貴陽

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貴陽(Guiyang)
少数民族の祭

151次上海発貴陽(グイヤン)行き直快。

軟臥車のベッドでDATから流れる“Rocky Raccoon”。窓外はどこまで行っても起伏の乏しい赤茶けた農村風景。

ポプラの類の並木が縦横に走り道の在りかを示していて風景のアクセントになっているが、この並木の存在がなかったなら、広漠としたこの大地に人はざらざらとした感覚のしびれと寂しさを感じるだろう。

終点貴陽までの2泊3日の列車の旅が始まった。貴陽に到着後、その日の昆明行きに乗り換えて、目的地昆明に着くまでは実に3泊4日、2700Kmの旅となる。

この長旅を決行するにあたって、普通座席の硬座に乗る忍耐と体力が私にないことは明らかであったので、最上級の軟臥を奮発した。
これは4人用のコンパートメントで、快適な旅が出来るようになっている。が、期待していた程きれいでなく、ふとんも枕も汚れていて、荷物置き場には何かをこぼしたあとのベトベトしたものが張りついていたりして、日本円で1万何千円も払ったのになあと少しがっかりしてしまった。
しかも同室の一人の男がヘビースモーカーで、換気は利かず、部屋中が煙で充満し、特に私は2段ベッドの上であったので危うく窒息するところであった。
ところが後で硬座を見に行ってその惨状を目にした私は、ここが別天地であることを思い知らされる。

ゆったりした列車の旅はやはりいい。数ある乗り物の中で列車より旅情をかきたてるものを私は知らない。
大地を進む振動と揺れは安心感と頼もしさがあり、速度は人間の感覚に最も心地よいスタンスを持っている。
中でも食事は最大の楽しみで、食堂車で作った弁当もちゃんと車内販売で売りに来るし、途中停車駅のホームでは果物、菓子、饅頭(マントウ)、にわとりのアシ(ももではなく、3本指の部分)など、様々な食べ物、飲み物を売っていて、それらを見ているだけでも旅情はさらに高まる。

レールのつなぎ目は、かたりことり、かたりことり、かたりことりと規則正しくリズムをきざむ。時折ポイントが連続したそのリズムを乱し、そしてまた、かたりことり、かたりことり。

夜、単線の対向列車の待ち合わせで停車していると、蒸気機関車が己の存在を誇示するかのごとく警笛を鳴らし、傍らを駆け抜けてゆく。

列車は南へ、南へ。大陸は広く、旅はまだまだ長い。

三日目の朝、貴陽駅の改札を出て目にしたものに私は言葉を失った。

駅前の広場は真っ黒である。人、人、人。切符を手に入れるために集まってきている大群衆である。
この中のひとりになって
切符を買えというのか!?
もう何日もここにいるらしく、大荷物の横に座り込んでいる男の顔には疲労の色が濃い。ぼろ布に潜り込んで折り重なるように眠る若者たち。かわいそうに年ごろの娘が朝露に髪を濡らしてへたり込んで眠い目をこすっている。今日発売の列は駅舎から蛇行して広場に続き、その人々は割り込みをされないように前の人間に後ろから抱きつくようにしてぴったりとくっついている。前後が男も女もない。皆表情は殺気立っている。

人口12億という数字が初めて実感された瞬間であった。

大変なところへ来てしまった。切符売り場はどこだ?いや、たとえ判明したところでこの状況下で私が切符を手に入れるのは絶対に不可能であろう。こんなことなら昆明までの直通に乗ればよかった、と後悔してもあとの祭。もはやどうにもならぬ。
私は茫然自失となり大群衆の中で立ち尽くしていた。

方策を考え巡らした私は、とりあえずCITS(中国国際旅行社)のオフィスへ行くことにした。
町の中心部である噴水池交差点近くのCITSのオフィスを探し出して切符の手配を頼むと、やはり2、3日は無理だという。あの群衆は春節の帰省客である由。

結局しばらくこの町に足止めを喰うことになってしまった。
まあ急ぐ旅でもない。気楽に行こう。

情報を確認するからあとでもう一度来てくれと言うので、とりあえず宿を確保することにした。

金橋飯店というホテルの1泊20元のドミトリーにチェックインすると3人用の部屋には一人先客がいるらしく、しかもその荷物を見ると、どうやら日本人であるようだ。
備え付けのジャスミンティーの葉にお湯をそそいですすると、やっとひとごごちついた。

貴陽は貴州省の首都である割には小さな町で、噴水池の周辺以外は高いビルもなく、物質的にもあまり豊かとはいえない。
訪れる観光客も多くはなく、当然人気もそれほどあるわけではない。

ただこの近くにはミャオ族、ブイ族といった少数民族が多く住んでいて、興味のある人には魅力のある地域である。

貴陽の一角で見た麺打ち
またここで有名なのが小吃(シャオチ)。
昼頃から街の通りには様々な小吃、つまりちょっとしたおやつ的な食べ物の露天が軒を並べる。餅の様に網で焼く臭豆腐(ツォードウフ)、うどんに似た麺で汁の赤い米綫(ミーシェン)、肉まんの類、カラフルなゲル状ののもの、数え上げたらきりがない。
絲娃娃(スーワーワー)というクレープの皮の様なものに、野菜やら肉やらの具を好みに応じて包んでくれる小吃があるが、年ごろの娘が具をゆび指して選んでいる時のうれしそうな表情が何とも微笑ましい。

南方であるせいか果物の種類が多く、“日本の富士”と書かれたりんごや色鮮やかないちご、バナナ、パイナップル、さらに名前の判らぬ果物などが道のあちこちで売られている。
パイナップルは、皮をむき、芽の部分をひとつひとつ三角に丁寧にくり抜いてゆくが、これが素晴しい造形を生みだし、人によっては螺旋状の、まるでコンピューターグラフィックスで描かれた様な見事な幾何学模様を造り出す。まさに職人芸である。
これを四つ割あるいは八つ割にして棒にさして売っているのだが、その新鮮さ、ジューシーさ、甘さに私は狂喜し、手元の記録によるとこの日に4本、翌々日に7本食べている。

CITSに行ってみると、貴陽駅の二階に貴賓室があって、外国人はそこで優先的に切符が買えるという。たった2倍の料金であの群衆相手に切符争奪戦をしなくて済むのだから、これはもう外国人優遇制度に感謝せねばなるまい。

早速私はミニバスに飛び乗ると駅へと急ぎ、尚も集まる大群衆を掻き分け、飛び越え、ニラミツケ、二階の貴賓室、つまり上級車客用待合室の窓口へ辿り着いた。
切符発売開始。
割り込み、殴る蹴るの大乱闘。
まさに生存競争だ。

「チンウェン・イーシャァ(ちょっとお尋ねします)」

と息も絶え絶えで我ながら情けない声で呼びかけると、奥から女性駅員が現われた。

駅員は私にパスポートの提示を求め、まずそれを開いて穴が開くほど凝視すると、今度はページをめくってビザを発見して大いに感心し、更にひっくり返したり匂いを嗅いだりしてからパスポートを私に戻すと、明日の切符は明朝8時に売り出すから、その時間に来いとぶっきらぼうに答える。
切符は当日の朝8時にしか売り出さないということらしい。

ホテルで同室の日本人は宮本という名の29歳の男で、ここにもう一ヵ月半も住み付いていた。

彼の場合、旅というよりもはや生活と化してしまっている。いでたちは、完全に中国人に同化しており、風貌ははなんだか沢田教一といった感じ。ピューリッツァー賞の沢田教一である。

またヘンなのが現われたなあと哀歓が錯綜するが、向こうは向こうで同じことを考えたに違いなかろう。そんなに長く滞在する理由をたずねても何だか要領が得ないが、人は人、それぞれに考えがあるものだ。
また、彼もこの貴州、雲南には大変詳しくて、私が大理へ行くのだと言うと、

「あなた大理へ行ったらビザの期限全部使い切ってしまうかもしれませんよ。そういう人、多いんですよ」
などとのたまう。

私の最重要目的についても聞いてみた。

「ハッピーレストランには、なんとカツドンがあるそうですが」
「ああ、あれね。まあ確かにうまいですよ」

腹が減ってきた...

彼がいつも行くという飯屋で夕食をとった。
一見薄汚ない感じでの店で、ひとりでいたならおそらく入りはしなっかったろう。ところがあっぱれ、出された料理はこれがめっぽううまい。
中国に来て以来やっとうまいといえる料理にありつくことが出来た。なるほど、うまい食い物はこういうところにあったのか。
しかもにんにくの芽の炒めものに豆腐と野菜を煮たもの、スープとご飯で二人で10元!(130円)今日のパイナップルといいここの料理といい貴陽に来たことは大正解である。

以後、ここでの経験から私は食い物に困るということがなくなった。どのような町でもそれなりの店を探し出す術を習得したのである。

ホテルではドミトリー客用のシャワールームが無いので(昼間服務員に尋ねたら、トイレの洗面台で洗えと言われてたまげた)、二人で従業員用のシャワールームに忍び込んで長旅の疲れを落とし、うまい料理で腹も満ちている私は、その夜至福の時を過ごしたことは言うまでもない。

彼はやはり少数民族に興味があってここに長期滞在をしている由で、この日も近くのミャオ族の祭を見学してきたという。
そんなに入れ込むところをみると、学術調査か何かであろうかと尋ねてみたが、そうでもないらしい。明日は今度はもっと山奥の村へ行くのだという。

この話は私にとっても大変魅力のある話であった。
というのも今回の旅行で私がわざわざDAT(デジタル・オーディオ・テープ)というハイテク機器を持ち込んだのは、何も音楽を聴く為だけではない。ユーラシアの各地に生きづく民族音楽を行く先々で収録して持ち帰ることが出来たらという希望があったのである。

早速彼に私の意図を説明し、同行させて貰えぬものかと願い出た。

すると彼はしばらく考えあぐねていた様子だが、少しすると、まあいいでしょうということになった。ただし、

「これは私が足で稼いだ情報なんですからね」

と、しっかり釘を刺されてしまった。

彼は私のDATに一応の興味を示したが、それ以上にカメラに興味がある様だった。

「カメラはどこのですか」
「フィルムはポジですか、ネガですか」

恥ずかしい話で私はカメラに関してはズブの素人。コンパクトカメラ以外今までほとんど手にしたことはない。

初めての海外旅行で行ったニューヨークでさえ“写るんですフラッシュ”を一つ持って行っただけであった。
ウォール街の証券取引所を見学した時のこと、入場の際カメラ持ち込み不可であったので入り口でこの“写るんです…”を預けると、ずらりと並んだ本格的カメラの中で、私の“写るんです…”はひときわ燦然と輝いていた。
ひどいもので私はカメラに対して、それ位の感覚しか持ち合わせていない。

ただ今回は長期の旅行になる事だし、未だ見ぬ大自然を出来るなら良い写真として残したかった。
そこで今回は思いきってキャノンの一眼レフを購入した。このキャノンは、バーコード入力なる裏ワザを備えていて、カメラ音痴の私でもソコソコの写真を撮ることの出来るスグレモノである。

私は得意になって自慢のカメラの講釈をタレたわけだが、結論を言うと私がこの様なカメラ音痴であったからこそ、翌日の素晴しい体験を得ることになったのである。

翌日、山奥へと続く曲がりくねったダートの道を2時間ほどバスに揺られて目的のミャオ族の村に入った。

村に着き、バスが停車すると、何とした事か、扉が開くと同時に外から客がなだれ込んできた。まだ中の客が降りていないのにも関わらず、だ。

これが中国人の悪いところで、人の迷惑を顧みず、とにかく己の権利だけを必死に得ようとするマナーの欠如。

出口付近はもう大混乱で、バスの最後尾にいた我々はその戦いに参加するのを放棄して、やむなく窓から脱出した。

脱出したそこは村の中心部なのだろう、日本の平均的小学校の校庭程の面積の広場であった。傍らのバスケットコートで試合をしている。

宮本によると、この辺りでは何かのイベントの際は大概バスケットボール大会が催されるとのこと。どんなものかと覗いて見ると、レベルはまあ中学の球技大会といったところである。

この広場で祭が行われるらしいのだが、まだバスケットの見物人以外は人もまばらで、ただピーナツやさとうきび、何かの揚げもの等を売る出店がポツリポツリ現われ、開店の準備を始めている。

祭のハイライトの踊りが始まるまではまだだいぶ時間があるので、宮本と別行動をとって辺りをぶらつく。

小さな商店があったので入ってみると、そこには生活物資が売られている。缶詰、酒、水、トイレットペーパー、電池、農機具等が並び、ショーケースの中には茶碗やビスケットの隣に何足かのスニーカーが並んでいる。種類は選べないが、なんでもあり。

他の建物の中では子供たちがビリヤードにふけっている。こんな所でビリヤードにお目にかかるとは予想もしていなっかたが、結構器用に玉をはじいている。

ミャオ族の少女
方々から広場に人が集まり始めた。
多くはミャオ族だが、ブイ族の姿もちらほら見える。女性は皆色鮮やかな民族衣装を着ていて、祭の華やかさを演出し始めている。

出店も既に営業を始めていて、中でも一番の人気はさとうきび屋である。
長い竿の様なさとうきびは30B位に切り揃えられてむしろの上に並べられ、客はどれがうまそうなのか真剣なまなざしで品定めをしている。
ピーナツ屋は客のハナタレ小僧から金を受け取ると、小僧のズボンのポケットにひとすくいのピーナツを流し込んでやる。
ここでも祭には出店が必要で、その楽しさというのはどこの国でも同じなのだ。

さて、宮本はどこへ行ったかと探してみると、広場の隅で民族衣装の娘や親子を被写体に、シャッターを切っている。
近寄って彼のカメラバッグを覗いてみると、私には理解出来ない機材が整然と格納されている。

ここでやっと彼が私を手放しで連れて来たくなかったわけがわかった。彼はフリーカメラマンであったのだ。
つまり自分が苦労して開拓したテリトリーを人に見せたくなかったのである。もし私が同業者であったなら、彼の損害は図り知れぬものになっていたであろう。

ふと気が付くと、バスケットコートの横のコンクリート製の舞台に、ひときわ着飾った娘が6名横に一列に並んでいる。

頭には黒いターバン状の大きなかぶりものをかぶり、色とりどりの花の様な大きなリボンを付けている。上着は赤、青、白、黄色の原色を品良く配置して、首からは幾重もの針金状のネックレス。スカートは黒。その下に黒のズボンをはいている。ターバンとスカートの黒が上着の華やかさを引き締めて、かつ際立たせている。

さらに青年が四名やはり黒いターバンに紺のコートの様な衣装をまとい、手に芦笙(ろしょう)という民族楽器を持って壇上に上がってきた。

この芦笙は日本の雅楽にある笙と同系のもので、ミャオ族やラフ族など大陸南方の山岳民族にしばしば見られる楽器である。
さあ舞踏の用意は出来た。

私は早速舞台の下からマイクを構え、DAT起動させた。

すると、壇上にいた老人が私に向かってここへ上がって来いと手招きをする。私をマスコミの取材か何かと勘違いしたのだろう、もっと良いポイントを提供してくれるというのだ。

この老人は祭を取り仕切っている村長であった。私がここぞとばかり壇上に上がると、村長はそこらにいた子供たちをみんな払い除けて私をまねき入れ、さあ存分に取材して下されと態度で表わした。
こうなると私も調子に乗ってしまい、ものものしいヘッドフォンをし、マイクスタンドなども立て、さながらNHK取材班という感じであった。

祭りのハイライトがはじまった。
色も彩な男女が円を描き、芦笙の音に合わせて舞い踊る。くるりと回り、飛び跳ね、頭のリボンがたなびき、金属の装飾品がカチャリと音をたてる。芦笙の素朴な旋律とその割には重厚な和音。時折男が女を肩に乗せるアクロバット的な場面も展開され、観客はワッと歓声をあげる。

傍らでは宮本がシヤッターを切りまくっている。

中国人らしいカメラマンもいる。

この舞踏自体は小さな小さな、特別学術的価値のあるものではなかったかもしれない。しかし私は、初めて目にする少数民族の踊りに、衣装に、祭に、いいしれぬ感慨を味わったのであった。

またそれと共に、宮本の好意に対して大なる謝意を感じざるを得なかった。
この踊りは三○分ほどで終わった。帰りのバスが入ってくる。また中国人との闘いである。

我々はその村をあとにした。




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