横浜〜上海

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横浜〜上海(Yokohama to Shanghai)
上海航路、ぶらり気ままに

夕方の横浜新港埠頭は旅立ちを演出する舞台としてはまずまずの出来であった。

瞬き始めた街の灯り。みなとみらい21の大観覧車はよく見るとわずかばかりに動いており、夕映えに富士のシルエットが遠く浮かびあがる。

ラウドスピーカーからマーチが鳴りだす。
約束事の様に見送り客と船は幾ばくかの紙テープでつながっているが、トイレットペーパーを試みたお調子者がいたりしてなかなか愉快である。

さらば、ニッポン
私は船の最上階の甲板からそれらの光景を眺めていたのだが、後でわかった事だが、この時見送り客の中に私の友人が一人まじっていたらしい。彼は私の事を視認していたらしいのだが、そのような男が潜んでいるとは露程も思っていなかったため、私は一人若干の感傷をもって岸を離れたつもりであった。

夕闇の訪れた東京湾は、見上げるベイブリッジや京浜工業地帯の照明、行き交う大小の船など、普段目にしないアングルからの光景が展開され、そして行く手はどんよりとした闇。僅な恒星、または惑星だろうか、あんがいと鋭い輝きを放っている。

船室は四人部屋。私以外は皆中国人で、仲間同士らしく何やらワイワイと話しあっている。ひとりはひょろりと細長い男で、もう一人はいとこのケイジに似ている。あとの一人はモロその筋という感じで、睨まれでもしたら震え上がってしまう。もしやスネークヘッドの一味ではなかろうか。とにかく、いきなり中国人の中に入れられて何だかよくワカランのでロビーに出てみる。

ざっと見たところ中国人の割合が妙に多い。7、8割は中国人という感じだ。これは中国の正月である春節が近いためであるらしい。まあそれでなくとも普段でも中国人の利用の方が多いとのこと。

それにしても乗船前に彼らが持ち込んだ荷物には圧倒された。ラジカセや29型のカラーテレビなどの家電製品の山。果ては400ccのバイクまでもある。あのバイク氏、最新鋭のホンダにまたがり風切り走る姿はまさしくヒーローとなることだろう。

大部屋では、日本人大学生とおぼしき連中がザコ寝して、わいわいと盛り上がっている。いずれも正統派バックパッカーといういでたちで、“地球の歩き方”片手に中国談義というところか。彼らは貧乏旅行に徹するらしく、レストランでエビフライ定食などを食べたりはしない。自動販売機の赤いきつねをすすっていたりする。

ここの自動販売機はビールとジュースが150円と同じ値段であった。免税のなせる技だが、つまりビールもジュースも本来同じ値段だということか。酒税とは随分高いものだ。

日本の貧乏学生とは対照的に、中国人達は実によく食べる。レストランでテーブルに並びきれぬ程料理をとり、喧々囂々と語らっている様は何やら喧嘩しているようにも見えるが、別にそういうことではない。

私は大学生諸君より僅かばかり大金持ちであるゆえ、レストランの中央にでんと陣取ると、ぎこちない振る舞いのウエイターを呼び寄せ、エビフライ定食とビールを注文した。中華もうまそうだったが、和食はこの船で食い納めだろうと思ったのである。

運ばれて来た和食は、エビフライも冷や奴も超ド級で、やはり中国的である。と言うより日本の感覚がみみっちいのだ。これは日本と中国との対比のみならず、世界を向こうにまわしても言えることである。かつてニューヨークのデリカテッセンで買ったサンドイッチのいかに大きかったことか。日本に来たアメリカ人がハンバーガーショップで、氷ばかり沢山詰まったコーラに憤慨している場面に出くわした事もある。この先の旅行先でも料理の分量は多すぎこそすれ、少ないと感じた事は概してなかった。これを日本人の美学と言う人もいるかもしれぬが、そこらのソバ屋のエビ天が小さいのを美学などと私に納得させるのは、たとえテイターンの一族でも不可能であろう。

胃袋が心地よく脹らんだ私は先程のぎこちないウエイターに勘定を済ませた。1300円なにがし。まずまずである。隔離された船内ではもっと高いと思っていた。
後で同室の“ケイジ”君に話すと、
「これは中国の船だから、それは随分高いものなんだ」との答。


翌朝起きると船はまだ潮岬沖である。朝食を済ますと後はすることも無い。これは私にとって天国とも言うべき状態で、甲板からゆっくりと動く日本列島を眺め、飽きると部屋に戻って本を読み、ロビーで衛星放送を観ていると昼食の時間。きつねうどんを食べ、部屋に戻るとゴロリとひるね。むくりと起きて甲板に出ると冷たい潮風が心地よく、さてここはどこかと見てみると未だ室戸岬のあたり。ロビーで無料の茶をすすり、また部屋に戻ってレニークラビッツなどを聴いていると、外はいつの間にか暗くなっている。

8時頃からレストランでカラオケ大会が始まる。外から察するに参加者の中には天才歌手はいない模様で、僅かばかり迷惑な熱唱が船内の隅々まで響きわたる。私が参加したなら、たちどころに賞品をかっさらってしまうところだが、そのような大人気ないことはしない。そもそもカラオケとはうまく歌ってはいけないもので、適度に音程をはずすのが他の参加者への礼儀というものだ。無論すべてのカラオケ愛好家はこの掟を厳粛に守っているわけで、そうした中で私は常にヒンシュクをかってしまう事から、カラオケをめったに歌うことはない。天才は辛いのである。

夜11時、船内は日本時間から中国時間へと一時間巻き戻される。気分はまた一歩中国に近づく。

翌朝、佐田岬沖を通過。左手には屋久島が大きく見える。


朝食はスネークヘッド氏と食べる。彼は別にスネークヘッド関係者というわけではなく、名を蔡さんといって話しをすると穏やかに、やさしく語る。日本語は堪能で、四年ほど都内で働いていたという。我が部屋の三人の中国人諸氏は別段仲間でも何でもなく、この船で初めて会ったとのこと。

中国人というのは列車などでたまたま居合わせた他の乗客とも、すぐに10年来の友のごとく振る舞い始める。そして意気投合して別れを惜しむかと思えば、それではと言ってあっさり去って行く。別段住所交換なんかしないのである。日本ではこうはいかず、いきなり親しげにするなら、めんどくさがられ、うさんくさがられ、ブキミ悪がられ、ついには公安を呼ばれ、騒音罪で逮捕される事になる。したがって日本ではどんなことがあっても他人と話すことはならず、寡黙を保つことによって同胞意識を共有し、しかし社会を運営するのにコミュニケーションが必要な事から目線や仕草のみで会話が出来るようになったため、近ごろの若者は女の扱いがうまくなった。これらは、わび・さびやタテ社会といった日本独自の文化に起因しているのであるが、くわしくはベネディクトやキーンの書物を読むといい。

屋久島を過ぎて東シナ海に入る。
この水平線の先にはユーラシアの大陸がある。
東シナ海に出てしまうと海上で目にする物は何も無くなり、日本の衛星放送も入らなくなる。代わりにロビーのテレビは香港映画が始まり、中国の人々が熱心に見入っている。
だんだん乗客の中に顔見知りも出来始め、情報交換やお互いの目的地の話しなどをするようになった。八王子から来たある大学生はゼミの仲間との旅行である由。目的地をたずねると、
「昆明です。」
と答える。
「クンミン?」
「ええ、コンメイと書く、雲南省の、そう南の方です。」
「ほほう…」
人は色々で、また随分変わったところへ行くものだ。
「して、あなたは?」
「わたしは、ウルムチからカシュガルまで行くつもりで、状況が許せばキルギスタンなど中央アジアの方まで行ってみたいですね。」
「それはまさにシルクロードですね。でも今はむちゃくちゃ寒いらしいですよ。」
まあ寒さなどどうということはない。聞くところによるとこの船に以前カシュガルからパキスタンへぬけ、インドまで行ったことのあるツワモノの女がいるという。なるほど、やはりそんなのがいるか。
田辺という大学生は、赤いきつねをすすっていた男であるが、西安から成都へ行くらしい。やはり大学生が多く、30過ぎの放浪者など私ひとりといった感じ。

上海到着日である翌日、船は濃い霧に包まれる。視界は20mといったところか。このため船は沖合いで停泊を余儀なくされる。いつのまにか海面は泥色をしており、中国大陸が近いことを思わせる。

蔡さんが私の一人旅をずいぶん心配してくれる。私が上海から列車でひとまず北京まで行く予定だと言うと、見どころを教えてくれる。上海、蘇州、無錫、南京、泰山、北京。何かの歌の様ではあるが。そして上海で何か困ったことになったらここへ連絡するようにと、蔡さんの住所をおしえてくれる。スネークヘッドどころか、なんと心の優しいお方なのだろう。人を見かけで判断してはいけない。

霧の中の甲板で東京の女子大生と話す。三週間の短期留学の後、一、二か月中国を旅してまわる予定であるという。結構ロマンティックなシチュエーションだったのだが、上海を目の前にして彼女はそれどころではないらしく、それ以上の展開はナシ。

どこかで私の事が話題にのぼったらしく、斎藤と名乗るこれまた大学生がやってきて、彼もウルムチへ行くというので情報交換。もっともこの時点での情報交換というのは、お互い持っている情報が似たり寄ったりで、特別実のある話しなどない。まあ雑談というところか。重要な情報はやはり現地に行かなければ手に入りはしない。しかし目的地の同じ人がいるということは、嬉しくもあり頼もしくもあるものだ。
「それではウルムチで会えるかもしれないね」
などと数名の“仲間”達と上海上陸前の楽しい語らい。

船は予定よりかなり遅れているが、すでに長江に入っているもよう。やがて支流の黄浦江に入る頃には暗くなってきた。

船内アナウンスが上海到着を告げる。あのぎこちないウエイターがベッドのかたずけをはじめる。ロビーに行くともう乗客達が、顔見知りの学生達が、思い思いの荷物を持って下船を待っている。船外はくすんだ上海の街並。

ついに船は岸壁に横付けになり、階段が取り付けられる。波止場には迎えの人々。

五、六名の係官が乗り込んでくる。半数ほどは女性である。さすがは男女平等の国だわいと感心するが、さらにみな美人であるのでなおも感心する。もっともこの人達結構怖いらしい。

20分程で下船開始となる。コンクリートの地面がずしりと頼もしい。

イミグレーションを簡単に抜けるとそこは迎えの人手でごった返していて、とりあえず建物の外に出て顔見知り連中を待っているが、なかなか出てこない。

周りは中国人の雑踏。なんだか不安。

そばにいたやはり日本人学生風二人が中国語会話の本を開いていると、珍しいのか人が集まってきて、あっという間に人垣に囲まれてしまった。思わず日本語で、
「おっかねーなあ」
と言うと
「コワクナイ、コワクナイ」
と一人から言葉が返ってきた。

結局どうも出て来ないので、一人で行くことにした。ドミトリーの席取りですでに皆行ってしまったのかもしれない。

1994年2月7日19時40分、一人上海の街へくりだした。




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