![]() | 大理1(Dali) |
| 山と、水と、民族と |
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あたりはまだ真っ暗で、電灯が一つ二つ灯っているだけで他には何も見えない。 ここはどこなのだろう。私には判断が付きかねた。 だがしかし他の乗客はごそごそと降り始める。運転手が全員降りろという。私は大理行きのバスに乗ったはずである。ならばここが大理なのだろうか。 半信半疑ではあったが私も自分の荷物を持って後に続く。 バスは乗客が全員降りてしまうと向きを変えて今来た方向へ走り去った。人々は各々暗闇の中へ散らばって消えて行く。やはりここが大理なのだ。それにしても何と小さな町なのだろう。 近くに先発の寝台車で着いていた例の学生三人組がいたので、彼らと合流して歩き出す。すぐにひっそりとした木造の街並になった。日本のどこかの田舎町の様にも見え、“キンチョー”の金属看板が現れそうな町並みである。 紅山茶賓館に到着。フロントにはまだ誰も居らず、15分ほどロビーのソファーで待っていると、やっと眠そうな目をこすりながら服務員が出てきた。13元のドミトリーにチェックイン。時計は午前6時を指している。 大理での生活が始まった。 |
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大理の話を人にすると、「大理石の産地かね」と言われるほどこの町は日本人には馴染みの深い名前ではある。しかし、その所在やどのような町であるかというのは今だに多くの人々の知らぬところだ。事実その名の由来となった町ではあるものの、産出量はたかが知れていて、知らずに訪れるならばこの石に特別注目することも無かろう。 大理を語るには石の事よりも、まずその景観の美しさから始めなければならない。すぐ間近にそびえる標高4000mの蒼山。満々と水をたたえる大湖、耳海(アルハイ、本当はさんずいに耳と書く)。少数民族、ペー(またはバイ)族の民。歴史の息吹を感じる古城の町、それが大理だ。 これほどまでに観光資源に恵まれているにもかかわらず、ここを訪れる旅行者は、学生か、私のようなカワリモノあるいはヘンジンだけというのは、昆明からバスで12時間も揺られて来なければならない便の悪さが最たる要因であろう。 だが、時代は刻々と変わる。1996年にはバスで30分程の下関に空港が出来る予定になっていて、これが完成すれば多くの旅行者もこの地を訪れることが可能になる。“LOOK”や“I'll”といったパックツアーのOLもどんどんやって来るであろう。大資本のホテルもどんどん建ち並ぶであろう。さらにきらびやかなリゾートマンションもどんどん林立するであろう。中国の”越後湯沢“の出現である。秘境の果ての知る人ぞ知る桃源郷、大理は、今がその最後の時なのかもしれない。 |
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深夜のバスの移動に疲れた私は、朝から寝入ってしまい、目が覚めるとすでに正午を回っていた。外に出てみると、空は突き抜けるような快晴で太陽が眩しく、爽やかな風が吹き抜けて行く。そして突然目に飛び込んできた蒼山の雄姿。山好きの私は、このロケーションに大いに満足した。 ホテルの門を出ると、目の前にチベタンカフェというのと、ハッピーレストランが並んでいる。私は迷うことなくハッピーの方に入った。 メニューは日本語で書かれており、あった、カツドンがあった。 他にも冷や奴だの、おじやだの、ヒレカツ定食だの、水炊き関西風なんてものまである。誰がこんなものを教え込んだのだ。 カツドンが出てきた。食べる。それは…、何と言うか、カツドンであった。それ以上のモノでもなければそれ以下のモノでもない。カツドンであった。 この世で一番旨いかつ丼は、久留米六ッ門近くの“かど八”のかつ丼であるが、むろん比べるべくもない。敢えて言うなら日本国内のレベルにして、中の下というところか。慣れぬ土地、慣れぬ食生活を経てここに辿り着いた旅人には魅力的な食い物ではあろう。だがしかし…、結論を言えば、『どうと言うことはない』 ここまで何かとカツドンにこだわって筆を進めてきた私としては、いささか無責任な気もするが、実際ここでカツドンを食べたのはこの時ただ一度のみであった。何も大理までやって来て毎日カツドンを食うこともあるまい。そして、ここにはもっと旨いものがいくらでもあったのだ。 繁華街、復興路に出てみると、幅10m程の道には人があふれ返っていた。民族衣装を着たおばさんもちらほら見える。朝歩いてきたこの木造の街並は大理のメインストリートで、様々な店が、大理城の南門から北門まで、あるいは北門から南門まで続いている。 大理はもともと大理国という一つの国であった。今でも当時の面影を充分残した城門が南北にあり、その荘厳な造りを見ていると、横山光輝の『水滸伝』の一場面を思い出したりして、エキゾチックな感情に浸ってしまった。 北門を抜けると多数の馬車が客待ちをしている。餌を食うウマ、小便をタレるウマ。 馬車は別にいいので山の方角に向かって歩く。右手に三本の、高くそびえる大理のシンボル、三塔が見える。
だからといって、このときの私に特別な感慨が湧き起こったわけではなかった。既に30を超えた私は、10代の若者の様な鋭い感性を失っているせいでもあった。若さとはやはり素晴しいもので、何を見ても、何を聴いても、何を食べても敏感な程感動があるものだ。 思えば私にもそんな時期があった。たった一つの音楽が一週間も頭の中で回って私を支配し、きらめく夜空の星々を見上げて、何十万光年彼方の宇宙空間を夢想し、自己の存在意義を模索して内向の世界をさまよい歩き、神経は極限まで純度を高め、研ぎ澄まされていった。 それが今では、無感動に昼食のそばをすすり、自己の存在意義など、ウマのヒる屁の様に思われる。 かようなことから、この絶景を前にしてさしたる感動もしなかった私であった。しかし、大理の本当の良さは日に日に私の心に染み渡ってゆくのであった。 |
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元来ナマケモノである私は、アクティブに名所旧跡を尋ね歩くというのが不得手なため、最初の三日間ドミトリーで一緒であった今出という男がいなければ、大理における有意義な行動などおそらく何もしなかったであろう。私は大理のシンボル、三塔寺さえ行っていない。 彼は北京在住の留学生で、この時すでに西双版納や麗江を回ってきており、彼の持つ語学力と情報に、私は大変重宝した。 二日目に彼の発案で蒼山中腹にある中和寺に登ることになった。登り道は途中で道を間違えてしまい、地元民しか使用しない急勾配の道なき道を登っていったので、21才の彼の体力に私はついて行けず、今さらながら自分の年齢を認識させられる羽目となり情けない思いをした。 殆ど瀕死の状態で、それでも何とか中和寺までたどり着くと、ここからの耳海の眺めは私の感性を以てしても美しいと思えた。対岸は視界に望めるが、北へ向かっては延々とどこまでも広がっていた。 中和寺の境内で茶を飲んでいると、大きな篭を背負ったペー族のおばちゃん達が8名やって来た。彼女らはまず境内の正面で熱心に参詣をし、それが済むとこんどは我々の隣にやって来て井戸端会議を始めた。 しばらくしてすぐ後ろの部屋に食事が運ばれ、おばちゃん達はゾロゾロと中に入って行く。 そのうちの一人のおばちゃんが我々に何やら話しかけてきた。一緒に飯を食おうというのだ。 好意を受けることにした。
みんなでテーブルを囲んで料理をつつく。ピーナツの油炒め、中国えびせん、スープ、菜っ葉の炒め物、そして白飯。 驚くべきことにこの菜っ葉は野沢菜であった。ピリッと辛く炒めてあるが、まぎれもなく野沢菜なのだ。こんなところに野沢菜があるとは。これは何という名前であるかと尋ねると、『野菜』としごくもっともな回答を返してきた。しかし漢字だけみると何やら名前からして似ているではないか。 この雲南、あるいはビルマ、ラオス一帯には、日本文化の起源と思われるものが数多く存在する。文化人類学に照葉樹林文化という一つの考え方があることをご存じのムキもあると思う。西はネパール、インド北部から東は日本の関東地方に至る地帯に分布する照葉樹林帯を生活基盤とした人々には、共通の文化様式が存在するというものである。 特にここ大理を中心とした東亜半月弧とも呼ばれる地帯は、日本の米、ジャポニカ種の原産地とされ、また、赤飯の原形とされる赤米もここに産し、これはちゃんと祝いごとのときに食されるという。他にも、味噌、納豆、こんにゃくなどの食物や鵜飼、歌垣、十五夜、結婚式の角かくしに至るまで我々日本人にとっては何とも興味深い。この野沢菜も何か関係があるのかもしれない。 私がこんなもっともらしい事を述べるので、また随分ニワカ人類学者になったものだと人は笑うかもしれない。しかしそれは失礼というもので、何を隠そう私は大学で文化人類学を修めているのだ。よって、つまり、この道にかけては専門家なのである。返すがえす言うが、人よ!私を見くびってはいけない。 |
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翌朝、DATで“Back In The U.S.S.R.”を聴いていると、同居人のドイツ人のマリファナおやじが私のヘッドホンから漏れる音を聴いて、 「ビートルズ!」 とニコニコ笑う。 さらに留学生今出が起き出してきて、レッドツェッペリンをリクエストするので、ラジオからガンガン流して朝から二人で盛り上がっていた。これは私の秘策で、DATにFMトランスミッターを接続し、ラジオに飛ばして出力するのである。 私は浄水筒やら何やらかような小物をいくつも持ってきていて、それなりに使用しては楽しんでいた。なにも旅には不必要なものは持って行くべからずなどと大上段に構える必要はまったくない。それぞれが楽しめると思われる物はどんどん持って行ってよろしい。 そのせいで荷物が五○キロになろうが一トンになろうが一向に差し支えない。逆に歯ブラシ一本で行くも良かろう。自分らしい旅をするのに決まりはないのだ。 だがしかし、物には限度があるのもやはり事実ではある。 チベタンカフェで朝食。ポテト、パン、目玉焼のセットに、コーヒー、ヨーグルト。店内にはサンタナの“ブラック・マジック・ウーマン”が流れている。この雰囲気の中、とても中国の奥地にいるとは思えない。 この曲のヴォーカリスト、グレッグ・ローリーは、私の最も敬愛するミュージシャンのひとりで、ウッドストックのサンタナバンドからジャーニーに至るまで、地味ではあるも華々しい経歴を持っている。卓越したキーボードは言うに及ばず、何よりも私を魅了するのはこの分厚い、しかも光沢のある独特のヴォーカル。限られたロックマニアにしかその名を知られてはいないが、このあまりにも有名な楽曲のおかげで、彼の歌声が人々の耳に届く機会は多い。 復興路の商店街を留学生今出と二人で冷やかして歩く。衣料品屋には藍染めのパーカーやぼうしが掛けてある。ときどき赤や白を配色したかわいい子供用の民族衣装も見られる。 民族衣装を着ているのは、ほとんどが年配の女性のみで、若い娘の衣装姿はまずめったに見ることがない。これもやはり時代の流れなのであろう。日本の女性たちが日常生活で和服を放棄して久しいが、ここでも今同じことが進行しているのだ。ただ彼女らが民族衣装を嫌いになったということではもちろんなく、三月街などの祭の日や特別な晴れの日には、きらびやかで重厚なその民族衣装で着飾るのである。要は日本の晴れ着と同じである。 年配女性の衣装姿は地味で、青か、紺か、黒の配色が多い。写真で見るような色彩豊かなお嬢さんの姿を見てみたいものだ。 カセットテープ屋に近づくと、大音響ではやり歌がかかっている。昆明ではまだCDを見かけたがここまで来るとカセットテープのみ。 このころ中国で流行していた曲は何といっても“花心(ホワシン)”である。この曲は喜納昌吉の名曲“花”の中国語版で、横浜からの船の中でもかかっていたが、中国内旅行中、ほぼ一日に一度は耳にするほど流行っていた。中国語圏音楽業界の中でも空前の大ヒットなのだそうだ。 他にも“小芳”“新鴛鴦蝴蝶夢”などの曲をよく耳にした。留学生今出は、「シェシェーニーゲイウォダア〜イ」としきりにこの“小芳”を歌っていたが、彼が西双版納で出会った旅行社の美人がこの歌を教えてくれた由で、留学生今出は、彼女と別れるときその美人に「あなたは行ってはいけない」と泣きつかれたそうだ。なるほど、彼は色男である。 さらに色男二人は商店街を練り歩く。電気屋には現代感覚の素晴しいデザインのミニコンポがいくつも並んでいるが、日本製品は見当たらない。すべて中国製で、値段は日本円にして八○○○円くらいなもの。性能の程はわからないが、ずいぶん安い。日本製を置いてみてもここの人々には購買能力がないに違いない。
ほとんどジョーダンの世界である。 商店街には店舗以外にも露店がたくさん並ぶ。生鮮野菜や耳海で採れたと思われる大きな生きたフナ、ピーナツ、清涼飲料などが売られ、新彊ウイグルから来たとみられる干ぶどう売りもいる。この店主はやはりウイグル人なのだろう、その独特な長いあご髭をはやし、数種類の干ぶどうの袋を並べる。残念だったのはここにはパイナップルがない。 夕方、色男今出は昆明に発っていった。彼はまた極寒の地、北京に戻らなければならなかった。彼の留学生活の健闘を祈る。 |
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夜、八時頃ハッピーレストランに行くと、それほど広くもない店内は客で一杯で、そのすべてが日本人であった。 おじやを食べてみたがまあまあである。ヒレカツ定食も案外といけるが、水炊き関西風は、興味のある人は食べてみるのも良い。 冷えた大理ビールはライト感覚で結構うまく、値段が一本3元とコーラよりも安いので(コーラは4.5元もする)毎日水代わりに飲んでいた。 青島ビールがうまいのは、戦前青島がドイツに統治されていたときにその製法が伝えられたためで、これは日本のビールと遜色ないが、8元とばか高い。中国人はおおむねビールを冷やして飲む習慣がないが、外国人向けレストランではちゃんと冷えて出てくるので、うれしい。 日本人ばかりで旅の話。 西双版納へは昆明に一度戻らなくてはいけないと思っていたが、がんばれば大理から直接行けるルートがあるという。30半ばくらいのいかにも旅人風の男が言う。 「あの道は昔は悪かったんだ。今は舗装されてずっと良くなった」 これから西双版納へ南下しようか、麗江へ北上しようか。麗江では少数民族納西(ナシ)族の音楽会が聴けるという。これも捨て難い。 このようにして旅行者のたまり場は、情報交換の場ともなる。 またひとりの30過ぎと思われる男が来て、 「蒼山の頂上までは登れますかね」 と物騒なことを聞く。 「無理でしょう。何しろ私は中和寺に登っただけで死にましたからね」 「大丈夫です。私はヒマラヤに登ったことがあるんですから。蒼山の頂上からはヒマラヤが見えるそうですよ」 勝手に行けばよろしい。 さらにこれも30代と思われる色黒の男は、 「いやあ、きのう未解放の町に泊まってね、公安に見つかって罰金100元とられた」 店内には学生達の方がはるかに多く、中にはかわいらしいギャルもいたはずだが、記憶に残っているのはこの様な“年配”連中ばかりだというのは、私が同年齢層だということだけであろうか。 それにしても日本人ばかりでワイワイガヤガヤと酒を酌み交わして騒いでいると、またしても今朝方の思いが蘇ってきた。 ここは本当に中国の奥地なのだろうか。
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