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スラウェシ島、旧名セレベス島は赤道直下にあり当地では蘭の花の形をしていると言われている。その北端、マッカサルのSultan
Hasanuddin空港にバリ島デンバザ−ルより1時間と一寸、10時10分に到着した。出来たばかりの目を剥くような近代建築の空港で、デンバザール空港より余程スマートである。ガイドの出迎えを受ける。ガイドは巨大な蜥蜴で有名なコモド島出身マルセル・マリクさんで運転手も同郷らしい。メラネシア系の顔貌だが、カトリック信者だ。聞けば教科書とテープのみの独学で日本語を勉強したという。完璧な日本語を操るばかりでなく、その世界にわたる話題の豊富さと広範な知識には驚かされた。語学の天才、類を見ない記憶力の良さに加えて勉強家なのだろう。これからはマルさんと呼ぶことで相互了解した。
さて、これからがいよいよ目的地のタナトラジャの中心地ランテパオまで320キロ、四輪駆動車で食事休憩を含めて10時間ほどの長旅である。ツアー参加ではなく娘との二人旅なので気が楽だ。
タナトラジャと言う地名は日本ではさほどポピュラーではない。知っている人でも僅かコーヒの産地と言う程度だろう。
この度の旅はもともとの辺地好きに加え遠い昔、この地方特有の舟型をした特種な家屋の写真を見て物珍しく、是非訪ねて見たいとかねてから思っていたのを実現したのだ。傘寿を迎え最近足腰の弱りが身にしみるようになり、人生の旅路の果ても目前に迫り、これが最後の辺地訪問と思い定めての旅であった。
タナトラジャとは山の人と言う意味である。この種族の起源についてはマーレ人系海洋民族説その他があるが、マルさんが人類学者から直接聴いたところでは、トンキン湾地方の中国人子孫の末裔が紀元前3000年前頃に辿りついたらしい。中肉中背で彼等の顔つきには何処かモンゴル系の面影が残っているようだ。いずれの説にしてもあのトンコナンと呼ばれる両端の極端にはねあがった舟型の屋根からみて、どこかからか他の島から流れついた民族であることは間違いない。トラジャ族は、当地方に居住しているのは40万程度で、すべて手作業で狭い限られた範囲の棚田で米作に従事している。残り160万はその為と後述する理由で出稼ぎに出掛けて行く。彼等は近傍に住むブギツ族やマサッカル族に較べて頭脳明晰で勤勉、一族の団結が強く、金のない者には親戚一同が援助してでも教育を受けさせ、卒業後知的産業に従事する者が多いのが自慢だ。当地に居残っている人々は、伝説によればこの地に800年前に、この地方の平坦地中央に屹立する石灰石の峰の頂上にトンコナンを持って天から神が舞い下りて土地の水の女神と結婚したのが当地の王となったと言われている。これはどうやら王家が自身の権威付けの為に脚色創作した話らしい。
マッカサル海峡に沿った道路はわりと整備されており3時間で、パレパレに到着する。中華レストランで昼食を取る。ハタの蒸し物、烏賊の天麩羅、海老のソテーなど新鮮で結構な味だ。インドネシア製のブンタンビアも一寸切れが悪いが呑めぬビールではない。パレパレから道は海岸を離れて峡谷沿いの山岳地帯に入り、高度1000メートル近くのトラジャハイランドに向って次第に高度を上げていく。タナトラジャ地方の中心地ランテパオまで30分ほどの位地には地方空港も有ると言うが、運行が当てにならず、長丁場で時間をかけてでも紺青の空に入道雲、緑の色鮮やかな熱帯林の間を通り抜けてタナトラジャに達するのが正しい行き方だろう。途中なぜかスケベの私がどう想像を逞しても名前の起源と結びつかぬエロチック・マウンテンと呼ばれる浅黄色の角錐形の山が見え、気持ちの良い風が吹き抜けるる茶店で一寸休憩し、7時過ぎに予約してあるトラジャ・ヘリテージホテルに到着した。
このホテルは過去ノボテル・チェーンが建てたが今は経営者が代わっている。本物より立派なトンコナンの外形を模したコテージが十数棟建ち並んでいた。我々は本館と繋がる部屋に泊まった。スペースも十分に取ってあり、内装も鎧戸までもがしっかりとした木造で、トイレに赤い花を浮かしてあったりエスプリたっぷりの洒落たホテルだがバスルームに熱いお湯が出なかったり、食事もこれがフランス系だったホテルの末裔かと驚くほどの不味さであった。英文のガイドブックに「いつもemptyなのが欠点」と痛烈な皮肉が書いてあったが本当だ。確かにその夜も客は数組であった。シェフが下手で料理が不味いから客が寄りつかなくなったのか、客が寄りつかぬから腕の良いシェフを雇えず食事が不味くなったのかは神のみぞ知ることだ。この地方の観光客は日本人が少なく何故かフランス人が多いとのことである。これは一つには両国のバカンス期間とその過し方の差から来ているのかも知れぬ。この日もフランス人一行が泊まっており、お国柄かビールなどは飲まずワインなんぞを嗜んでおった。食後ぬるい風呂に入って風邪を引かぬようにトッケーの鳴声を聞きながらただちにベッドに潜り込む。年寄には風邪は死病となる。ましてや鳥インフルエンザなどと誤診されたら大事だ。
翌日9時にガイドとロビ−で落合い2日間のトラジャ訪問の予定を聴いて出発する。
山中のあちこちに固まってある多くの部落を訪問したが、どれもこれも舟方住宅と懸崖の墓所めぐりで、それぞれに特徴があり興味は尽きぬものの所変わって品変わらずの感も無きにしもあらずで、総括的にそれらの様子を述べることにする。
11月から雨季と言うことだったが、夕方からスコールが降るが観光に差し支えることもなく、高原である為、赤道直下近くでも特に暑いと感じたこともなかった。
彼等の両端が鋭く反りあがって前後に突出した舟形住居は必ず創造主の国があると信じられている北向きに建てられている。寝る時は北枕で、死亡すると祖先達が天に住んでいる南枕となるそうだ。住居は座る場所を意味するトンナンと呼ばれ、道路を隔ててトンナンの真正面に建てられているやや小ぶりだが同じ形式の家はアランと呼ばれる穀倉である。ともに屋根は竹を縦割りにして並べて覆うのが正式だが、最近はトタン板で代用していることが多い。 長持ちをすることと費用節約のためらしいが風情が損なわれること夥しい。ただこれらの突出部を造るには建築もそれなりに難しく、費用も掛かるだろうが彼等はこの形式の住居を捨てようとはしない。双方ともに高床式だがその支柱がトンナンは四角く、アランは丸いのが決まりだ。アランの正面には鶏と太陽の画がよく見られる。これは穀物を害虫から守る意味で描かれたものである。双方の壁には種々の独特な水牛を含む特有な画が描かれている。トンナンの正面には木製の水牛の頭が飾られていることが多い。水牛は彼等部族のシンボルなのだ。蛇の姿を飾ることが出来るのは身分の高い家のみだそうだ。
トンナン正面には数多くの水牛の角がずらりと天井近くから縦に数珠繋ぎに並べられている家がある。これは葬儀の時に生贄として捧げられた水牛の角で、数が多ければ多いほど、多くの縁者から生贄が供えられたことを意味し、その家が旧家で身分の高いことの証明となる。水牛を供えるだけの蓄えのない人は豚を、もっと金のない人でも鶏の一羽も供えるのが礼儀だと言う。今でも部落毎に首長から奴隷にいたる身分制度は厳格に守られているらしい。水牛は角の大きいものや、滅多に生まれぬ白地に黒い斑のあるのが高価で1頭100万円を越えるそうだ。 この地方の平均物価から考えて目の飛び出るほどの値段である。このような高価な水牛は、生贄専用に飼育されていて労働に従事させこともなく、明日の運命も知らず、のほほんと毎日を暮している。水牛の角の数珠繋ぎでも判る事だが、トラジャ族にとっては死とその葬儀は亡くなった本人のみならず、家族、縁者にとっても人生最大最高のイベントである。彼等の人生は家族の葬儀をいかに盛大にするかという目的の為に生きていると言っても過言ではない。They
live to dieと言われる所以である。そのため、金が十分ではない親族は遠く島外まで稼ぎに出掛けてでも金を貯めて立派な水牛を購う必要があり、死亡から葬儀まで時間が掛かるのは親戚一同が犠牲を供える用意、即ち金が貯まるのを待ってから行われるからである。それにも間に合わない者は借金までして犠牲を買い、その子供が必ず後で払う習慣があるそうだ。特に王族では盛大な葬儀にその家族の威信がかかっているのだ。1ケ所王族の数十のトンコナンが建ち並んだ葬儀場跡を見学した。
まず人が死ぬと、葬儀屋が大量の酢などを口から垂らし込むなど昔からの秘法で防腐処置を施し、赤い布で包み、生きているときと同様に住居内に置き、朝夕の食事を捧げる。長く置いても決して匂ったり蛆が湧いたりせず、ミイラ状になるらしい。そして葬儀万端の準備を整えるのだ。我々が訪れたのは11月初旬であったが、高貴な身分の方が数週間だか数ヶ月前だか前に亡くなられたので、12月の15日に葬儀が行われる予定で、葬儀にこの島のみならず他島からも参列する多くの親類縁者を泊めるためのトンコナン式家屋を新築し、死者の棺を運ぶための小型トンコナン形のお神輿を思わせる担ぎ台も創作中であった。 担ぎ台は一度使用すると墓場近くに放棄される。これでは遺族も葬儀参列者もともども莫大な費用がかかるに違いない。すべての準備を完璧に整えるために、死後5年もたってから葬儀が行われることもあったとのことである。葬儀は水牛を始めとする生贄を殺して死者に捧げ、その肉は皆に分配する。生贄の数が多ければ多いほど権力が誇示できるのだ。大きな葬儀では水牛を100頭以上殺すという。犠牲の水牛には16ドル豚には9ドルの税金が寄進者に掛かり、その金は地方政府、教会、村役場に山分けされる決まりだが相当な金額となる筈である。犠牲は一刀のもとに頚動脈を切断されて血の海に横たわり、即座にあの世行きとなる。
唄あり踊りあり闘牛ありで大きな葬儀では1週間ぐらい続くことも稀ではないとのことだ。ある部落では昔から生贄を殺戮するために繋ぐ大きな石が保存してあった。そこでは後の森の中から、石を彫り出す槌の音が聞えてきた。近々葬儀があるのだろう。
死者の埋葬は部落近くの石灰石懸崖の自然洞窟を使用するか、有力者はそこに新しい四角い穴を態々穿って納めるのだ。新たに穴を穿つ時にもルールがあり、先に亡くなられた方との身分の上下差によって崖の高い所にするか低い所を選ぶかを考えて穴を穿つ。 洞窟内を見学すると腐りかかった棺柩から骨が零れ落ちたり、頭蓋骨や大腿骨などがあちこちに散乱していたりで、あとあとの面倒まではあまり見る気はないらしい。それでも小型の刳り舟に白骨が一杯積んであるのも見かけた。遠い海を越えてはるばる渡って来た祖先の国に送り帰す意図だろう。
また必ずタオタオと呼ばれる故人の木像が造られ、埋葬地の崖にベランダ風の浅い窪みを作ってずらりと並べられている。立像もあれば坐像もある。昔のタオタオは素朴で荒削りだが、最近のタオタオは次第に進化して故人そっくりとなり、 目鏡までかけさせている。皆大きな目をしており、子孫達の行動を見守っているのだ。これらの像をこっそりと盗み出して国外で売り渡そうとしたフランス人がいて、空港で捕まって重い罰金と監獄入りとなったと聴いた。
乳児の場合は一人が死亡し、続けて次ぎの乳児までが死亡すると、これ以上不幸が続かぬよう大木に穴をあけて葬る習慣がある。この木はミルク状の白い樹液を多量に含んでいるので乳児がいつも乳の代わりに飲むことが出来ると言う発想から生まれ、木葬と言うべきか、珍しい習慣だ。
昔は首狩の習慣があり、アニミズムを信じていたが、現在は大部分がキリスト教に帰依しており、教会もあちこちに建てられていた。葬儀と埋葬はトンコナン形式の住居とともに古代からこの族の根強い習慣であり現在でも葬儀は神父と土地のシャーマンの両者が共同して執り行うという。墓所には十字架も散見された。なにはともあれ、首狩の習慣もあったこの山間僻地に、生命の危険に晒されながら布教にやってきた神父たちの情熱はやはり偉大だ。今でこそ、トラジャ地方はただ珍しい習慣を持続する部族の住む場所であり、秘境と呼べる雰囲気ではないが、昔のこのハイランドは白人は勿論、海岸部の他部族との付き合いも無く、隔絶した文字通りの秘境であったに違いない。大した修行や勉強もせず妻帯し酒も飲み、葬式料と戒名料で稼いでいる現在の日本仏教の僧侶たちも少しは神父たちの精神を見習うべきだ。
昼食に土地の料理として、真っ黒な豚の角煮と米に鶏や野菜を詰めて竹の皮で包んで蒸したものが出たが、決して舌鼓を打つほどではないがホテルの料理よりもひなびた味であっても美味かった。
どの部落でも観光客用の素朴なトンコナやタオタオのミニチュアなどを売る店もあったが、押しつけがましく売りつけることは少なく、部落見学入場料チケット売場も見受けられたが、無人の場合も多く、まだ観光地特有のがめつさはなかった。
博学で親切なガイドに当たり、大満足で2日間にわたる見学が終り、翌日は16:20マッカサル発の便に乗るため、ヨーロピアン・スタイルの簡単な朝食をかき込んで、予定通り6時にホテルを出発した。帰路の山道で、アランのみを残し、トンナンの方は近代的洋式の建築に建て変えている家も、二、三散見された。長い海外生活を続け、金を稼いで帰郷した人達はやはり、一家だけでなく、一族で住むらしい旧態そのものの住居には住みにくいのだろうと想像した。無理もないことではある。私は見損ねたが、舟形の出っ張り屋根の代わりに旅客機の前部を模した家を娘は車中から見たと言う。恐らく機長その他航空事業関係者が引退後建てたに違いなく近代化の波がひたひたと当地まで押し寄せているらしい。エロチック・マウンテンでまた少憩する。ここでガイドがアツアツの生姜汁を美味そうに飲んでいたので、我々親子もそれつられて試みてみた。日本の生姜湯とことなり、より甘くてもったりとした味だった。飲み終わってから内容を確認すると、生姜汁に生卵を混ぜてあったのだ。一瞬、鳥インフルエンザ感染が頭に浮かんだが、帰国後親子揃って元気で生きているところをみると、どーってこともなかったらしい。
トラジャハイランドから下りブキス族マッカサル族の住むあたりになると、住居の棟木の両端に水牛の角を表す飾りと魚の尻尾を表す飾りがあることに気が付いた。前者は農民の、後者は漁民の出であることを示すシンボルだそうだ。魚の養殖も盛んで、あちこちに池が見られた。混住していながら昔は両者が婚姻関係を結ぶことすらなかったと言う。
また家屋正面の破風―棟木から軒までの間の三角形の部分―に4本から無印まで横線が描かれていて、 それが階級身分を表しており4本は王族、貴族、平民と順に本数が減り無印は奴隷階級だという。女性は身分の下のクラスとの結婚が禁じられているので、王族、貴族階級では適当な伴侶が見付からず止む得をえず独身で一生を暮す女性も多いと聴いた。タナトラジャでも身分制度が喧しかったが、ここでも同じような制度が現在でも生きているには驚いた。しかし、色々と変わったデザインがある水牛や魚の尻尾やら、横線の数を読み、階級と貧富との関係などを調べて飽きることなく楽しんでいるうちに無事Sultan
Hasanuddin空港に到着した。4本線の家は一軒だけ道路沿いにあり、この地方の王様の子孫が住んでいるとのことで、大きな木造本格建築ですべて木目を見せたまま褐色に塗装されており、洗練された趣味の良さは流石!と思わせるものがあった。海岸部はムスリムが大部分で時刻ごとにアザーンがミナレットから響いてくる。マルさんによれは、キリスト教を信じる旧宗主国のオランダ人は収奪するばかりでなにものも現地人に与えてくれなかったが、ムスリムのアラブ人はgive
and takeの貿易商売関係なので、皆がイスラムに改宗したとの話だった。すべては金の世の中だ。現在使用されているインドネシア語は一番人口が多く勢力のあるジャワ語を採用せず、スマトラ東部の言葉を標準語としたので国家と国語の統一が成功したとのことである。マレー人のと会話も可能だそうで、なかなかの知恵者がいたものだ。
スラマットティンガル、スラウェシ。
テレマカシ、マルさん。
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