入場で、やはり共産主義革命を経ても坊さんはいまだ偉いさんであることを物語っています。 ただタイでは今も残っているワイ(両手を合わせて、相手に敬意を表する)の習慣がこの国で消滅したのは、共産政府が、麻薬視した宗教政策上禁止したためだそうです。
 やがて博物館の正門ドアが開き、パバーン佛が担ぎだされました。想像していたよりもかなり小さな坐像で子供神輿の山車よろしく屋根付のきらきらした台座に鎮座されておられます。すったもんだと行列を作るのにかなりの時間がかかりましたが玄関先で王朝時代の兵士姿をはじめとする古式豊かな服装の一隊と坊さんとで隊伍を整え、正門前よリ出発しました。昨日の娯楽的要素が濃厚なパレードよりも、これは宗教的色彩が強く、非常に厳粛な行事であり、勿論子供達も誰一人水などをひっかけません。古式豊かな美々しい行列は絶好の写真の好材料であり、それを絶好の場所から誰に遠慮することも、妨げられることもなく撮影できるのですから、夢中でシャッターを押し続けました。内心これだけ沢山撮影すれば一枚ぐらいこれぞと思う写真が撮れているのではと内心にんまりしていたのですが、なんということでしょう、私のフイルムの装填に不備があったのか、私の宗教心希薄な野次馬根性に御仏が罰を与えられたのか、帰国後現像に出したところ、このフイルムのみ巻き取りが上手く行かなかったらしく現像不可能で長尺の侭で帰ってきました。