ぶ ら ボ ラ 体 験 談

 このページでは、国際交流ボランティアとして活動するなかで体験したいろんなエピソードを公開して、これからの活動に役立てて行きたいと思っています。




「日本語交流ボランティア」
ペンネーム「No.49」
私は、「日本語交流ボランティア」をしています。
週に一度の「日本語交流ボランティア」で、 外国人(現在、インドネシア人と中国人)の「日本語学習のサポート」をしていますが、自分の「国語力」の無さを痛感しています。
「日本語学習のサポート」と言っても日本語を教える程の知識が無いので、日本語学習テキストを利用しての雑談の様なものです。
しかし、彼ら外国人学習者の日本語は短い期間に目に見えて上達していき感心させられます。
又、「日本語交流ボランティア」をしていると彼ら学習者の「思想や歴史・文化」に触れる事があります。
そんな時は、ほんの少しですが、自分自身
の世界観の変化を感じたりします。
そこが、「日本語交流ボランティア」をしていて、彼ら学習者とコミュニケーションをとる事の楽しいところです。

「エルファンと私」
ペンネーム「あき」
日本語のボランティアを始めたのは、2000年の夏ぐらいの事です。
ボランティアというと大変重い印象のように聞こえてきそうですが、私自身はボランティアをしているというより単に日本語で会話をして いるという良くも悪くも軽い感覚で通っていました。
生徒さんの名前はエルファン(仮称)というインドネシア出身の男性で、最初に彼と出会った時の印象は「うわぁー!ゴムの木が似合いそ うな人だなぁ」という何とも不謹慎な事を考えてしまった事をよく憶えています。肌は黒く、髪はアフロ風でいかにも熱帯の人って感じで、今まで話した事もない人種の人を目のあたりにして一瞬「無事にやっていけるかなぁ・・」という事を考えてしまいました。でも、そんな心配事をみごとにうち砕いてくれたのは、敵意のない彼の突き抜けるような笑顔でした。「なんでこんな素敵な笑顔が出来るんだろう?」濁った私の最初の疑問でした。こんな事を意識すること自体おかしな事なのに、それまで考える事がなかったのは、日本人だからなのでしょうか?それとも現代人だからなのでしょうか?それとも・・・

研修生として日本で働いている彼は、製品の外装塗装を担当しており、真夏には40度以上の高温になる過酷な仕事をしていました。故郷の家族に送金するためとはいえ日本人が嫌がる仕事を安い賃金でこなす彼の姿は、私の目には新鮮に見えました。それとは対照的に嫌がる仕事を逃げている日本人の話が、同じ日本人の私とたぶって聞こえてしまい悲しくなってしまった感情が今でも思い出されます。でも実際は安い賃金とはいえインドネシアでは大金ですので、そこまで深く考えてブルーな気持ちにならなくてもいいのですが、深く考えてしまう私は感受性が強いのかもしれません。

勉強の方は、私が自然に覚えた母国語を論理的に教える事が難しくて大変でした。「この教え方でいいのかな?」と悩む事もありましたが、教え方を試行錯誤するのも自分自身の勉強だと思い、あくまで自己流で通してきました。単に意固地なだけなのかもしれませんが・・・。毎週1回、お互いが必要とされているというのも楽しさの要因だったと思います。帰国前は、お互いの住所の交換や、私が撮影した写真の作品をプレゼントしたりと言葉で通じ合えない所を充分すぎるぐらい補ったと思います。

そんな彼も2001年5月に故郷のインドネシアへ帰って行きましたが、私が教えていたというより、こちらの方が色々な意味で教えられ たような感じでした。いかに自分が母国語を自然に学んできたのか?いかに人の存在を軽くみてきたのか・・・。感謝しているのは、私の 方です。いろんな意味を教えていただいたのも、私の方です。できる限り続けていきたいと思っています。人として成長し続けたいと願っ ている今の私ですが、どこまで行けるのでしょうか?

いろんな体験談をお待ちしております。
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