さて、一生一代の大旅行、世界一周クルーズに出発することとなった。永年の夢が実現、廉いピースボートでの旅であろうとも、老後の資産が減ろうとも年甲斐もなく「嬉しいなあー」の一言に尽きる。古式床しき五色のテープだ。「蛍の光」だ。万歳だ。 
 嵐のため、東京晴海出発が一日遅延した。遠州灘や熊野灘の難所を越えるのを避けたようだ。ポートピア・アイランドの隣、六甲アイランドに住む我々は出鼻を挫かれた感じぐらいでよいとしても、地方からの船客の中には予定変更で色々困ったことがあったのではないかと想像する。トパーズ号がダグボートに押されての着岸を見てほっとしたことであった。意外に大きな船で、紺の煙突と白い舷側にピースボートと大書されている。
 通関を終えて乗船だ。7階の私達の狭いキャビンには宅急便で送っておいた7個の荷物が既に到着おり足の踏み場もない有様だった。

台湾―基隆 時代の流れで船舶の入港が減ったのか、あまり活気の有る港町とは言えず、なんとなく寂れた感じが否めない。
 ガイドブックにはホテルと記載されていても木賃宿に毛の生えた程度だったには驚く。船客も船員もこの街を素通りして、台平まで足を伸ばすのかもしれぬ。未成年の船客二人が台平まで出掛けて帰船時間に遅れ、船は出て行く、煙は残るの目にあったらしい。
 適当な飯店、餐庁の類を探したが、私向きであっても女房のお気に召さず、苦心の末、探し当てた大飯店も本日は宴会専用だった。それでも別室で料理にありつけたのは台湾流サービスのお陰だろう。葵味噌をつけて食らう殻つき茹蝦の料理は絶妙のとり合わせであり、宴会料理を造った残りか魚のあらと昆布のスープも結構なお味であった。多謝。

ダナン−ベトナム 出航の一日遅れを取返すため、二日停泊予定が一日となった。
 予定のホイアンの日本人街散策ツアーを諦め、ダナンで一番美味いミークアンを食わせると評判の、その名もずばりミークアンという店に行く。いま・いくよ、くるよを伴った日本のテレビ隊と出合う。5000ドンの蝦入りを食ったが日本人にとってはまあまあの味だった。帰途、船までの無料バスが運行されていると聞いたので、ピースボートと地元の若者達との交流会に立ち寄る。お互いに歌や踊りの交換、相当に盛り上がっており、ピース、ピースの大合唱だ。
 ベトナムで一番嫌われている外国人はアメリカ人ではなく、韓国人だという話を聞いた。当地に生産工場を持つ韓国人は、怒るとすぐ興奮して従業員に手を上げるのだそうだ。韓国では日本の従軍慰安婦?問題で難癖を付けるがベトナム戦争に参加した韓国軍兵士の性処理は、無理なくこなせたのだろうか。

シンガポール−シンガポール スタークルーズ乗船で馴染みになったセントーサ行きのケーブルカーが頭上を走るワールドトレードセンター内の埠頭に着く。グランドハイアットホテル内の中華料理レストラントで昼食をとる。中華料理のメニューからのオーダーも最近はかなり堂に行ってきた。このクラスの店で、下手に老酒を頼むと、おどろおどろしい値段の酒をサーブされる恐れがあり、ビールで我慢する。食後オーチャードロードの伊勢丹で、先日無くした時計の代りにオメガ・コンステレーションを購入した。女房のとお揃いで買う。百貨店にも拘わらず、大幅な値引きをしてくれた。帰国の暁、日本の伊勢丹で買った場合とどれ程の違いかが楽しみだ。

チエンナイ−インド 旧名マドラスである。なにしろ暑い国なので、街の中をふらつく気もせず「マハーバリプラムの海岸寺院へ」と言うツアーに乗っかる。バスが港で待ってくれているのだ。旅人としては堕落だが、歳を取った最近では、ツアーまたよしと言う心境となった。アルジェナの苦行、クリシュナのバターボール、海岸寺院を廻る。 
 地元のガイドに、ここではTATAの車が少ないねと言ったら、「あれは北インドの車ですからね」と南部に多いインドの原住民族バルビタ族特有の色黒くして東洋的顔貌を歪ませて答えてくれた。骨がらみの宿痾カースト制度に加えて人種、宗教、天文学的差がある貧富が存在するこの国で、その上に北部と南部の地域対立まであっては、いくら気の遠くなる昔に0を発見し、現代ではコンピューター世界で、その才能故引く手数多というインド人をもってしても、まだまだ完全な発展国に成長するには、日暮れて道遠しの感がないでもない。

コロンボ−スリランカ なぜ仏教が発祥の地インドで衰退の一途を辿り、この南の果ての島で栄えたのか不思議なことだ。
 何はともあれ、インドに比べると清潔な感じがする。カースト制度も貧富の差も、インド程酷くはないという。中、高校生にあたるらしい学生達も、男子は髪を刈り上げて櫛目を通し、女子は密編みか長い髪を肩まで垂らし、男女とも上下真っ白な制服をキチンと着こなしている。茶髪など論外だ。太いズボンをだらしなくずり下げたり、パンツ丸見えのミニ・スカートで娼婦まがいの化粧を車内でする日本の学生と残念ながら大違いである。
 ウダワラエ国立公園のサファリに出掛ける。今夜は満月で、当地では宗教的タブーとして飲酒は禁じられているそうだ。我々は外人ということでビールが飲めた。アフリカのサファリに比べると動物の種類も数も少ない。最後に象の大群に遭遇したのが最大の収穫であった。成る程アフリカ象に較べて耳が小さい。

マッサワ−エリトリア 日本には馴染みの薄い国で、紅海の入口にある。港からマッサワの市街まで目と鼻の先で、治安も良さそうだし、自由行動を取る。
 エリトリアの独立を許せば内陸国となるエチオピアとしては猛反対、独立勢力との激しい戦争があったらしい。爆撃か砲撃かは定かでないが、市内の至るところに弾痕の跡があり、モスクらしい建物も惨たらしく破壊されていた。住民達は髪の毛の縮れたアフリカ系のブラックで、子供達は人懐っこく、写真を撮ってくれとせがむが金をせびることはない。
 港の見えるホテルで海からの微風に吹かれながら昼食をとる。行きのタクシーでは少々ぼられたので、ホテルからタクシーを頼んだら、親切にもオナーらしき夫人が自家用車で船まで送ってくれた。
 しかし、この新興国は苦しくとも他国の援助を受けずに建国を進める方針で、これはやはり冷戦下で旧ソ連の尻馬に乗って革命を起したエチオピアの苦い経験を踏まえてのことであろう。エチオピア人民も、まだ王様がいらした頃の方が幸せだったようだ。塾祖福沢先生の教え「独立自尊」こそ尊けれ。

スエズ運河−エジブト パナマ運河とは異なり、閘門もなければ何も無く、淡々と砂漠の中を切り開いた運河である。
パナマ運河よりも長い。左岸、即ちナイル川寄りは緑の陰が濃く、モスクを中心とする街も散見したが、右岸、シナイ半島側は全くの無人砂漠といってよい。既に右岸開発のため日本の技術的だか金銭的だかの援助でポートサイド近くに橋が一本架っているが、もう一本を建設中と聞いた。不思議なことに日中の航海にも拘わらず、湖の部分でも一隻の対向船も見かけなかった。この運河を老獪英国から政治力で奪い取ったエジブトのナセルは大した政治家だ。

ポートサイド−エジブト ギザのピラミッドもルクソールの神殿も既に見たことだし、「カイロの裏町散歩」のツアーに参加する。 
 ポートサイドからカイロまで三時間、相当の距離だ。日本人も殺されたテロ事件で懲りたのか、バスの中にも警官同乗、バスの前後にもパトカーが付くと言うものものしい護衛付きのツアーだった。
 カイロ市内のハン・ハリーリ・バザールで土産物を探す。あちこちの店から「見るだけ」「見るだけ」の声が掛かる。なるべく呼び込みのない店を選び、エジブト人流にゆっくり店先に坐って値段交渉を始める。帰船時間一杯で埠頭に着き、ギャングウエイ近くで、売り急ぐベンダーの足下をみて2ドルを鼻先に着きつけ駱駝の玩具3匹を強引に購う。敵も高く売付けるのが商売なら、こっちも値切るのが商売だ。「てーしたもんだよ、屋根屋の褌」その心は見上げるばかり。

イスタンプール−トルコ なにしろ、1ヶ月シャワーのみであったので、どうしても風呂に入りたく船中より予約したハイアットリーゼンシーホテルにまず赴く。ツインで二万円程度だったが、東京の同名ホテルに較べると部屋もバスルームも驚くほどの広さで豪華だ。のびのびと湯に浸かる。夕食は女房のたっての願い隣の日本料理店で摂る。不味い。それに較べてホテルのビッフェスタイルの朝食は、紅茶一つにしてもティーバッグなど無粋なものは使わず紅茶を直接ティーポットに入れて出す本格派で、パンもサービスも満点だった。
 翌日、お目当てだったグランドバザールは日曜日でお休みだ。あまりに壮大なので地下宮殿と呼ばれるローマ時代に造られた地下貯水地を見に行く。300本を越すビザンチン形式の柱の下に今も尚清らかな水を湛えており、ローマ文明の素晴らしさを如実に現した施設だ。側壁に写るスライド画像が折角の尊厳さを壊していたのは残念至極である。

ドブロニク−クロアチア ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるバルカン半島に位置し、政治的思惑、民族と宗教で三つ巴、四つ巴となって揉めている国で、それでいてサッカーが強いという訳の判らぬ国がクロアチアである。
 ドブロニクは紺碧のアドリア海に面する強固な城砦に囲まれた中世の生きた化石的都市である。この度の寄港が無ければ一生訪ねることのなかった街であろう。城壁に登ると、中央を貫くプラツァ通りをはさみ黄褐色の屋根、白い壁で統一された市内がミニチュアー細工の趣で見下ろせた。同じ中世都市プラハも好きな街だが、この街のほうがこじんまりと纏まった感じである。
 翌日は「アドリア海クルーズとオイスター」なるツアー参加、海が強風で荒れてクルーズは中止となったが、そのかわりお代わり自由の生牡蠣をケチャップ、レモン、タバスコで大量に貪り食った。牡蠣は眼前の海からのとれとれで日本のものより殻が薄く、身も小粒で締った味がした。日本の大きな養殖牡蠣より余程美味い。アドリア海の対岸はイタリアで、海沿いのアスコリ・ピチエーノという小都市を十数年前訪ねたことを思い出した。

ナポリ−イタリア 悪名高きドロボー都市である。同船のさる御夫人は引ったくりに逢い引き倒され怪我をなさった由である。
 何度もイタリアを訪問しながら機会を逸したポンペイの遺跡観光に出掛ける。想像を絶する大規模な市街で、現代の都市に必要とされる施設はすべて揃っている。売春宿まで揃っていた。梅毒やエイズはまだなかった時代だが、やはり性病はあったらしく、治療法を書いた文献があったとのガイドの話だった。

アルジェ−アルゼリア この地もピースボートならではの訪問地であった。アルジェ港に観光船が入港するのは、十数年ぶりとかで、大臣まで挨拶に出てくる歓迎振りである。ここは一人歩きを避けて下さいとのお触れが出た上、何と言ってもアルジェリアと言えばカスバだ! カスバと言えば女だ! 女と言え外人部隊だ!白い服だ!と迷わず「アルジェ市内とカスバ散策」ツア−を選んだ。
 ツアーバスはここもまた前後にパトカー付きの厳重警護で、VIPなみに一般人の交通を止め、サイレンを鳴らしてのつっぱしりである。日暮れ時にラマダンで腹を空かして一刻も早く家に帰りたい現地の方々に「何様だ。なに日本人だと。この野郎!」と反感を買わないだろうかとそれのみが心配であった。
 カスバの女は婆ばかりだった。

ジブラルタル海峡 広い地中海の唯一の出口である。後甲板の酒場「波へい」に陣取って酒を飲みのみ海峡を通過することにする。スエズ運河通過時には甲板は鈴なりの人出だったが、この海峡には皆あまり興味がないらしく、ゆっくり杯を傾けた。幅14キロしかなく、大きな池とも言える地中海からの急激な潮の流れがあってしかるべきと考えたのだがその様子もない。訊けば目に見えぬ海底流が大西洋に向けて流れているそうな。どこが英領ジブラルタルだか、スペインだか、モロッコだか教えてくれる人もなく、両岸のちらちら光る街の燈を交互に眺め、狭い海峡であることを実感しただけで大満足だった。なぜ大満足だったのかは自分でも判らぬ。

カサブランカ−モロッコ 再訪地である。名画「カサブランカ」の舞台のカサブランカは、いまや品代わりで、近代都市となり、リックの店はホテルの一部に再現されているが、ハンフリー・ボガードが今下痢しましたというツラのウエイターがトレンチコートを売りつけるとの噂で興味はなく、マラケッシュの昔罪人の処刑地、「死人の広場」ジャマ・エル・フナ広場を女房に見せたくて遠路出掛けることにした。真っ赤な服装の水売りが近づいてくる。彼等も後継者難なのか、年齢がどんどんと上がってきたようだ。夕暮れになると疲れたのか椅子にへたりこんでいる。もうあまりゼニにならぬのか憐れな姿である。有名だった大道芸人の数も減り、芸にも見るべきものがなかった。こちらも後継者難かも。
 食いもの屋を含む露店の方は相変わらずの賑わいで、若い店員も多く世代交替も順調らしい。広場正面にある喫茶店の二階に腰を据えて、露店からの煙で白く煙った広場を眺め、うつせみの時の流れを顧みたことであった。

ラスパルモス−スペイン 広大なアフリカ大陸の大西洋側にチョッピリと黒子のように浮かんでいるのがカナリア諸島である。歌を忘れたカナリアではなく、カナリアとはスペイン語で犬を意味し、スペイン人が上陸したとき犬の鳴声が聞えたことにちなんだ名前だそうだ。我々には馴染みが薄いがヨーロッパでは有名な避寒地らしい。バスで島内を一周、死火山を中心としてある所はアフリカ風、ある所はヨーロッパ風と、地勢や植物が場所によって大幅に変化する。有名な砂丘は一木一草さえ見当たらぬ広大な砂の山並みが延々と連なり、果ては紺碧の海に消えていた。

ブリッジタウン−バルバドス 波靜かにしてタイタニック号の初航海と異なり、氷山の一片さえ見えぬ大西洋を7日かけて横断し、中南米の最初の上陸地であるブリッジタウンに入港した。
 当地の住民の大部分は砂糖黍栽培の大規模なプランテーションで労働に従事させるためアフリカから連れて来られた奴隷の子孫である。大英帝国海軍ではラム酒を毎日水兵達に飲ます伝統があり、日の没するときなき大英帝国の護りには当地の砂糖黍から造られたラム酒が大貢献をしていたことになる。
 ここでは趣向を変えて潜水艦に乗ることにした。潜水艦と言っても48人乗りの観光客用の船だがきっちりとハッチを閉めて30フィート超える深さまで潜る。艦内には中央に左右2列の椅子が並んでおり、防水窓を通して外部が見られる仕掛けである。このあたりのカリブ海は期待に反し魚も珊瑚もそれほどカラフルでなく、海水の透明度もいま一つだった。ご当地名産ラム酒を、酒好きの友人の顔を頭に浮かべながら数本土産に購入する。

ラグアイラ−ベネスラ 秘境好きには垂涎の地がギアナ高地である。しかし、なにしろベネスラという、個人旅行者には厄介な土地にあり、旅行社のツアーに参加すると五十万を越える料金が設定されており、一寸やそっとで日本から行ける場所ではない。
 このクルーズのオプシナル・ツアー料金の設定は必ずしも廉いとは言えぬのが実感だが、「秘境ギアナ高地とエンジェルの滝」ツアー の一泊二日9、8000円は日本からの出発と較べ、クルーズ旅行の利点を生かしたお得な料金設定だった。
 テーブルマウンテンを遠景にカナマイ湖に流れ込む大滝が左岸に見られるロッヂに一泊した。水底の腐木から出るタンニン酸でやや黒ずんだ湖の周遊や、かなり急峻な道を這い登る熱帯樹林トレッキングの途中、びしょ濡れになりながらの滝くぐりの経験など、短時間のうちにギアナ高地の醍醐味を満喫した。おまけにトレッキング中の無理な姿勢の登攀で歪んだ脊椎が矯正されたのか、持病となっていた坐骨神経痛が綺麗さっぱりと治癒してしまったのには驚くよりも有難かった。
 帰路空から見られる予定だったお目当てのエンゼルの滝は、我々の搭乗機が気象状況悪化のため近づくことが出来ず、見送ってしまったのは再訪の機会がないと思われるだけに至極残念であった。

カルタヘナ−コロンビア 有名な誘拐の生産地である。単独行動など沙汰の限りだ。「マングロープの森でのんびり」ツアーに参加する。
 途中カルタヘナ市内で英国人海賊の攻撃を防ぐ目的で建設されたサンフェルベ要塞に立ち寄った。カーブを描く壮大な立体感の城壁は壮大の一語、大阪城の石垣など物の数ではない。しかし、当地よりの強奪品をヨーロッパ人同士が更に強奪しようとするのを防ぐための要塞で、自分達から強奪した財宝を護るため、原住民、奴隷の死亡者続出という犠牲を払って建てられこの城砦は、彼等にとっては恨みの対象以外何物でもあるまい。
 汽水域らしい浅いが広大な湖に繁茂しているマングロープの林の中、両側の枝がピシピシと顔にあたる狭い水路を、安定の悪い丸木船で渉っていく。年代物の船なので、素晴らしい勢いで水漏れし、汲み出すのに必死であった。最近はこのような丸木船が造れるような巨木も技術もなくなったのかも知れぬ。帰途、アフリカからの奴隷の子孫のみが住む海岸べりの貧しげな部落を通る。ここでも原住民との間に差別問題があるようだ。

パナマ運河−パナマ 眉目秀麗、頭脳明晰、将来を嘱望された若き青年医師が希望に満ちて帰国の途に、と書きたいところだが、残念ながらそのような表現からほど遠かった存在のあっしが、米国留学の帰途草臥れ果てて通過したパナマ運河を四十年後再び元気で生きて通れたことは望外の喜びであった。
 この運河は1914年の開通であるから私より15歳年上で、当時からの閘門がまだ現役で使用されていると聞いて驚いた。変ったことと言えばガツン湖からミラフローレス湖を結ぶゲイラードカットが直線化、増幅され、蛍光灯がとり付けられて対面同時通行、夜間運行が可能となったことである。前回通過時には、ゲイラードカットは狭く、甲板から手の届きそうな場所に熱帯樹が枝を延ばしていた記憶がある。パナマ共和国では管理能力に問題ありと難癖をつけられて米国から返還を拒否されていたにも拘わらず、強引に運河を奪い取っただけに、パナマ政府としては意地でも過ちがないようにその運営に力をそそいでいるらしい。ちなみに船を引っ張り上げるディーゼル機関車は三菱重工の製作だそうだ。

アカフトラ−エル・サルバドル 何の手違いか給油に手間取り、当地に二日の滞在予定が一日となり、予定していたティカルの遺跡行きは取りやめとなった。治安に問題があり「ぐるっとエル・サルバドルめぐり」ツアーでお茶を濁すことにする。訪れた発掘された遺跡は説明書に中南米のポンペイと書かれていたが、すべてが屋根で覆えるほどの小規模さ、誇大広告もよいところだった。
 サン・サルバドルの教会にも立ち寄ったが、帽子さえ取らず、祭壇と祈りを捧げている信者の間を無遠慮に横切ったり、所構わずフラッシュライトで写真を撮ったり、宗教心のない日本人の感覚にはいつも恥ずかしい思いをする。難しい礼儀ではない。常識で考えれば自ずから判ることだ。

サンフランシシコ−アメリカ合衆国 三度目の訪問だ。ヨセミテ国立公園まで足を伸ばす。規模の大きい自然環境をしっかりと護りながら、しかも人間が快適に楽しめる施設が整っているには感心した。
 頚が痛くなるほど見上げねばならぬ1000メートル単位の垂直に近い大岩壁を眺めていると、かっての山男は、やはり無意識に登攀ルートを探している。トラバースが難しい岩場だ。谷川岳の薄暗く湿った岩壁なんぞは「めーじゃない」感じだ。晴れた日にこんな岩場を登ってハーケンが唄うのをもう一度聞きたいと心底思う。夢のまた夢、決してかなわぬ夢のなのだが。歳は取りたくないものだ。
 初めてロッジ近くでヨコーテを見る。なんだか意地悪そうで気持ちの悪い動物だった。 
 園内のゴミ捨て場はすべて中身を熊に食われぬよう厚い蓋がしてあった。熊が一撃すると車のドアなど簡単に壊されるそうだ。
 サンフランシシコに帰着後、フィシャーマン・ワーフでクラムチャウダーと茹で蟹を食らう。
 霧と坂の多い街だ。

ハワイ−アメリカ合衆国 ハワイは初訪問である。私は流しのギターの爪弾きで「あぁ、憧れのハワイ航路」を新宿のうらびれた呑み屋で、おやじがサービスとしてコップの受皿に零してくれた焼酎をしぶとく啜りながら聴いた覚えがある。あの頃の日本は、国も貧しければ学生も貧しかった。焼酎の一滴は血の一滴だった。実際血を売って酒を呑む奴もいたほどだ。ハワイ行きなぞ夢の世界の話だった。あの時代の僻み根性の故か、それ以後も、なんとなくハワイは芸人や金持の行く所として敬遠し、訪ねる気になれなかった場所だった。しかし、今回の寄港してみて、あの乾いた風の爽やかさに触れた時、ふと満更ではなく、最早マリンスポーツを楽しむ歳ではないものの、老人は老人なりに気安く楽しめるような気がしたのは落目になった証拠か。
 戦中育ちの一人としてアリゾナ博物館を訪問する。しかし、肝心のアリゾナの沈没した上に建てられた記念館は訪れず、真珠湾攻撃その他の写真や記念物を展示してある対岸の建物にのみに足を運んだ。理由はともあれ不意打をくらって戦死した乗員を思うと、憎き日本人に土足で遺体の上を歩かれることは、決して愉快ではなかろうとの心使いである。惻隠の情だ。武士の情けだ。
 ハワイと晴海との11日間がもっとも長くて退屈したコースだった。またまた海が荒れて、老齢のトパーズ号は最高速度の21ノットはおろか、16、7ノットでのろのろ運転、晴海着が一日遅れ、その結果神戸までの運行は中止となり、神戸で下船予定の船客は晴海で下船する始末になった。まあ、これもトパーズ号ではしっかたなかんべと諦めたものの、もう引退した方が貴嬢のためにも乗客のためにも、お互いの仕合せというもんだとの氣がしないでもない。仕事と情事は引き際が大事だよ。
 For good Topaz!